俺の召喚獣はどう見てもたぬきですが、どうやら伝説の幻獣らしい
入学式の朝、俺は寮の鏡の前で、制服のえりを何度も直した。
ファルネス魔法学園。魔法を学ぶ者なら、誰もが一度は憧れる学校だ。前世でファンタジー小説を読み漁っていた俺にとっては、憧れどころの話じゃない。ここに通うために生まれ変わったと言っても過言ではない。
とにかく今日は、入学式のあとに召喚儀式がある。新入生は全員、大講堂で自分のパートナーとなる召喚獣を呼び出す決まりだ。自分では選べない。呼び出す人間の性質や適性に応じて、ふさわしい相手が現れるらしい。
(できればドラゴン。いや、贅沢は言わない。せめて、かっこいい狼とか、鷲とか)
「テオ、顔が固いぞ」
隣の席で、ロビンが笑った。入学式でたまたま隣になってから、なんとなく一緒にいる。
「固くない」
「固いって。俺は馬がいいな。騎乗クラスなら、移動が楽になるし」
「寮から校舎まで、歩いて五分だろ」
「気分だよ、気分」
そんなやり取りをしているうちに、順番が回ってきた。
壇上の床には、大きな魔法陣が描かれている。新入生が一人ずつ中央に立って呪文を唱えると、光とともに召喚獣が現れる仕組みだ。ロビンのときは、本当に白い馬が出た。本人は「うおお!」と叫んで首に抱きついていた。羨ましいとは思ったが、素直に拍手した。ほかにも、炎をまとった小さなトカゲや翼の大きな鳥が現れては、教師たちが「騎乗クラス」「戦闘クラス」と振り分けていく。
「テオ、前へ」
深呼吸をして、魔法陣の中央に立つ。習ったとおりの呪文を、噛まないように、ゆっくり唱える。
足もとの紋様が光り、白い光が柱のように立ちのぼった。……と思ったら、光が一度ふっと弱まって、すぐにまた強く灯った。壇の脇で見ていた教師が、「ん?」という顔をした気がする。
光が静まると、魔法陣の真ん中に、何かがちょこんと座っていた。
丸い。
とにかく丸い。茶色と黒の混じったふわふわの毛並みに、目のまわりを縁取る黒い模様。小さな丸い耳に、短い足、ふくらんだ尻尾。そいつはきょとんとした顔で俺を見上げて、首をこてんと傾けた。
……見覚えが、ありすぎた。
「……たぬき?」
思わず声が出た。
その瞬間、毛玉がぴくりと反応して、嬉しそうに胸を張った。
「ぽん!」
(え? タヌキって、ぽんって鳴いたっけ? あれは腹鼓の音で、鳴き声では……)
混乱する俺の頭に、突然、声が響いた。
『ええ、たぬきですよ。すごいたぬきですよ』
(えっ!? 名乗った!?)
そいつは、ぱちぱちとまばたきをして俺を見上げている。口は動いていない。それでも間違いなく、こいつの声だった。高くも低くもない、のんびりした、少し間延びした声。
(聞こえてるのは俺だけなのか?)
