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俺の召喚獣はどう見てもたぬきですが、どうやら伝説の幻獣らしい

作者: くみの
掲載日:2026/10/31

 入学式の朝、俺は寮の鏡の前で、制服のえりを何度も直した。


 ファルネス魔法学園。魔法を学ぶ者なら、誰もが一度は憧れる学校だ。前世でファンタジー小説を読み漁っていた俺にとっては、憧れどころの話じゃない。ここに通うために生まれ変わったと言っても過言ではない。


 とにかく今日は、入学式のあとに召喚儀式がある。新入生は全員、大講堂で自分のパートナーとなる召喚獣を呼び出す決まりだ。自分では選べない。呼び出す人間の性質や適性に応じて、ふさわしい相手が現れるらしい。


(できればドラゴン。いや、贅沢は言わない。せめて、かっこいい狼とか、鷲とか)


「テオ、顔が固いぞ」


 隣の席で、ロビンが笑った。入学式でたまたま隣になってから、なんとなく一緒にいる。


「固くない」


「固いって。俺は馬がいいな。騎乗クラスなら、移動が楽になるし」


「寮から校舎まで、歩いて五分だろ」


「気分だよ、気分」


 そんなやり取りをしているうちに、順番が回ってきた。


 壇上の床には、大きな魔法陣が描かれている。新入生が一人ずつ中央に立って呪文を唱えると、光とともに召喚獣が現れる仕組みだ。ロビンのときは、本当に白い馬が出た。本人は「うおお!」と叫んで首に抱きついていた。羨ましいとは思ったが、素直に拍手した。ほかにも、炎をまとった小さなトカゲや翼の大きな鳥が現れては、教師たちが「騎乗クラス」「戦闘クラス」と振り分けていく。


「テオ、前へ」


 深呼吸をして、魔法陣の中央に立つ。習ったとおりの呪文を、噛まないように、ゆっくり唱える。


 足もとの紋様が光り、白い光が柱のように立ちのぼった。……と思ったら、光が一度ふっと弱まって、すぐにまた強く灯った。壇の脇で見ていた教師が、「ん?」という顔をした気がする。


 光が静まると、魔法陣の真ん中に、何かがちょこんと座っていた。


 丸い。


 とにかく丸い。茶色と黒の混じったふわふわの毛並みに、目のまわりを縁取る黒い模様。小さな丸い耳に、短い足、ふくらんだ尻尾。そいつはきょとんとした顔で俺を見上げて、首をこてんと傾けた。


 ……見覚えが、ありすぎた。


「……たぬき?」


 思わず声が出た。


 その瞬間、毛玉がぴくりと反応して、嬉しそうに胸を張った。


「ぽん!」


(え? タヌキって、ぽんって鳴いたっけ? あれは腹鼓の音で、鳴き声では……)


 混乱する俺の頭に、突然、声が響いた。


『ええ、たぬきですよ。すごいたぬきですよ』


(えっ!? 名乗った!?)


 そいつは、ぱちぱちとまばたきをして俺を見上げている。口は動いていない。それでも間違いなく、こいつの声だった。高くも低くもない、のんびりした、少し間延びした声。


(聞こえてるのは俺だけなのか?)


 広間は、しんと静まり返っていた。みんなが一斉に、首をかしげている。


(……待てよ。そもそも、この世界にタヌキっていたっけ)


 十五年生きてきて、一度も見たことがない。本でも見たことがない。


「なんだ、あれは」


「見たことがない」


「召喚獣……なのか?」


 ざわめきが波のように広がる中、胸に幻獣クラスの徽章をつけた白い口ひげの先生が、壇に上がってきた。先生はそいつのまわりをゆっくり一周して、真剣な顔でうなった。


「……君。それは種族名かい?」


「あ、いえ、その、俺がうっかり、たぬきと言ってしまいまして」


『たぬきです』


「本人も、気に入ってしまったようで……」


 毛玉は満足そうに、ぽん、ともう一度鳴いた。


 先生は深くうなずき、手帳にさらさらと書きつけた。後ろでは、ほかの教師たちが顔を見合わせている。「この魔力の質は」「幻獣では」という言葉が聞こえた気がしたが、気のせいだと思いたい。


