続・帰還勇者は静かに暮らせない
六月の午後。
雨は降っていないのに、空気だけがじっとりと湿っている。
篠宮悠人は教室の一番後ろの席で、窓の外を眺めていた。
グラウンドでは体育の授業をしている。
生徒たちの笑い声。
吹奏楽部の音。
遠くを走る電車。
平和だった。
異世界アルディアとは違う。
血の臭いもしない。
魔物の気配もない。
でも、悠人はこの平和に、まだ馴染めなかった。
戦場では、静かな時間ほど危険だったからだ。
「篠宮くーん」
間延びした声。
悠人はゆっくり視線を戻す。
女子生徒が机の横に立っていた。
朝倉美咲。
同じクラスの少女。
ブレザーの袖を少し余らせ、制服の下にグレーのパーカーを着ている。
人懐っこい笑顔。
だが時々、妙に鋭い目をする。
「またぼーっとしてる」
「してない」
「してるって」
美咲は勝手に前の席へ座った。
近い。
悠人は少し眉をひそめる。
「何か用か」
「別にー」
美咲は頬杖をつきながら悠人を見る。
「篠宮くんってさ」
「何」
「なんか、“ここにいない人”って感じする」
悠人の動きが止まった。
美咲は気づいていない。
何気なく言っただけだ。
だが、その言葉は妙に胸へ刺さった。
悠人は視線を逸らす。
「意味分からん」
「えー、なんとなく」
美咲は笑う。
だが次の瞬間。
キーン、と耳鳴りが響いた。
悠人の表情が変わる。
《異界反応》しかもかなり近い。
「っ……」
無意識に立ち上がる。
「篠宮くん?」
「今日は寄り道するな」
「え?」
「まっすぐ帰れ」
それだけ言い残し、悠人は教室を飛び出した。
美咲はぽかんとその背中を見送る。
「……なにあれ」
でも、胸騒ぎがした。
嫌な予感。
昔から時々感じる、“普通じゃない何か”。
気づけば、美咲も立ち上がっていた。
駅前は騒然としていた。
悲鳴。
怒号。
逃げ惑う人々。
駅ビル横の空間が黒く裂けていた。
「うそ……」
美咲は息を呑む。
裂け目の奥から、巨大な黒い獣が現れ咆哮を上げる。
赤い眼。
鋭い牙。
異様に長い腕。
怪物だった。
ガラスが砕け、人々が悲鳴を上げる。
警察官すら後退していた。
そんな中、一人だけ怪物へ向かって歩いていく人影があった。
「……篠宮くん」
制服姿の悠人だった。
だが空気が違う。
静かすぎる。
戦うことに慣れきった人間の空気。
怪物が悠人へ飛びかかる。
その瞬間。
黒い閃光と轟音。
怪物の腕が宙を舞った。
血飛沫が舞い怪物の絶叫が響きわたる。
美咲の目が見開かれる。
悠人の右手には、漆黒の剣が握られていた。
「下がってろ」
低い声。その声に反応するかのように、怪物が怒り狂ったように咆哮する。
怪物は大きく開いた口から黒い炎を吐き出した。
炎が悠人に迫り熱風が吹き荒れる。
だが、
「《障壁》」
悠人がつぶやくように言葉を紡ぐと
透明な壁が炎を防ぐ。
悠人が前へ出る。
その背中を見た瞬間。
美咲は思ってしまった。
この人はずっと、こういう場所で生きてきたんだ、と。
その時だった。
空間が再び揺らぐ。
銀色の光。
悠人の目が見開かれる。
「……まさか」
裂け目の奥から、一人の少女が現れた。
長い銀髪。
透き通るような白い肌。
青い瞳。
白銀のローブ。
そして、尖った耳。
周囲の空気が変わる。
圧倒的な魔力。
少女は周囲を見回し、そして悠人を見つけた。
数秒。
完全な静止。
次の瞬間。
「悠人!!」
少女は駆け出していた。
そのまま悠人へ抱きつく。
美咲は完全に固まる。
「えっ」
悠人も珍しく動揺していた。
「……リア」
「やっと……見つけました」
少女――リア・エルフェルトは、泣きそうな顔で悠人を見上げる。
美咲は呆然としていた。
銀髪。
尖った耳。
しかも異様に綺麗。
現実感がない。
だが。
もっと驚いたのは、悠人の表情だった。
初めて見た。
篠宮悠人が、“安心した顔”をするところを。
リアは悠人の服を掴んだまま言う。
「あなた、一人で無茶をしましたね」
「帰還初日から魔獣出たんだから仕方ないだろ」
「だからといって単独戦闘は駄目です」
「説教しに来たのか」
「半分は」
その会話が妙に自然だった。
長い時間を一緒に過ごした人間同士の距離感。
美咲は少しだけ胸がざわつく。
その時。
怪物が再び咆哮した。
まだ生きていた。
巨大な身体で突進してくる。
だがリアは振り返りもしない。
「邪魔です」
銀色の魔法陣が展開される。
次の瞬間。
無数の氷槍が空中へ浮かんだ。
美咲の目が見開かれる。
「え……」
「《氷葬》」
氷槍が一斉に射出された。
轟音。
怪物の身体が氷ごと吹き飛ぶ。
周囲が静まり返った。
煙が晴れる。
そこには、完全に凍り砕けた怪物の残骸だけが残っていた。
リアは何事もなかったように悠人を見る。
「怪我は」
「ない」
「本当に?」
「……少し腹刺されたくらい」
「ありますね?」
「治った」
リアは深いため息をついた。
美咲はそんな二人を見ながら、小さく呟く。
「……何これ」
完全に世界が変わってしまった。
でも。
それでも。
目の前の悠人から目を離せなかった。
悠人はそんな美咲へ気づき、少しだけ気まずそうな顔をする。
「……朝倉」
「うん」
「説明すると長い」
「うん」
「あと多分、かなり面倒なことになる」
美咲は数秒黙ったあと、小さく笑った。
「……もう手遅れじゃない?」
その言葉に。
悠人は珍しく、少しだけ苦笑した。