広間は、しんと静まり返っていた。みんなが一斉に、首をかしげている。
(……待てよ。そもそも、この世界にタヌキっていたっけ)
十五年生きてきて、一度も見たことがない。本でも見たことがない。
「なんだ、あれは」
「見たことがない」
「召喚獣……なのか?」
ざわめきが波のように広がる中、胸に幻獣クラスの徽章をつけた白い口ひげの先生が、壇に上がってきた。先生はそいつのまわりをゆっくり一周して、真剣な顔でうなった。
「……君。それは種族名かい?」
「あ、いえ、その、俺がうっかり、たぬきと言ってしまいまして」
『たぬきです』
「本人も、気に入ってしまったようで……」
毛玉は満足そうに、ぽん、ともう一度鳴いた。
先生は深くうなずき、手帳にさらさらと書きつけた。後ろでは、ほかの教師たちが顔を見合わせている。「この魔力の質は」「幻獣では」という言葉が聞こえた気がしたが、気のせいだと思いたい。
やがて先生は、講堂じゅうに届く声で言った。
「新入生テオ、召喚獣タヌキ。幻獣クラス」
おお、と声が上がる。席のロビンが、親指を立てていた。
その間、当のそいつは壇の端まで歩いていって、最前列の生徒の弁当包みを、ふんふんとにおっていた。しばらくして戻ってくると、俺の足もとにすとんと座る。
「ぽん!」
「……よろしくな」
しゃがんで言うと、そいつは満足そうに目を細めた。
かわいい。それは認める。
でも、やっぱり。
(いや、どう見てもタヌキだよな……)
* * *
寮の部屋に戻ると、たぬきは真っ先に探検を始めた。
ベッドの下にもぐり、机の脚をくんくんして、カーテンの裾にじゃれて、最後はクローゼットを開けようとして、前足が届かずにぺたんと座り込む。ベッドの端に腰かけて眺めていると、ほこりまみれの頭で這い出してきた。
「おい、綿ぼこりついてる」
手で払ってやると、気持ちよさそうに目を閉じる。
ところで、こいつは何を食べるんだろう。リアルのタヌキなら雑食のはずだが、この世界でもそうなのかは分からない。
「お前、飯って何食うんだ」
たぬきはぱっと立ち上がった。ドアの前まで走っていって、振り返って俺を見る。早く開けろ、という顔だ。
廊下に出ると、たぬきは迷いなく階段を下りていった。時々こちらを振り返りながら、短い足でぽてぽてと進む。たどり着いたのは、食堂の裏にある厨房の入口だった。
「おい、なんで場所を知ってるんだ」
答えはない。たぬきは厨房の隅の籠の前に、ちょこんと座っていた。籠の中では、赤紫の皮をした芋が山になっている。
「あら、新入生かい」
奥から、エプロン姿の料理長のおばさんが顔を出した。
「すみません、勝手に入って。こいつが、その」
「ああ、聞いてるよ。今日の儀式で、珍しいのが出たって。……おや、おや」
おばさんは、たぬきの顔をのぞきこんで目を細めた。
「幻獣様は、お芋をご所望かい。待ってな、焼いてあげるよ」
十分後、おばさんが焼きたての芋を俺に手渡してくれた。ほくほくと、甘い香りが立ちのぼっている。
……そこで、視線を感じた。
ふと下を見ると、たぬきが、じっと俺を見つめていた。何も言わない。ただ、じーっと見ている。黒くて丸い目が、芋と俺を、交互に往復する。
「……なに?」
『いえ。たぬきは、別に』
そう言いながら、たぬきは焼き芋から目を離さない。
『ご存じだと思いますが』
「うん」
『たぬきは、さつまいもが、好きなんですよ』
「知らない。いま初めて聞いたよ」
『……ええ』
たぬきは、ふいっと顔をそむけた。それから、ちらっとこちらを見て、またそむける。
……なんだこの駆け引き。
俺は意地悪をして、ひとくち食べてみた。熱々で、甘くて、とてもおいしい。
『えっ』
たぬきは、ぺたん、と地面に潰れた。そのまま、尻尾の先まで、へなへなになっていく。
「分かった、分かったよ! 冗談だよ。悪かった。あげるから!」
半分に割って、冷ましてから差し出すと、たぬきはぱっと復活した。両手で受け取って、熱そうにふうふうと息をかけて、はむ、とかじる。そして、目をぎゅっと閉じた。尻尾が、床の上でぱたぱたと左右に揺れている。
「……うまいか」
『さつまいもが好きです』
そうか。うまいんだな。