 やがて先生は、講堂じゅうに届く声で言った。


「新入生テオ、召喚獣タヌキ。幻獣クラス」


 おお、と声が上がる。席のロビンが、親指を立てていた。


 その間、当のそいつは壇の端まで歩いていって、最前列の生徒の弁当包みを、ふんふんとにおっていた。しばらくして戻ってくると、俺の足もとにすとんと座る。


「ぽん!」


「……よろしくな」


 しゃがんで言うと、そいつは満足そうに目を細めた。


 かわいい。それは認める。


 でも、やっぱり。


(いや、どう見てもタヌキだよな……)


* * *


 寮の部屋に戻ると、たぬきは真っ先に探検を始めた。


 ベッドの下にもぐり、机の脚をくんくんして、カーテンの裾にじゃれて、最後はクローゼットを開けようとして、前足が届かずにぺたんと座り込む。ベッドの端に腰かけて眺めていると、ほこりまみれの頭で這い出してきた。


「おい、綿ぼこりついてる」


 手で払ってやると、気持ちよさそうに目を閉じる。


 ところで、こいつは何を食べるんだろう。リアルのタヌキなら雑食のはずだが、この世界でもそうなのかは分からない。


「お前、飯って何食うんだ」


 たぬきはぱっと立ち上がった。ドアの前まで走っていって、振り返って俺を見る。早く開けろ、という顔だ。


 廊下に出ると、たぬきは迷いなく階段を下りていった。時々こちらを振り返りながら、短い足でぽてぽてと進む。たどり着いたのは、食堂の裏にある厨房の入口だった。


「おい、なんで場所を知ってるんだ」


 答えはない。たぬきは厨房の隅の籠の前に、ちょこんと座っていた。籠の中では、赤紫の皮をした芋が山になっている。


「あら、新入生かい」


 奥から、エプロン姿の料理長のおばさんが顔を出した。


「すみません、勝手に入って。こいつが、その」


「ああ、聞いてるよ。今日の儀式で、珍しいのが出たって。……おや、おや」


 おばさんは、たぬきの顔をのぞきこんで目を細めた。


「幻獣様は、お芋をご所望かい。待ってな、焼いてあげるよ」


 十分後、おばさんが焼きたての芋を俺に手渡してくれた。ほくほくと、甘い香りが立ちのぼっている。


 ……そこで、視線を感じた。


 ふと下を見ると、たぬきが、じっと俺を見つめていた。何も言わない。ただ、じーっと見ている。黒くて丸い目が、芋と俺を、交互に往復する。


「……なに?」


『いえ。たぬきは、別に』


 そう言いながら、たぬきは焼き芋から目を離さない。


『ご存じだと思いますが』


「うん」


『たぬきは、さつまいもが、好きなんですよ』


「知らない。いま初めて聞いたよ」


『……ええ』


 たぬきは、ふいっと顔をそむけた。それから、ちらっとこちらを見て、またそむける。


 ……なんだこの駆け引き。


 俺は意地悪をして、ひとくち食べてみた。熱々で、甘くて、とてもおいしい。


『えっ』


 たぬきは、ぺたん、と地面に潰れた。そのまま、尻尾の先まで、へなへなになっていく。


「分かった、分かったよ! 冗談だよ。悪かった。あげるから!」


 半分に割って、冷ましてから差し出すと、たぬきはぱっと復活した。両手で受け取って、熱そうにふうふうと息をかけて、はむ、とかじる。そして、目をぎゅっと閉じた。尻尾が、床の上でぱたぱたと左右に揺れている。


「……うまいか」


『さつまいもが好きです』


 そうか。うまいんだな。


 あっという間に半分を平らげたたぬきは、空になった手をじっと見て、それからおばさんを見て、籠を見て、最後に俺を見上げた。


 もう一本、と言いたいらしい。


「だめ。もう夜だし、食べすぎたら腹を壊すかもしれないだろ」


 たぬきは首をかしげた。なぜ、と言わんばかりの顔だった。籠を見る。俺を見る。また籠を見る。さつまいもはここにあるのに、どうしてくれないのか、本気で分からないという目だ。


