彼女は入学する
それは、天を衝く五つの塔と、その間に張られた幕のような壁を持つ広大な建物だった。
上から見れば、ちょうど正五角形に見えるだろう。そしてその周りを、さらに特殊な柵が囲んでいる。白亜の塔は五つ全ての高さが一致せず、手前が一番低く、奥が一番高い。その間にある壁は廊下になっており、一見ただの煉瓦造りだが魔法によって強度を増しているらしい。
その五角形の一番手前に当たる頂点、一番低い塔の前には、真新しい外套を身に纏った十代前半の若者たちが右往左往している。
その中に一人、足取りに迷いがない人影がいた。
艶やかな短い黒髪は、洒落ているためではなく纏めるのが面倒なために伸ばしていないだけだ。目はやや釣り目がちで、人によってはただ見ているだけで睨んでいると勘違いするだろう。腕や脚の細さはもとより、胸元から腰にかけてまでの曲線は、年齢を考慮してもなお幼く感じられる。
そんな少女だ。
「大きいな……」
少女は呟く。
しかし、それでも感嘆には及ばない。
つまらない見栄ではあるが、自分が住む屋敷の方が華やかであると感じたからだ。
八歳の時から暮らし始めて五年になるあの家は、まだ十三の少女の目から見てもキラキラしく鮮やかだ。確かに大きさという面で考えれば大きく劣るどころか比べ物にならないものの、それを気にするような人物はどんな貴族でも存在しないはずだ。
その建物こそが、世界に名高い魔法学校。
正式名称“エルセ神秘学園”
このアード国に点在する学校施設の中でおそらく最も有名な場所である。
今日から少女が通う学校だ。
「…………」
少女の表情は硬い。
しかしそれは緊張からくるものではなく、彼女元来の性格である。義母からポーカーをやらせたらきっと最強だと太鼓判を押された能面は、数々の入学生を気圧してきた学園の雄々しさをもってしても崩すには至らなかった。
少女はまるで住み慣れた街の商店街に行くような歩みで前進する。その様はとても初めての登校をする新入生ではない。
周りで学園の広大さに圧倒されている同級生をよそに、少女は平然と門をくぐった。
馬車がゆうに三台は並んで通れる程巨大な門だ。少女が読んだ学園の小冊子には、この場所以外からの進入は魔法で防止されていると書かれていた。
「…………」
少女の歩みが徐々に速くなる。
正直のところ、学校などに通いたくはなかったのだ。自分は間抜けではないし、学校などに通わなくとも生活している人間はたくさんいる。なんなら今すぐにでも独り立ちできるだけの自信もあった。通いたい人間は通えばいいが、自分はそうではないと、何度も問答を繰り返した。
しかし、義母の言い分も理解できないわけではない。
せっかく魔法を扱えるのだから、学んでおいた方がいいと。将来の視野を広めるという面では有意義であると。その言葉が正しいことが分からないわけではない。
しかし理解できるのと納得できるのとでは意味が違うというものだ。
結局、最後に弱みをちらつかせて相手を屈服させることに成功したのは義母の方であった。
少女は歩く。
とても不機嫌に。
入学試験があると聞いていたのに、行われたのは魔力適性の高さを測るだけだった。聞いた話によると、力のある貴族の倅が幅を利かせている。そもそも同年代の人間と話すのが嫌い。
来たくなかった理由を挙げればキリがない。
全寮制の為、家に帰ることが滅多に無くなってしまうのも頭が痛くなる。
聞いたところによると飛び級という制度があるらしいが、少女はまず間違いなく無縁の話だ。少女は、この学校では不出来に分類されるだろうから。
着替えと財布を入れたカバンがやや重い。食い込む肩紐を背負いなおし、呼吸にはため息が混じる。
校舎の前では上級生や職員が大声をあげながら新入生を誘導している。きっと今日の終わり頃には喉が枯れ果ててしまっていることだろう。
案内された少女は校舎を通り、おそらく集会などが行われるのだろうという大部屋の一つ前の部屋に通された。すでに何人もの新入生が不安げに、あるいはワクワクとした表情で周りを見回している。
少女は部屋の隅でじっとしていることにした。しゃべり好きというわけではない彼女は、周りの会話に積極的に入っていこうとは考えていなかった。比較的小柄な身体は、人混みの中で隣に肩をぶつける心配をしなくて済むので嫌いではなかった。
その後も落ち着きのない新入生がどんどんと入れられて、部屋はかろうじて身動きが取れる程度の混雑具合となった。長くいるとのぼせてしまいそうだ。
「——静かに」
騒めく部屋の中に、凛とした声が響いた。
部屋の入り口を見ると、髪を後ろで束ねた厳格そうな女性が手を打ち鳴らしているところだった。
そのピンと伸びた背筋と一切乱れのない髪、そしてやや釣り目、すっと通った鼻も、真一文字の口も、皺一つないローブも、彼女を構成するすべての要素が彼女がどういう人物であるかという印象を補強しているようだ。服の胸もとに縫われている校章が赤色であるのは、彼女が最上級生であることの証明だ。
彼女は部屋を見回して静かになったのを確認すると、話を始める。
「五学年のシスです、よろしくお願いします。これから入学式です。呼ばれた者から奥の部屋の前に行って、案内に従って入場して下さい。場内では緑の絨毯に沿って歩いて席についてもらうことになります」
緑は少女の学年の色だ。胸元に縫われている校章もその色になっている。