あっという間に半分を平らげたたぬきは、空になった手をじっと見て、それからおばさんを見て、籠を見て、最後に俺を見上げた。
もう一本、と言いたいらしい。
「だめ。もう夜だし、食べすぎたら腹を壊すかもしれないだろ」
たぬきは首をかしげた。なぜ、と言わんばかりの顔だった。籠を見る。俺を見る。また籠を見る。さつまいもはここにあるのに、どうしてくれないのか、本気で分からないという目だ。
「だめなものは、だめ」
『たぬきは……』
声が、しぼんでいく。
『たぬきはさつまいもが好きなのに……』
耳がぺたりと垂れ、丸い背中がさらに丸くなる。尻尾は床に張りついて、ぴくりとも動かない。ふわふわの毛まで、しょんぼりして見えた。
……いや、そんな顔をされても。
おばさんが、必死に笑いをこらえている。
「あの、明日の分を、取っておいてもらえませんか」
負けた。三秒で負けた。
『さつまいもが好きです』
たぬきの耳が、ぴんと立った。尻尾が、さっきの倍の幅で振れている。
「……知ってる」
* * *
それから一ヶ月が過ぎるころには、俺の生活は、すっかりたぬき中心になっていた。
朝は、まずたぬきを起こす。これが意外な難関だった。丸まって寝ているたぬきは、持ち上げると砂袋みたいにずっしり重い。揺すっても名前を呼んでも起きないくせに、耳もとで「さつまいも」とささやくと、ぱっと目を開ける。
起きたら、ブラシで毛を整える。これは気に入っているらしく、背中をとかすうちに体がだんだん傾いていって、最後はおなかを出して仰向けに転がる。
食堂では、俺の席の隣に、小さな椅子が置かれるようになった。おばさんが用意してくれたものだ。たぬきはそこに座って、芋が出てくるのを待つ。出てこない日は、俺のパンをじっと見つめている。
教室までの道は、普通に歩けば五分だ。たぬきと一緒だと、三十分かかる。蝶を追いかける。掲示板の前で立ち止まる。池のカエルを見つけてしゃがみこむ。「そっちじゃない」と注意すると、聞こえないふりをして、ぽんと鳴く。それが妙に愛らしくて、結局許してしまう。俺は完全に、たぬきに負けていた。……だから、そっちじゃないんだって。
風呂の時間もひと苦労だ。
「たぬき、風呂だぞ」
ぴくり、と耳が動く。次の瞬間、たぬきはあさっての方向を向いて、完全に聞こえないふりを始めた。耳は、ぺたんと伏せてある。
「聞こえてるだろ」
返事はない。しかたなく、後ろから抱き上げた。四本の足をぴんと突っ張って全力で抵抗していたが、湯につけると、急におとなしくなった。毛がしっとり濡れて、ひとまわり小さくなる。目をとろんとさせて、ぷかぷか浮かんでいる。
毎回これだ。毎回、結局入るなら最初から入ればいいのに。
一方で、周りの見え方は、ちょっと違った。
「タヌキ殿は、今朝、池のほとりで水の気配を確かめておられた」
「掲示板の前で足を止めたのは、結界の文字を読んでいたのでは?」
幻獣クラスの同級生たちが、真剣な顔で議論している。担任のシモン先生に至っては、手帳を持ち歩いて、たぬきの行動を毎日記録していた。
「テオ君。昨日の、植え込みの前での静止には、どういう意図があったのだね」
「ええと、虫を見ていたと思います」
「虫。……なるほど、小さき命への配慮か」
違う。ただ見ていたんだと思う。でも、先生があまりに真剣にメモを取るので、否定しにくい。
誰も、からかってはいない。みんな本気で感心してくれている。だからこそ、俺だけが「ただのタヌキなんだけどな」と思っているのが、少し申し訳なかった。
そんなある日の午後、幻獣クラスの座学の最中に、たぬきがいなくなった。
さっきまで足もとで丸くなって寝ていたはずなのに、机の下をのぞいても、いない。
「あの、先生。うちのたぬき、見ませんでしたか」
「タヌキ殿なら、先ほど廊下に出て行かれたが」
「止めてくださいよ!」
「止める理由がなかった。堂々とした足取りだったのでな」
堂々としていれば何をしてもいいわけじゃない。俺は教室を飛び出した。
廊下を二つ曲がったところで、開いた扉の向こうから、人の声が聞こえてきた。のぞいてみると、治癒クラスの教室だった。整然と並んだ机。黒板の前では、白衣の女の先生が、包帯の巻き方を説明している。