「だめなものは、だめ」


『たぬきは……』


 声が、しぼんでいく。


『たぬきはさつまいもが好きなのに……』


 耳がぺたりと垂れ、丸い背中がさらに丸くなる。尻尾は床に張りついて、ぴくりとも動かない。ふわふわの毛まで、しょんぼりして見えた。


 ……いや、そんな顔をされても。


 おばさんが、必死に笑いをこらえている。


「あの、明日の分を、取っておいてもらえませんか」


 負けた。三秒で負けた。


『さつまいもが好きです』


 たぬきの耳が、ぴんと立った。尻尾が、さっきの倍の幅で振れている。


「……知ってる」


* * *


 それから一ヶ月が過ぎるころには、俺の生活は、すっかりたぬき中心になっていた。


 朝は、まずたぬきを起こす。これが意外な難関だった。丸まって寝ているたぬきは、持ち上げると砂袋みたいにずっしり重い。揺すっても名前を呼んでも起きないくせに、耳もとで「さつまいも」とささやくと、ぱっと目を開ける。


 起きたら、ブラシで毛を整える。これは気に入っているらしく、背中をとかすうちに体がだんだん傾いていって、最後はおなかを出して仰向けに転がる。


 食堂では、俺の席の隣に、小さな椅子が置かれるようになった。おばさんが用意してくれたものだ。たぬきはそこに座って、芋が出てくるのを待つ。出てこない日は、俺のパンをじっと見つめている。


 教室までの道は、普通に歩けば五分だ。たぬきと一緒だと、三十分かかる。蝶を追いかける。掲示板の前で立ち止まる。池のカエルを見つけてしゃがみこむ。「そっちじゃない」と注意すると、聞こえないふりをして、ぽんと鳴く。それが妙に愛らしくて、結局許してしまう。俺は完全に、たぬきに負けていた。……だから、そっちじゃないんだって。


 風呂の時間もひと苦労だ。


「たぬき、風呂だぞ」


 ぴくり、と耳が動く。次の瞬間、たぬきはあさっての方向を向いて、完全に聞こえないふりを始めた。耳は、ぺたんと伏せてある。


「聞こえてるだろ」


 返事はない。しかたなく、後ろから抱き上げた。四本の足をぴんと突っ張って全力で抵抗していたが、湯につけると、急におとなしくなった。毛がしっとり濡れて、ひとまわり小さくなる。目をとろんとさせて、ぷかぷか浮かんでいる。


 毎回これだ。毎回、結局入るなら最初から入ればいいのに。


 一方で、周りの見え方は、ちょっと違った。


「タヌキ殿は、今朝、池のほとりで水の気配を確かめておられた」


「掲示板の前で足を止めたのは、結界の文字を読んでいたのでは?」


 幻獣クラスの同級生たちが、真剣な顔で議論している。担任のシモン先生に至っては、手帳を持ち歩いて、たぬきの行動を毎日記録していた。


「テオ君。昨日の、植え込みの前での静止には、どういう意図があったのだね」


「ええと、虫を見ていたと思います」


「虫。……なるほど、小さき命への配慮か」


 違う。ただ見ていたんだと思う。でも、先生があまりに真剣にメモを取るので、否定しにくい。


 誰も、からかってはいない。みんな本気で感心してくれている。だからこそ、俺だけが「ただのタヌキなんだけどな」と思っているのが、少し申し訳なかった。


 そんなある日の午後、幻獣クラスの座学の最中に、たぬきがいなくなった。


 さっきまで足もとで丸くなって寝ていたはずなのに、机の下をのぞいても、いない。


「あの、先生。うちのたぬき、見ませんでしたか」


「タヌキ殿なら、先ほど廊下に出て行かれたが」


「止めてくださいよ!」


「止める理由がなかった。堂々とした足取りだったのでな」


 堂々としていれば何をしてもいいわけじゃない。俺は教室を飛び出した。


 廊下を二つ曲がったところで、開いた扉の向こうから、人の声が聞こえてきた。のぞいてみると、治癒クラスの教室だった。整然と並んだ机。黒板の前では、白衣の女の先生が、包帯の巻き方を説明している。


