『精霊の声を記す羽根ペン』~無能と追放された宮廷書記官、実は国の全魔力を握っていたと知った王家が詰んだ件~【短編版】
「セラ・インクウェル。無能な書記官のお前を解雇する。精霊の声など聞こえぬ嘘つきは、この王宮に不要だ」
宮廷の大広間に、王太子ロデリックの声が朗々と響いた。
磨き上げられた大理石の床。天井から降り注ぐ魔導灯の光。居並ぶ貴族たちの、好奇と嘲りの視線。
その中心に、私は立っていた。
セラ・インクウェル、二十二歳。宮廷筆頭書記官。灰銀の髪をきっちり結い上げ、指先にはいつものインク染み。地味なローブに包まれた、目立たない女。
(……ああ、始まったな)
前世の記憶が、ふと頭をよぎる。
佐倉星子。現代日本のブラック企業で校正者として働き、月の残業二百時間を超えたある夜、机に突っ伏したまま二度と目を覚まさなかった女。
その私が転生して、またしても『報われない書類仕事』をしている。因果なものだ。
「聞いているのか、セラ!」
ロデリック王太子が声を荒げる。金髪を鼻にかけた、整った顔。その隣には、赤毛の令嬢がしなだれかかっていた。
ミレーヌ。最近になって現れた『自称・精霊使い』だ。
「殿下、そのように怒鳴らずとも。このような無能に、優しくしてあげてくださいまし」
ミレーヌが扇の陰で笑う。憐れむような、勝ち誇った笑み。
「セラさんの契約書、拝見しましたけれど……あんな古臭いもの、時代遅れですわ。わたくしの新しい魔法陣で、全部やり直しますの」
(新しい魔法陣、ね)
私は内心でだけ、静かに息を吐いた。
毎朝。日の出とともに。私は王国全土の魔力供給契約を、たった一人で更新し続けてきた。
精霊の声を聞き、その言葉を文字に写し取る。代々インクウェル家に伝わる、『精霊の声を記す羽根ペン』でしか叶わぬ仕事を。
灯りが灯るのも。井戸に水が湧くのも。王宮の結界が保たれるのも。すべて、私が毎朝書いていたからだ。
誰も、それを知らない。
「ただ書類を書いているだけの無能」――そう侮られながら、私は十年、一日も欠かさず書き続けた。
(毎朝、日の出とともに、王国全土の魔力供給契約を、たった一人で更新してきたこの仕事を……ずいぶん軽く見てくれたものだ)
「……そうですか」
私は、口を開いた。
喚きもせず。涙も見せず。ただ、淡々と。
「では、羽根ペンはお返しします。契約の引き継ぎ書類は、こちらに」
静かに一礼して、私は羽根ペンを机の上に置いた。
どよめきが起こる。「まあ、往生際がいいこと」「無能のくせに潔いわね」――嘲笑が、さざ波のように広がっていく。
(我慢しない、と決めたんだ)
前世で、私は我慢し続けた。理不尽な残業も、手柄を横取りされることも、感謝されないことも、全部飲み込んで。
そして死んだ。
――もう、二度としない。
私が抜けたら回らないと知らずに切ったのは、そちらだ。
「引き継ぎ資料は、完璧に、正確にお渡ししました。一字一句、事実だけを。読むか読まないかは――あなたたちの自由ですよ」
「では、失礼いたします」
私は踵を返し、大広間を後にした。
背後で、王太子の勝ち誇った笑い声が響いていた。
◇
王宮を出る前に、私は引き継ぎ書類を、後任の机にそっと置いた。
表紙をめくれば、最初のページ。そこには、赤字でこう記してある。
『重要事項 ―― 必ず最初にお読みください』
『一、精霊契約は毎朝、日の出と共に更新を要する』
『二、更新者は羽根ペンに選ばれし者のみ。他者が書けば精霊は激怒し、契約はすべて破棄される』
『三、契約の破棄は、王国全土の魔力供給停止を意味する』
校正者として、私は文章の正確さに命を懸けてきた。曖昧さを許さず、事実だけを、誤解の余地なく書く。それが私の矜持だ。
だから、この引き継ぎ書類にも、嘘は一つもない。
(読んでくれれば、防げる。読んでくれれば、ね)
ちらりと視線を上げれば、その机の前を通り過ぎるミレーヌが見えた。
彼女は書類を一瞥もせず、鼻で笑って、そのまま床に払い落とした。
「こんな古臭い紙、いらないわ。わたくしには新しいやり方があるもの」
はらり、と一枚が舞い落ちる。
誰も、拾わなかった。
(……そう)
私は、それ以上何も言わなかった。
言う義務は、もう果たした。警告は、確かに残した。
あとは――知らんがな、というやつである。
静かに王宮の門をくぐる。振り返らない。
前世で二度と戻らなかった会社と同じように、私はこの場所に、もう未練はなかった。
王都の石畳を、私は一人歩いていく。
目指すのは、辺境。精霊の森。
羽根ペンの力の源、精霊たちが最も濃く息づく場所。
(さて。ここからは、私の人生だ)
報われなかった前世。侮られた今世。
そのすべてを――今日、清算する。