「上級生が一人案内にいますから心配はいりません。場内の真ん中から奥に並んでいる誰も座っていない椅子があなたたちの席です。左奥から詰めて着くように。手荷物は持ったままで結構です。以上です。あなたがたに訪れるのが、素晴らしい学園生活であることを願います」
口早な説明が終わると、シスは部屋の外を確認する。どうやら段取りに問題はないらしく、すぐに名前の読み上げが行われた。
そして、二十三番目。滞りなく進んでいるその番で
「——レア・スピエル」
「はい」
少女の名前が呼ばれた。
十三の少女がたった五年しか名乗っていないその名前。しかしこれから名乗り続けるだろうその名。八歳のあの時に義母から貰った名前だ。
新入生の名前が全て呼ばれ、入学式とやらは問題なく過ぎていった。今年の新入生は320人らしい。レアの通された部屋にいた人数よりもずいぶん多いが、どうやら複数の控え室があったらしい。普段会議室や実験室に使われている部屋を片付けて使っているのだとレアの隣に座っている生徒が話していた。
学園の教師たちの何やら長い話が終わり、新入生はひとまずそれぞれの学級に通される事になった。場所は一番低い棟(第一棟と呼ぶらしい)の二階。そこで校則や生活においてなどの説明を受けて、次に寮に案内される。
レアが通された女子寮は二番目に低い棟(第二棟と呼ぶらしい)の半分だ。もう半分は男子寮となっている。
「……はぁ」
朝到着してもう昼過ぎだ。レアは深く息を吐いた。
あまり広い部屋ではない。二段ベッドが左右に二つ、四人分の引き出しがあり、それ以外は着替えに不自由ないスペースだけだ。
「はぁ! スゴイですねレアさん!」
「ベッドふかふかです!」
レアはベッドに寝転がりつつ横目で声のほうを見る。そこには窓の外を眺めたりベッドではしゃぐ少女がいる。言うまでもなくルームメイトである。
一部の大貴族はそうではないらしいが、まさか生徒全てに一人部屋を用意などできるはずもなく、リリア・エルリスとライラ・ルゥジとの相部屋となった。
「素敵な所ですね!」
「リリアさんの言う通りだわ!」
少しお転婆な少女たちはどうやら元気が有り余っているらしい。授業開始は明日からのため、その余力はこの部屋で発散されている。
余計ないざこざを避けるため、名の知れた貴族とその他とは部屋が分けられている。この部屋も、レアは貴族ではないし、リリアは一般からの入学だ、ライラは貴族だが末端も末端の小貴族だ。
「私、明日からが待ちきれないわ!」
勉強家のリリアがベッドに腰掛ける。肩にかかる程度の明るい茶髪と、赤みかかったような青色の瞳が特徴的な優しい顔立ちをしている少女だ。
レアはカバンの荷物を引き出しに詰めている。
「私も魔法のお勉強が楽しみ!」
ライラが上品そうに笑う。
肩まで伸びている癖毛の金髪がヒラヒラと揺れる。末端といえど、いちいちの動作にはレア達にはない品というものがある。
「……よし」
大した苦労ではないが、取り敢えず荷物の片付けが終わったレアは、一息ついて夕飯までは何をしようかという考えに大忙しだ。
魔法を習いたくて入学をした二人と嫌々入れさせられたレアでは、どうも温度差というものが感じられる。
リリアは早速教科書を開いて予習。ライラはそれを横から眺めている。女の子らしくおしゃべりを交えながら、実に楽しげだ。ベッドに寝転がって身動き一つ取らないレアは二人を見て、どうも相容れない存在のようだと認識を強める。
そのまま会話に花が咲いたらしく、明日の授業についてや得意科目についてを話し合っている。
魔術師は魔素を魔力に変換し、その魔力によって事象の穴埋めを行う。そうして起きる現象が「魔法」と呼ばれるものである。故にその現象の原理を知らなければ魔法を扱うことはできない。つまり魔法学校だからと言って、学問を疎かにはできないのだ。
「レアさん!」
ちょうど財布の中身を確認していたレアに声が掛けられた。人当たりの良さそうなライラがニコニコとレアの事を見つめている。
「あなた数学は得意かしら? 私はお恥ずかしながら不得手なので、もしよろしければ教えてもらいたいわ」
「……まあ、苦手ではないですけれど、私は学問よりも魔法の行使が苦手なので、力になれるかは自信がありませんね」
この学園において、全ての授業は魔法に通じる為のものだ。数学は魔法の制御に必要だし、現代国語は呪文に必要な語彙力を高めるためだ。偉大なる先人から学ぶべきことは多いので魔法史も欠かせない。物理学は言うまでもない。
この様に魔法に連なる様に構成された学習体制を前にして、逆ならともかく「勉強はできるけど魔法は苦手です」と言うのは本末転倒という他ない。
本来ならば首をかしげられたり苦い顔をされたりと、微妙な反応を示されるのだろう。
それを分かっていながら、あえてレアは言葉を取り繕うことをしなかった。どうせ授業を同じクラスで受けていればすぐに分かることなのだから。
——しかし
「ならお勉強を教えてもらう代わりに魔法を教えてあげますわ!」
明るい彼女の口から出てきたのは底なしの善意だった。
「勉強会の話ですか? もしよければ混ぜてくださいよ!」
「もちろん大歓迎よ! レアさん、構わないかしら?」
その後も川の流れの様にとどまることを知らない彼女達の会話に、今度はレアも参加する様になった。ライラとリリアが気を利かせてか天然か、わざわざ話を振るからだ。
ライラの家の使用人の人数、好きな花言葉。そんな他愛ない会話を続ける中で、レアは少し、“楽しい”と感じていた。