そして、最前列のまんなかの席に、たぬきが座っていた。
背すじをぴんと伸ばして、前足を机の上にそろえて、真面目な顔で黒板を見つめている。
……なんで、一番いい席に。
教室は、微妙な空気だった。生徒たちは、ちらちらと最前列を見ては、あわてて前を向いている。先生は一瞬だけ言葉に詰まって、咳払いをしてから授業を続けた。
「ええと、つまり、巻き始めは少し斜めに。そうです」
先生の声が、さっきより明らかに丁寧になっている。たぬきは、まばたきもせずに聞いている。……ように見える。たぶん、チョークの粉が舞っているのが面白いだけだ。
「すみません! うちのが、お邪魔しました!」
頭を下げて入っていくと、先生は首を横に振った。
「いえ、どうぞそのまま。タヌキ殿は、とても熱心に聞いてくださって。学生たちにも、よい刺激になっています」
刺激というか、緊張だと思う。後ろの席の男子生徒が、さっきから同じ行を書き写している。
「ほら、たぬき。帰るぞ」
小声で呼ぶと、たぬきは顔だけこちらに向けて、またゆっくり黒板へ戻した。聞こえないふりだ。
しかたなく、前まで歩いていって抱き上げた。たぬきは机の脚にしがみつこうとしたが、あっさり引きはがされた。
「ぽん!」
「授業中だ」
「またいつでも、いらしてください」
先生が、深々と頭を下げていた。来させないようにします、とは、さすがに言えなかった。
* * *
翌週、今度は戦闘クラスの訓練場の前で、たぬきが止まった。
召喚獣どうしの模擬戦の真っ最中だった。雷をまとった大きな狼が、土ぼこりを上げて走る。向かいの翼のある獅子が、低く吠えて跳ねる。地面が、どすん、どすんと響く。
たぬきは、いつの間にかフェンスの内側に入りこんで、訓練場のふちに座っていた。
視線は、狼を追っている。狼が右に走れば右へ、獅子が跳べば上へ。首が、右、左、上、と忙しく動く。
「危ないですよー」
周りに上級生がいるので、声だけは一応、丁寧にしておく。抱き上げて、フェンスの外のベンチまで運んだ。
「ここで見てろ。中には入るな」
たぬきは、こくんとうなずいた。
……三分後。
ベンチが、空いていた。たぬきは、さっきより一歩だけ訓練場に近い場所に座っていた。何食わぬ顔で、狼を目で追っている。
「危ないですよー」
もう一度、運ぶ。ベンチに置く。うなずく。二分後、同じ場所にいた。
三回目で、教官が気づいた。腕を組んで、うなずいている。
「あの幻獣は、戦いを学んでいるのかね」
動くものを目で追っているだけだと思います、と言いかけて、やめた。猫みたいなものですと言っても、この世界では通じない。
「……熱心、ですよね」
結局そう答えるしかなかった。教官は満足そうに「うむ」と言って、模擬戦に戻っていった。
俺はため息をついて、たぬきの隣に座った。連れ戻すのは、もうやめた。
狼と獅子の戦いは、なかなか迫力があった。気づけば俺も夢中で見ていて、肩のあたりに、ふわふわの毛がときどきぶつかってくる。
勝負がついたとき、たぬきは、ぱたぱたぱた、と前足を合わせた。拍手のつもりらしい。
「……お前、ちゃんと見てたんだな」
「ぽん!」
得意げに胸を張る。ただ、胸を張ると、おなかが前に出るだけだった。
* * *
その日、俺とたぬきは、馬場へ続く並木道を歩いていた。ロビンに誘われて、騎乗クラスの練習を見に行く途中だ。
向こうから、地面を蹴る軽快な足音が近づいてくる。騎乗クラスのジーナだった。ロビンの友達で、脚の長い大きな走り鳥を召喚した子だ。
距離は、まだ二十メートル以上ある。
道の真ん中にいるたぬきに、鳥はすぐ気づいた。ジーナが手綱を軽く引くと、鳥は速度をゆっくり落として、並木道の中ほどで、ふわりと止まった。
余裕の停止だった。たぬきまで、まだまだ距離はある。
そのたぬきが、片足を上げたまま、ぴたりと固まっていた。目を丸くして、毛をぶわっとふくらませて。
『おしまいだー』
頭の中に、声が響いた。
……え。
たぬきは動かない。逃げもしない。ただ、完全に絶望している。
風が吹いて、並木の葉がさらさらと鳴った。走り鳥が、不思議そうに首をかしげる。ジーナは、手綱を持ったまま固まっている。