◇
辺境へ向かう街道を、私は淡々と歩いていた。
夕暮れが近い。精霊の森が、遠く紫紺の稜線に見えてくる。
そのとき、背後から馬蹄の音が響いた。
振り返ると――黒銀の馬に跨がった、長身の男がいた。
黒銀の髪。縦に裂けた竜眼。冷徹な無表情。
フェリクス・ドラゴネート辺境伯。竜の血を引く辺境の守護者。民に『氷の竜伯』と恐れられ、その一睨みで場が凍ると噂される男だ。
(……なぜ、辺境伯がこんなところに)
彼は馬を降り、私の前に立った。見上げるほどの偉丈夫。その竜眼が、まっすぐに私を見据える。
沈黙。
重い、氷のような沈黙。
やがて、彼はぶっきらぼうに口を開いた。
「行くな」
「……は?」
「行くな。……お前がいないと、精霊が泣く。俺も、困る」
言い終えた瞬間、彼の耳が――真っ赤に染まった。
(え)
氷の竜伯と恐れられる男が、耳まで赤くして、そっぽを向いている。
「あの……辺境伯様。私たち、初対面ですよね?」
「知っている。お前の契約書を、ずっと見ていた」
「見て……?」
「王都に届く魔力供給契約書。あの文字。……美しい」
彼は、拳を握りしめた。
「一分の狂いもない。精霊の声を、あれほど正確に写し取る者を、俺は他に知らん。あれは……芸術だ」
私は、言葉を失った。
十年間。誰にも評価されなかった、地味で正確な仕事。
「ただ書類を書いているだけ」と侮られ続けた、私の仕事を。
この男は――ずっと、見ていた。
「王宮がお前を捨てたと聞いた。愚か者どもだ」
フェリクスは低く言い捨てる。
「来い。辺境伯家に、お前の書斎を用意する。残業はさせん。茶も出す。……嫌か?」
最後の一言だけ、妙に不安げだった。
(この人……)
冷徹な外面。溶けた内面。あまりにも不器用な、その落差。
私は、思わず小さく笑ってしまった。
「残業代は、ちゃんといただきますからね」
「……む。当然だ。倍額でも払う」
交渉の余地なく即答され、私はもう一度笑った。
前世でも今世でも、誰も払ってくれなかった残業代を、この竜人はあっさり倍額で約束した。
「では、お世話になります。辺境伯様」
「……フェリクスでいい」
そっぽを向いたまま、彼はまた耳を赤くした。
精霊の森が、夕日に染まって光っていた。
◇
翌朝。日の出。
王宮の大広間では、ミレーヌが得意げに新しい魔法陣を床に描いていた。
「ご覧なさいませ、殿下。わたくしの魔法陣が、あの古臭い契約を上書きいたしますわ。これで王国は、より強大な魔力を得るのです」
「うむ、さすがはミレーヌだ。あの無能とは大違いだな」
ロデリック王太子が満足げに頷く。
ミレーヌは羽根ペンを――セラが置いていった、あの羽根ペンを握った。
魔法陣の中心に立ち、精霊の声を写し取ろうとする。
日の光が、大広間の窓から差し込んだ。契約更新の刻限。
その瞬間。
――ぶつり、と。
王宮の魔導灯が、一斉に消えた。
「な……?」
井戸から、水が引いていく。噴水が枯れる。厨房の魔導炉が沈黙する。
王宮を守る結界が、音もなく崩れ落ちた。
王都全域。灯りが消え、水が枯れ、あらゆる魔導具が死んだように動きを止める。
民のざわめきが、悲鳴に変わっていく。
「なぜ!? なぜ書けないの!?」
ミレーヌが羽根ペンを握りしめ、絶叫していた。
何度書こうとしても、羽根ペンは一文字も紡がない。精霊の声など、彼女には最初から――ただの一度も、聞こえていなかったのだ。
「精霊の声が……聞こえない……嘘、そんな、わたくしは……!」
インクは滲むばかり。文字にならない。魔法陣は、ただの落書きと化していた。
「ミレーヌ! どういうことだ! 早く直せ!」
「わ、わたくしのせいでは……! これはあの女が、何か細工を……!」
そのとき。
大広間に、白髪の老官吏が転がるように駆け込んできた。王家に長年仕える宮廷使者だ。
彼の手には――床に落ちていた、あの引き継ぎ書類が握られていた。
「殿下! 大変です! これを、これをお読みください!」
震える声で、老官吏はそのページを読み上げた。
「『精霊契約は毎朝、日の出と共に更新を要する。更新者は羽根ペンに選ばれし者のみ。他者が書けば精霊は激怒し、契約はすべて破棄される』……!」
大広間が、凍りついた。
「セラ・インクウェル殿が、確かに残していかれた警告です! 誰も……誰も、読まなかったのです!」
ロデリックの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そんな……あの無能が、まさか……本当に……国の全魔力を……?」
「殿下」
老官吏は、青ざめた顔で、しかしどこか吹っ切れたように告げた。
「セラ殿は――このように伝言を残されておりました」
「なんと言った」