 そして、最前列のまんなかの席に、たぬきが座っていた。


 背すじをぴんと伸ばして、前足を机の上にそろえて、真面目な顔で黒板を見つめている。


 ……なんで、一番いい席に。


 教室は、微妙な空気だった。生徒たちは、ちらちらと最前列を見ては、あわてて前を向いている。先生は一瞬だけ言葉に詰まって、咳払いをしてから授業を続けた。


「ええと、つまり、巻き始めは少し斜めに。そうです」


 先生の声が、さっきより明らかに丁寧になっている。たぬきは、まばたきもせずに聞いている。……ように見える。たぶん、チョークの粉が舞っているのが面白いだけだ。


「すみません! うちのが、お邪魔しました!」


 頭を下げて入っていくと、先生は首を横に振った。


「いえ、どうぞそのまま。タヌキ殿は、とても熱心に聞いてくださって。学生たちにも、よい刺激になっています」


 刺激というか、緊張だと思う。後ろの席の男子生徒が、さっきから同じ行を書き写している。


「ほら、たぬき。帰るぞ」


 小声で呼ぶと、たぬきは顔だけこちらに向けて、またゆっくり黒板へ戻した。聞こえないふりだ。


 しかたなく、前まで歩いていって抱き上げた。たぬきは机の脚にしがみつこうとしたが、あっさり引きはがされた。


「ぽん!」


「授業中だ」


「またいつでも、いらしてください」


 先生が、深々と頭を下げていた。来させないようにします、とは、さすがに言えなかった。


* * *


 翌週、今度は戦闘クラスの訓練場の前で、たぬきが止まった。


 召喚獣どうしの模擬戦の真っ最中だった。雷をまとった大きな狼が、土ぼこりを上げて走る。向かいの翼のある獅子が、低く吠えて跳ねる。地面が、どすん、どすんと響く。


 たぬきは、いつの間にかフェンスの内側に入りこんで、訓練場のふちに座っていた。


 視線は、狼を追っている。狼が右に走れば右へ、獅子が跳べば上へ。首が、右、左、上、と忙しく動く。


「危ないですよー」


 周りに上級生がいるので、声だけは一応、丁寧にしておく。抱き上げて、フェンスの外のベンチまで運んだ。


「ここで見てろ。中には入るな」


 たぬきは、こくんとうなずいた。


 ……三分後。


 ベンチが、空いていた。たぬきは、さっきより一歩だけ訓練場に近い場所に座っていた。何食わぬ顔で、狼を目で追っている。


「危ないですよー」


 もう一度、運ぶ。ベンチに置く。うなずく。二分後、同じ場所にいた。


 三回目で、教官が気づいた。腕を組んで、うなずいている。


「あの幻獣は、戦いを学んでいるのかね」


 動くものを目で追っているだけだと思います、と言いかけて、やめた。猫みたいなものですと言っても、この世界では通じない。


「……熱心、ですよね」


 結局そう答えるしかなかった。教官は満足そうに「うむ」と言って、模擬戦に戻っていった。


 俺はため息をついて、たぬきの隣に座った。連れ戻すのは、もうやめた。


 狼と獅子の戦いは、なかなか迫力があった。気づけば俺も夢中で見ていて、肩のあたりに、ふわふわの毛がときどきぶつかってくる。


 勝負がついたとき、たぬきは、ぱたぱたぱた、と前足を合わせた。拍手のつもりらしい。


「……お前、ちゃんと見てたんだな」


「ぽん!」


 得意げに胸を張る。ただ、胸を張ると、おなかが前に出るだけだった。


* * *


 その日、俺とたぬきは、馬場へ続く並木道を歩いていた。ロビンに誘われて、騎乗クラスの練習を見に行く途中だ。


 向こうから、地面を蹴る軽快な足音が近づいてくる。騎乗クラスのジーナだった。ロビンの友達で、脚の長い大きな走り鳥を召喚した子だ。


 距離は、まだ二十メートル以上ある。


 道の真ん中にいるたぬきに、鳥はすぐ気づいた。ジーナが手綱を軽く引くと、鳥は速度をゆっくり落として、並木道の中ほどで、ふわりと止まった。


 余裕の停止だった。たぬきまで、まだまだ距離はある。


 そのたぬきが、片足を上げたまま、ぴたりと固まっていた。目を丸くして、毛をぶわっとふくらませて。


『おしまいだー』


 頭の中に、声が響いた。


 ……え。


 たぬきは動かない。逃げもしない。ただ、完全に絶望している。


 風が吹いて、並木の葉がさらさらと鳴った。走り鳥が、不思議そうに首をかしげる。ジーナは、手綱を持ったまま固まっている。


 まだ、動かない。


 長い。思ったより、長い。


「あの、もう止まってますけど」


 ジーナが、遠慮がちに言った。


「……そうですよね」


「だいぶ手前ですし、余裕で止まったと思うのですけど?」


「もう、間に合ってるから!」


 思わず叫んでいた。たぬきが、ゆっくりとこちらを振り向く。目が、うるうるしている。


『……たぬきは、おしまいではないですか』


「ないです。全然ないです」


 たぬきは前を見て、走り鳥を見た。すると走り鳥は、首をぐっと下げて、たぬきと同じ高さまで頭を持ってきた。ぺこり、と一礼するみたいに。


 ジーナが、息をのんだ。


「この子が、ほかの召喚獣に頭を下げるなんて」


 いや、たぶん「驚かせてごめん」くらいの話だと思う。


 たぬきは、しばらく走り鳥と見つめ合っていた。それから、何事もなかったように歩きだした。さっきまでの絶望は、どこへ行ったのか。ふんふんと鼻を鳴らして、道ばたの草をにおっている。