まだ、動かない。
長い。思ったより、長い。
「あの、もう止まってますけど」
ジーナが、遠慮がちに言った。
「……そうですよね」
「だいぶ手前ですし、余裕で止まったと思うのですけど?」
「もう、間に合ってるから!」
思わず叫んでいた。たぬきが、ゆっくりとこちらを振り向く。目が、うるうるしている。
『……たぬきは、おしまいではないですか』
「ないです。全然ないです」
たぬきは前を見て、走り鳥を見た。すると走り鳥は、首をぐっと下げて、たぬきと同じ高さまで頭を持ってきた。ぺこり、と一礼するみたいに。
ジーナが、息をのんだ。
「この子が、ほかの召喚獣に頭を下げるなんて」
いや、たぶん「驚かせてごめん」くらいの話だと思う。
たぬきは、しばらく走り鳥と見つめ合っていた。それから、何事もなかったように歩きだした。さっきまでの絶望は、どこへ行ったのか。ふんふんと鼻を鳴らして、道ばたの草をにおっている。
「……テオ君のタヌキ殿は、すごいですね」
ジーナが、真顔で言った。
「そ、そうですか」
俺は、たぬきの丸い後ろ姿を見ながら、首をかしげるしかなかった。
* * *
幻獣クラスには、放課後、教室でお茶を飲む習慣がある。
その日も、シモン先生が、教室の隅の小さな炉に、丸い鉄のケトルをかけていた。ずんぐりした胴体に、小さな口と持ち手が付いている。
湯が沸くのを待ちながら、足もとのたぬきを眺める。それから、ケトルを見る。たぬきの丸いおなかを見る。
……似てる。
前世の昔話が、頭に浮かんだ。たぬきが茶釜に化けて、最後に火にかけられて、慌てて足を出すやつ。
「なあ、たぬき」
小声で話しかけた。
「おまえ、たぬきなら変化できるの? 葉っぱとか頭に乗せてやるでしょ」
たぬきは、ぱちっと目を開けた。
『ええ、もちろん』
「できるのか」
『葉っぱなど、いりませんがね』
たぬきは、これ以上ないくらいのドヤ顔をした。
『ご覧なさい。たぬきの、すごいところを』
たぬきは立ち上がって、炉の前の板の間に移動した。ふんっと胸を張り、目を閉じる。尻尾の先が、ぴくぴくと動く。
「ぽん!」
白い煙がふわっと広がった。煙が晴れると、そこには、一つの鉄のケトルが置かれていた。
つやつやした黒くて丸い胴体。小さな蓋。持ち手。
(ぶんぶく茶釜みたいだ……)
……目の前のケトルそっくりに、変化している。ただ、その後ろから、ふさふさした尻尾が、堂々とはみ出していた。
「…………すごいのか?」
『素晴らしい変化でしょ』
ケトルがしゃべった。声は、もちろん俺にしか聞こえない。得意そうな響きだ。
周りの同級生たちが、がたっと席を立った。
「道具に擬態を……!」
「魔力の気配が、完全に消えている」
「先生、これは高位の変化術では」
シモン先生が、眼鏡を押し上げて、ケトルに顔を近づけた。
「……見事だ。形も、質感も、何ひとつ違わない。尻尾をあえて残しているのは、本体としての誇りだろうか」
違う。ただ、詰めが甘いだけだ。
でも、ケトルは誇らしげに、尻尾をゆらゆら揺らしている。
「しかし、確かに変化してるな。これなら、間違えて火にかけられたり――」
その瞬間だった。
ぽんっ、と煙が上がって、たぬきが元の姿に戻った。しかも、全身の毛がぶわっと逆立っている。
『ひっ……ひっ……』
「あ、いや、冗談だよ。本当にはしないから」
『たぬきは……もう、おしまいです……』
ガタガタ震えながら、たぬきはその場でころりと丸まってしまった。
「大丈夫だって。誰も火にかけたりしないって!」
俺はしゃがんで、たぬきの背中をなでた。ふわふわの毛が、まだ小刻みに震えている。
「ごめんな。ほら、おやつあげるから!」
たぬきは、ようやく震えを止めた。ゆっくりと顔を上げて、鼻をひくひく動かす。
『さつまいもが好きです』
……立ち直りが早い。
その横で、先生が熱心に手帳を書いている。「変化の直後に、本体が震える。これは、術の反動か」
違う。ただ、怖かっただけだ。
* * *
俺は寮のベッドに倒れ込んだ。
疲れた。本当に疲れた。