老官吏は、震える声で、その言葉を口にした。
「――『知らんがな、が正解ですわね』、と」
◇
辺境伯家の使者が到着したのは、その日の午後だった。
いや、使者ではない。王家の宮廷使者――あの白髪の老官吏その人が、王家の紋章を掲げ、土下座せんばかりの勢いで辺境伯領へ駆け込んできたのだ。
「セラ様! どうか、どうか王都へお戻りください! このままでは、王国が滅びます! 殿下も、ミレーヌ嬢も、深く反省しておられます! 報酬は望むままに! どうか、どうか……!」
私は、辺境伯家の静かな書斎で、彼の言葉を聞いていた。
窓の外には精霊の森。差し込む午後の光。机の上には、書きかけの契約書と、私の羽根ペン。
老官吏は、床に膝をついた。白髪頭を垂れて。
(……ずいぶんな変わりようだ)
昨日まで「無能」と嘲笑した者たちが、一夜で土下座同然に懇願している。
失って、初めて気づく。
地味で正確な仕事の価値を。
私は、羽根ペンを置いて、静かに口を開いた。
「初対面ですが?」
「……は?」
老官吏が、顔を上げる。
「私はもう、辺境伯家の専属書記官です。王宮の書記官セラ・インクウェルという者は、昨日、確かに解雇されました。『精霊の声など聞こえぬ嘘つき』として、ね」
「そ、それは、殿下の誤解で……!」
「誤解?」
私は、微かに笑った。前世の校正者としての、事実だけを見つめる冷たい目で。
「引き継ぎ書類には、すべて正確に記してありました。一字一句、事実だけを。それを読まなかったのは、そちらの選択です」
「……」
「私は、警告を残す義務を果たしました。それ以上でも、以下でもありません」
そのとき、書斎の扉が開いた。
フェリクスが、静かに入ってくる。竜眼を細め、老官吏を見下ろした。
「話は聞いた」
低い、氷のような声。
「この森の精霊は、セラの契約でしか動かん。王都に売る魔力の値段は……こちらで決める」
老官吏が、息を呑んだ。
「な……そ、それでは、魔力の供給は……!」
「相応の対価を払えば、考えてやってもいい。ただし――」
フェリクスの竜眼が、冷たく光った。
「セラを侮辱した王家に、そもそも交渉の資格があるかどうか。それは、これから決めることだ」
経済も、政治も。国の命脈たる魔力インフラの主導権は――今この瞬間、辺境へと移った。
王家が握っていたはずの全魔力は、最初から、たった一人の地味な書記官の指先に、握られていたのだ。
「セラ様……どうか……」
すがりつく老官吏に、私は最後に、静かに告げた。
「苦情は、受け付けません」
窓の外、精霊の森が、さやさやと揺れて笑っていた。
◇
季節が、静かに流れた。
辺境伯家の書斎で、私は今日も羽根ペンを走らせている。
日の出とともに、精霊の声に耳を澄ませる。さらさらと囁く、この世界の根幹の声を。それを一字一句、正確に、丁寧に文字へ写し取る。
精霊たちは、私の書く文字を愛してくれる。曖昧さのない、まっすぐな、正確な仕事を。
(前世では、誰にも評価されなかったな)
過労死するまで、正確さに命を懸けた校正の仕事。感謝の一つもなく、残業代も出ず、机に突っ伏したまま終わった人生。
でも、ここでは違う。
この世界では、私の『正確な仕事』が、宝物として扱われる。国そのものを支える、かけがえのない価値として。
「セラ」
静かな声。
振り返ると、フェリクスが盆を手に立っていた。氷の竜伯と恐れられる男が、湯気の立つ茶器を、そっと机に差し出す。
「茶だ。……熱いから、気をつけろ」
「ありがとうございます」
私が受け取ると、彼は私の書きかけの契約書に目を落とした。
竜眼が、わずかに和らぐ。
「……今日の契約書も、美しい」
耳が、また少し赤い。
私は、小さく笑った。
「残業代は、ちゃんといただきますからね」
「……む。倍額で払っている」
「知っています。だから、ここが好きなんです」
フェリクスが、ぐっと言葉に詰まって、そっぽを向いた。
耳どころか、首まで赤くなっている。竜の血を引く辺境の守護者は、どうやら私の一言一つで、簡単に溶けてしまうらしい。
窓の外に目をやれば、街道に長い列ができていた。
王都から、近隣諸国から。魔力供給を求める陳情の使者たちが、今日も辺境の門前に列をなしている。
かつて「無能」と私を切り捨てた王家も、その列の中にいるのだろう。
でも、それはもう、私の関知するところではない。
私は、羽根ペンを握り直す。
精霊の声が、優しく囁く。
さあ、今日の仕事を始めよう。
報われなかった前世も、侮られた昨日も、すべて越えて。
私の指先が紡ぐ一文字が、この世界を今日も動かしていく。
――なお、陳情の列がどうなったかは、また別の話。
苦情は、受け付けませんので。