「……テオ君のタヌキ殿は、すごいですね」


 ジーナが、真顔で言った。


「そ、そうですか」


 俺は、たぬきの丸い後ろ姿を見ながら、首をかしげるしかなかった。


* * *


 幻獣クラスには、放課後、教室でお茶を飲む習慣がある。


 その日も、シモン先生が、教室の隅の小さな炉に、丸い鉄のケトルをかけていた。ずんぐりした胴体に、小さな口と持ち手が付いている。


 湯が沸くのを待ちながら、足もとのたぬきを眺める。それから、ケトルを見る。たぬきの丸いおなかを見る。


 ……似てる。


 前世の昔話が、頭に浮かんだ。たぬきが茶釜に化けて、最後に火にかけられて、慌てて足を出すやつ。


「なあ、たぬき」


 小声で話しかけた。


「おまえ、たぬきなら変化できるの? 葉っぱとか頭に乗せてやるでしょ」


 たぬきは、ぱちっと目を開けた。


『ええ、もちろん』


「できるのか」


『葉っぱなど、いりませんがね』


 たぬきは、これ以上ないくらいのドヤ顔をした。


『ご覧なさい。たぬきの、すごいところを』


 たぬきは立ち上がって、炉の前の板の間に移動した。ふんっと胸を張り、目を閉じる。尻尾の先が、ぴくぴくと動く。


「ぽん!」


 白い煙がふわっと広がった。煙が晴れると、そこには、一つの鉄のケトルが置かれていた。


 つやつやした黒くて丸い胴体。小さな蓋。持ち手。


(ぶんぶく茶釜みたいだ……)


 ……目の前のケトルそっくりに、変化している。ただ、その後ろから、ふさふさした尻尾が、堂々とはみ出していた。


「…………すごいのか?」


『素晴らしい変化でしょ』


 ケトルがしゃべった。声は、もちろん俺にしか聞こえない。得意そうな響きだ。


 周りの同級生たちが、がたっと席を立った。


「道具に擬態を……!」


「魔力の気配が、完全に消えている」


「先生、これは高位の変化術では」


 シモン先生が、眼鏡を押し上げて、ケトルに顔を近づけた。


「……見事だ。形も、質感も、何ひとつ違わない。尻尾をあえて残しているのは、本体としての誇りだろうか」


 違う。ただ、詰めが甘いだけだ。


 でも、ケトルは誇らしげに、尻尾をゆらゆら揺らしている。


「しかし、確かに変化してるな。これなら、間違えて火にかけられたり――」


 その瞬間だった。


 ぽんっ、と煙が上がって、たぬきが元の姿に戻った。しかも、全身の毛がぶわっと逆立っている。


『ひっ……ひっ……』


「あ、いや、冗談だよ。本当にはしないから」


『たぬきは……もう、おしまいです……』


 ガタガタ震えながら、たぬきはその場でころりと丸まってしまった。


「大丈夫だって。誰も火にかけたりしないって!」


 俺はしゃがんで、たぬきの背中をなでた。ふわふわの毛が、まだ小刻みに震えている。


「ごめんな。ほら、おやつあげるから!」


 たぬきは、ようやく震えを止めた。ゆっくりと顔を上げて、鼻をひくひく動かす。


『さつまいもが好きです』


 ……立ち直りが早い。


 その横で、先生が熱心に手帳を書いている。「変化の直後に、本体が震える。これは、術の反動か」


 違う。ただ、怖かっただけだ。


* * *


 俺は寮のベッドに倒れ込んだ。


 疲れた。本当に疲れた。


 憧れの魔法学園生活。想像していたのは、相棒と一緒に特訓したり、冒険したりする、かっこいい日々だった。実際は、毎日、たぬきのお世話と、周囲の勘違いへの対応で終わっている。