憧れの魔法学園生活。想像していたのは、相棒と一緒に特訓したり、冒険したりする、かっこいい日々だった。実際は、毎日、たぬきのお世話と、周囲の勘違いへの対応で終わっている。
窓辺では、たぬきが丸い月を見上げて座っていた。珍しく、静かだ。何を見ているのかは、分からない。
「……ドラゴンだったら、どうだったのかな」
天井に向かってつぶやくと、足もとでごそごそと音がした。
たぬきが、布団の中に潜り込んできたのだ。
俺の脇のあたりで、くるりと丸くなる。ほかほかと、温かい。小さな体が、すうすうと上下している。
「……ちょっと。お前、どいてよ」
『…………』
返事はなかった。もう寝息を立てている。
俺は、ため息をついた。それから、そっと、たぬきの背中を撫でた。ふわふわで、あったかくて、ちょっと日向のにおいがする。
(……まあ、ドラゴンじゃなくてよかったのかもな)
そう思ってしまった自分に、少し驚いた。
たぬきは寝ぼけたように、ぽん、と小さく鳴いて、尻尾を俺の手に絡めてきた。先っぽのさらさらが、くすぐったかった。
* * *
初夏の、よく晴れた昼だった。
俺たちは、校庭の芝生で昼飯を食べていた。ロビンも、ジーナも、幻獣クラスの同級生たちも一緒だ。芝生の真ん中では、たぬきが焼いたさつまいもを両手で抱えて、至福の顔でかじっている。
「タヌキ殿、本当に幸せそうだな」
「うん。こいつ、これさえあれば何も要らないんだよ」
そんなのどかな時間だった。
最初に気づいたのは、鳥の声が消えたことだ。さっきまで木々でさえずっていた小鳥たちが、ぴたりと黙った。風も止まる。校庭の空気が、重く、静かになる。
「……なんだ?」
ロビンが、空を見上げた。
雲の切れ間から、光が降りてきた。金色の、細かい粒が舞うような光。その中を、ゆっくりと、一頭の獣が降りてくる。
校庭が、一気に騒がしくなった。
「なんだ、あれ!」
「光ってる……!」
「先生、先生を呼べ!」
駆けつけたシモン先生は、顔を真っ青にして、手帳を持つ手を震わせていた。
「文献にしか存在しないはずの……まさか、実在していたとは」
先生は、その場に膝をついた。同級生たちも、一人、また一人と、姿勢を正していく。誰かが、小さく「伝説の……」とつぶやいた。さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、校庭が静まっていく。
獣は、芝生の上に降り立った。
しなやかな体に、長い四肢、すらりとした首。毛色は茶と黒で、たぬきとよく似ているのに、まるで別の生き物みたいに気品がある。ふさふさした尻尾が、地面に触れるか触れないかのところで、ゆらりと揺れていた。目は、静かな金色だった。
獣は、まっすぐこちらへ歩いてきた。
……いや、俺じゃない。俺の足もとの、さつまいもを抱えた丸い生き物のほうへ。
『ようやく、見つけました』
声が響いた。頭の中に。しかも、どうやら俺にだけじゃないようだ。そこにいる全員が、その声を聞いていた。落ち着いた、深くてあたたかな声だった。
獣は、たぬきの前で足を止めて、頭を低くした。鼻先を、たぬきの鼻にそっと触れさせる。
たぬきは、口いっぱいに芋をほおばったまま、獣を見上げて、ぱちぱちとまばたきをした。
「ぽん!」
『お母さん』
『ええ。心配しましたよ』
獣が、ふっと目を細めた。笑っているのだと思う。
それから顔を上げて、俺をまっすぐに見た。
『人の子よ。わたくしは、アウレリアと申します。この子の母です』
「は、母……」
この神々しいのが母で、足もとの、頬いっぱいに芋を詰めているのが子ども。毛色は同じだ。同じなんだけど。
『この子が、迷惑をかけていないか心配でした』
「あ、いえ、その。迷惑というか……はい、毎日いろいろありましたが」
周りの同級生が、小声でざわついた。「毎日いろいろ……」「伝説の母君に、あの返答」「肝が据わっている」。違う。正直なだけだ。
アウレリアは、静かに話し始めた。
『この子は本来、この世界へ来るはずではなかったのです。わたくしの目の届くところで遊んでいたのに、ほんの一呼吸、目を離してしまいました。そこへあ、なたの呼び声が、世界の境の隙間を通って届いてしまったのです。この子は、好奇心が強いので』