 窓辺では、たぬきが丸い月を見上げて座っていた。珍しく、静かだ。何を見ているのかは、分からない。


「……ドラゴンだったら、どうだったのかな」


 天井に向かってつぶやくと、足もとでごそごそと音がした。


 たぬきが、布団の中に潜り込んできたのだ。


 俺の脇のあたりで、くるりと丸くなる。ほかほかと、温かい。小さな体が、すうすうと上下している。


「……ちょっと。お前、どいてよ」


『…………』


 返事はなかった。もう寝息を立てている。


 俺は、ため息をついた。それから、そっと、たぬきの背中を撫でた。ふわふわで、あったかくて、ちょっと日向のにおいがする。


(……まあ、ドラゴンじゃなくてよかったのかもな)


 そう思ってしまった自分に、少し驚いた。


 たぬきは寝ぼけたように、ぽん、と小さく鳴いて、尻尾を俺の手に絡めてきた。先っぽのさらさらが、くすぐったかった。


* * *


 初夏の、よく晴れた昼だった。


 俺たちは、校庭の芝生で昼飯を食べていた。ロビンも、ジーナも、幻獣クラスの同級生たちも一緒だ。芝生の真ん中では、たぬきが焼いたさつまいもを両手で抱えて、至福の顔でかじっている。


「タヌキ殿、本当に幸せそうだな」


「うん。こいつ、これさえあれば何も要らないんだよ」


 そんなのどかな時間だった。


 最初に気づいたのは、鳥の声が消えたことだ。さっきまで木々でさえずっていた小鳥たちが、ぴたりと黙った。風も止まる。校庭の空気が、重く、静かになる。


「……なんだ?」


 ロビンが、空を見上げた。


 雲の切れ間から、光が降りてきた。金色の、細かい粒が舞うような光。その中を、ゆっくりと、一頭の獣が降りてくる。


 校庭が、一気に騒がしくなった。


「なんだ、あれ!」


「光ってる……!」


「先生、先生を呼べ!」


 駆けつけたシモン先生は、顔を真っ青にして、手帳を持つ手を震わせていた。


「文献にしか存在しないはずの……まさか、実在していたとは」


 先生は、その場に膝をついた。同級生たちも、一人、また一人と、姿勢を正していく。誰かが、小さく「伝説の……」とつぶやいた。さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、校庭が静まっていく。


 獣は、芝生の上に降り立った。


 しなやかな体に、長い四肢、すらりとした首。毛色は茶と黒で、たぬきとよく似ているのに、まるで別の生き物みたいに気品がある。ふさふさした尻尾が、地面に触れるか触れないかのところで、ゆらりと揺れていた。目は、静かな金色だった。


 獣は、まっすぐこちらへ歩いてきた。


 ……いや、俺じゃない。俺の足もとの、さつまいもを抱えた丸い生き物のほうへ。


『ようやく、見つけました』


 声が響いた。頭の中に。しかも、どうやら俺にだけじゃないようだ。そこにいる全員が、その声を聞いていた。落ち着いた、深くてあたたかな声だった。


 獣は、たぬきの前で足を止めて、頭を低くした。鼻先を、たぬきの鼻にそっと触れさせる。


 たぬきは、口いっぱいに芋をほおばったまま、獣を見上げて、ぱちぱちとまばたきをした。


「ぽん!」


『お母さん』


『ええ。心配しましたよ』


 獣が、ふっと目を細めた。笑っているのだと思う。


 それから顔を上げて、俺をまっすぐに見た。


『人の子よ。わたくしは、アウレリアと申します。この子の母です』


「は、母……」


 この神々しいのが母で、足もとの、頬いっぱいに芋を詰めているのが子ども。毛色は同じだ。同じなんだけど。


『この子が、迷惑をかけていないか心配でした』


「あ、いえ、その。迷惑というか……はい、毎日いろいろありましたが」


 周りの同級生が、小声でざわついた。「毎日いろいろ……」「伝説の母君に、あの返答」「肝が据わっている」。違う。正直なだけだ。


 アウレリアは、静かに話し始めた。


『この子は本来、この世界へ来るはずではなかったのです。わたくしの目の届くところで遊んでいたのに、ほんの一呼吸、目を離してしまいました。そこへあ、なたの呼び声が、世界の境の隙間を通って届いてしまったのです。この子は、好奇心が強いので』


 あの儀式のとき、光が一瞬弱まって、また強まった。あれのことか。先生たちが「ん?」という顔をしていた理由も、なんとなく分かった気がした。


『世界を越える道を探すのに、時間がかかりました。まだ赤ん坊のこの子を、見知らぬ場所に一人にして、申し訳ありませんでした』


 たぬきは、母親の足に、ぐりぐりと頭をこすりつけていた。すっかり甘えている。それでも、手の中のさつまいもは離していない。


 アウレリアは、そんな子を、しばらく静かに見つめていた。


『けれど、この子の毛並みを見れば分かります。毎日、丁寧に整えてもらっていたこと。顔つきがとても穏やかなこと。あなたが、大切にしてくださっていたのですね』


「え。いや、俺は、普通に……」


 顔が、熱くなった。


『この子は、あなたをとても気に入っているようです。わたくしが連れ帰るのは簡単ですが、この子が、それを望んでいません』


 足もとで、たぬきが、俺のズボンのすそをぐいっとつかんだ。いつの間にか、母親のそばから戻ってきている。


『……本人が気に入っているようですから、このまま、よろしくお願いできますか』


 軽い頼みごとの口調だった。大げさな別れの言葉じゃなくて、近所の家に子どもを預けるときみたいな。


 ……ああ、そうか。返事なら、とっくに決まっていた。


「はい。俺でよければ」


『ありがとうございます』


 たぬきは、俺を見上げていた。きょとんとした顔で、小首をかしげる。


『たぬきは、すごいたぬきです』


『たぬき。よい名前を、もらいましたね』


『さつまいもが好きです』


 母親は、優しくふっと目を細めた。


『この子が一人前になるまでには、千年ほどかかります。頼みましたよ』


 俺は、母親を見て、足もとのたぬきを見た。


「…………千年」


 アウレリアは、たぬきの額にそっと鼻先を触れさせると、金色の光とともに、ふわりと空へ消えていった。


 光が消えたあとも、校庭はしばらく静まり返っていた。やがて、ロビンがぽつりと言った。


「テオ。お前、すごい奴だったんだな」


「伝説の幻獣を、生きているうちに、この目で見られるなんて……」


「千年かかるって、おっしゃってたよな」


「それを預かるんだろ。あの召喚士、有能すぎる……」


 ジーナが、真顔で俺の肩にそっと手を置いた。シモン先生は、まだ膝をついたまま、手帳に何かを懸命に書きつけている。


 俺は、ぽかんと口を開けたまま、動けなかった。


* * *


 その日の夕暮れ。


 俺は、中庭のベンチに座って、たぬきの母親が消えた空を見上げていた。足もとでは、たぬきが、相変わらずコロンコロンと転がっている。


 ようやく、頭が追いついてきた。


 あの、しなやかで優雅な、サラサラの毛並み。凛とした金色の目をした神々しい獣。


 それから、足もとにいる、丸くてふわふわの、頬にさつまいものかけらをつけた毛玉。


 俺は、ゆっくりと視線を下ろした。


「……え、お前、将来ああなるの?」


 たぬきが、むくりと起き上がった。丸い目で、俺を見上げる。


『ええ。たぬきは、すごいたぬきですから』


「そっか。そっか……いや、そうなんだけど」


 たぬきは胸を張って、ぽん、と鳴いた。夕日を浴びて、その尻尾の先が、きらりと光る。


 母親は、たしかに言っていた。成長に、あと千年かかる、と。


 つまり、このコロコロの毛玉が、あの美しい姿になるのは。


(千年後かい!!)


 俺は心の中で、全力で叫んだ。


 たぬきは、そんな俺を見て、満足げだ。ゆっくりと、俺の膝に乗って、くるりと丸くなる。ほかほかと、温かい。


 憧れていたドラゴンも、かっこいい冒険も、今のところ、ひとつもない。


 代わりに俺には、ケトルに化けて、芋をねだって、道の真ん中で固まる、世界でいちばん図々しくて、愛おしいたぬきがいる。


 千年か。長いな。


 でも、まあ、悪くないか。


「じゃあ、長生きしなきゃな」


『ええ。たぬきも、がんばります』


「お前は、まず芋を我慢するところからだよ」


『……たぬきは、おしまいです』


「はいはい、芋もらいに行こう」


「ぽん!」


 勢いよく復活した相棒を抱えて、俺は夕焼けの中庭を歩き出した。


 ここから千年。いつまで一緒にいられるかは分からないけど、俺とたぬきの学園生活は、まだ、始まったばかりだ。


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