あの儀式のとき、光が一瞬弱まって、また強まった。あれのことか。先生たちが「ん?」という顔をしていた理由も、なんとなく分かった気がした。
『世界を越える道を探すのに、時間がかかりました。まだ赤ん坊のこの子を、見知らぬ場所に一人にして、申し訳ありませんでした』
たぬきは、母親の足に、ぐりぐりと頭をこすりつけていた。すっかり甘えている。それでも、手の中のさつまいもは離していない。
アウレリアは、そんな子を、しばらく静かに見つめていた。
『けれど、この子の毛並みを見れば分かります。毎日、丁寧に整えてもらっていたこと。顔つきがとても穏やかなこと。あなたが、大切にしてくださっていたのですね』
「え。いや、俺は、普通に……」
顔が、熱くなった。
『この子は、あなたをとても気に入っているようです。わたくしが連れ帰るのは簡単ですが、この子が、それを望んでいません』
足もとで、たぬきが、俺のズボンのすそをぐいっとつかんだ。いつの間にか、母親のそばから戻ってきている。
『……本人が気に入っているようですから、このまま、よろしくお願いできますか』
軽い頼みごとの口調だった。大げさな別れの言葉じゃなくて、近所の家に子どもを預けるときみたいな。
……ああ、そうか。返事なら、とっくに決まっていた。
「はい。俺でよければ」
『ありがとうございます』
たぬきは、俺を見上げていた。きょとんとした顔で、小首をかしげる。
『たぬきは、すごいたぬきです』
『たぬき。よい名前を、もらいましたね』
『さつまいもが好きです』
母親は、優しくふっと目を細めた。
『この子が一人前になるまでには、千年ほどかかります。頼みましたよ』
俺は、母親を見て、足もとのたぬきを見た。
「…………千年」
アウレリアは、たぬきの額にそっと鼻先を触れさせると、金色の光とともに、ふわりと空へ消えていった。
光が消えたあとも、校庭はしばらく静まり返っていた。やがて、ロビンがぽつりと言った。
「テオ。お前、すごい奴だったんだな」
「伝説の幻獣を、生きているうちに、この目で見られるなんて……」
「千年かかるって、おっしゃってたよな」
「それを預かるんだろ。あの召喚士、有能すぎる……」
ジーナが、真顔で俺の肩にそっと手を置いた。シモン先生は、まだ膝をついたまま、手帳に何かを懸命に書きつけている。
俺は、ぽかんと口を開けたまま、動けなかった。
* * *
その日の夕暮れ。
俺は、中庭のベンチに座って、たぬきの母親が消えた空を見上げていた。足もとでは、たぬきが、相変わらずコロンコロンと転がっている。
ようやく、頭が追いついてきた。
あの、しなやかで優雅な、サラサラの毛並み。凛とした金色の目をした神々しい獣。
それから、足もとにいる、丸くてふわふわの、頬にさつまいものかけらをつけた毛玉。
俺は、ゆっくりと視線を下ろした。
「……え、お前、将来ああなるの?」
たぬきが、むくりと起き上がった。丸い目で、俺を見上げる。
『ええ。たぬきは、すごいたぬきですから』
「そっか。そっか……いや、そうなんだけど」
たぬきは胸を張って、ぽん、と鳴いた。夕日を浴びて、その尻尾の先が、きらりと光る。
母親は、たしかに言っていた。成長に、あと千年かかる、と。
つまり、このコロコロの毛玉が、あの美しい姿になるのは。
(千年後かい!!)
俺は心の中で、全力で叫んだ。
たぬきは、そんな俺を見て、満足げだ。ゆっくりと、俺の膝に乗って、くるりと丸くなる。ほかほかと、温かい。
憧れていたドラゴンも、かっこいい冒険も、今のところ、ひとつもない。
代わりに俺には、ケトルに化けて、芋をねだって、道の真ん中で固まる、世界でいちばん図々しくて、愛おしいたぬきがいる。
千年か。長いな。
でも、まあ、悪くないか。
「じゃあ、長生きしなきゃな」
『ええ。たぬきも、がんばります』
「お前は、まず芋を我慢するところからだよ」
『……たぬきは、おしまいです』
「はいはい、芋もらいに行こう」
「ぽん!」
勢いよく復活した相棒を抱えて、俺は夕焼けの中庭を歩き出した。
ここから千年。いつまで一緒にいられるかは分からないけど、俺とたぬきの学園生活は、まだ、始まったばかりだ。




