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愛想笑いができない無愛想な妻ですが、政略結婚した旦那様は「そのままの君がいい」とすべてを全肯定して溺愛してきます!

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/03/30

 婚姻の儀が滞りなく終わり、クロエ・フォン・アルトフェルトは——いや、今日からはクロエ・フォン・ヴァイスシュタインは、夫に与えられた寝室の前で静かに息を吐いた。


 鏡に映る自分の顔を見る。

 白いレースのナイトドレスに包まれた、感情の読めない顔。唇は真一文字に結ばれ、眉は微動だにしない。

 ——笑おう。せめて今日くらいは。

 口角を持ち上げようとした。頬の筋肉がぴくりと痙攣し、引きつった何かが顔面に張り付く。鏡の中の自分は、笑顔というよりも腹痛を堪えているようにしか見えなかった。


 ——婚約期間中の顔合わせも、これと同じだった。


 三ヶ月前。アルトフェルト伯爵家の応接間で、クロエは初めてランベルトと向かい合った。父が横で「何か気の利いたことを言え」と目配せしていたが、クロエの口から出たのは「お初にお目にかかります。クロエ・フォン・アルトフェルトです」という事実の羅列だけだった。

 そのあとが続かない。天気の話も、社交界の話題も、喉元で全部つかえてしまう。沈黙が十秒、二十秒と積もる中、父が慌てて割って入り、クロエは退室させられた。


 二度目の顔合わせは、王宮の庭園だった。

 付き添いの侍女に背中を押されてランベルトの前に出たものの、やはり会話が続かない。噴水が綺麗ですね、と言おうとして——噴水を見たまま黙り込んでしまった。綺麗だと思っているのに、その感想が声にならない。

 ランベルトが何か話しかけてくれた気もするが、クロエは自分の不甲斐なさに必死で、内容を覚えていなかった。一言二言を返すのがやっとで、俯いたまま時間が過ぎた。


 三度目。婚姻の段取りを決める席。

 クロエは意を決して笑顔を作ろうとした。結果は——今、鏡の前で失敗したのと全く同じ。引きつった顔をランベルトに向けてしまい、父が「体調が優れないようで」と取り繕った。


 三回の顔合わせ。三回とも、まともに会話ひとつできなかった。


 ——ランベルト様は、きっとうんざりされている。

 事務的な挨拶しかできない、愛想のかけらもない婚約者。断らなかったのは、両家の政略上の都合に過ぎない。期待されていないことは、わかっている。


 クロエは鏡から目を逸らし、寝室の扉を叩いた。返事を待って、静かに室内へ足を踏み入れる。

 暖炉の明かりに照らされた執務机で、ランベルト・フォン・ヴァイスシュタイン公爵は書類から顔を上げた。婚姻の夜だというのに仕事をしている辺り、この結婚に何の期待も抱いていないのだろう。顔合わせの時のクロエの態度を思えば、当然のことだった。


 クロエは寝室の入口で立ち止まり、姿勢を正した。


「——ランベルト様」


 淡々と、しかし今日だけはきちんと伝えなければならないことがあった。顔合わせの時のように曖昧なまま終わらせてはいけない。


「申し上げておきたいことがございます」


 クロエは背筋を伸ばしたまま、まっすぐに夫を見た。灰青色の瞳がこちらを見つめ返している。


「顔合わせの折には、ろくに会話もできず……大変失礼いたしました」


 まず、詫びるべきことを詫びる。


「ご存知の通り、私には気の利いた会話も、場を和ませる愛想笑いもできません。笑おうとすると顔が引きつってしまい、不快にさせてしまいます」


 一拍、間を置く。


「ですから、何かと不快にさせるかもしれませんが——妻としての裏方の仕事だけは完璧にこなすことをお約束いたします。せめてそれだけは、ご期待に応えたく存じます」


 深く、正確な角度で頭を下げた。実家で何度も叩き込まれた、寸分の狂いもないお辞儀。

 沈黙が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、広い寝室に響く。


 ——やはり、呆れられただろうか。顔合わせの時と同じだ。私が口を開くと、いつもこうなる。


 父の声が脳裏をよぎる。


 ──お前のその仏頂面では、公爵家の顔に泥を塗ることになる

 ──せめて愛想笑いのひとつくらい覚えろ、この木偶の坊


 頭を下げたまま、クロエは唇を噛んだ。


「——ああ」


 低く、穏やかな声が降ってきた。


「君は君のやりやすいように過ごしてくれ」


 顔を上げると、ランベルトは書類を脇に寄せ、頬杖をついてこちらを見ていた。怒りも、落胆も、嘲りも、その端正な顔にはない。ただ静かな凪のような表情がそこにあった。


「長旅で疲れただろう。今日はゆっくり休みなさい」


 ——呆れられてしまった。顔合わせの時と、何も変わらない。


 クロエはそう結論づけ、もう一度頭を下げてから、隣室の自分の寝室へと戻った。



 ※



 扉が閉まるのを見届けて、ランベルト・フォン・ヴァイスシュタインは頬杖をついたまま、ふっと小さく息を漏らした。

 その口元に、微かな笑みが浮かんでいたことを、クロエは知らない。


「——やはり、嘘がないな」


 初めて会った時から、そうだった。

 三ヶ月前、アルトフェルト伯爵家の応接間。緊張で強張った顔のまま、取り繕うこともせず名乗ったあの娘。沈黙が落ちても、慌てて愛想笑いで埋めようとはしなかった。不器用に黙り込んだだけだった。

 二度目の庭園では、噴水を見つめたまま言葉を探している横顔が見えた。何か言おうとして、言えなくて、悔しそうに唇を引き結ぶ。そのひとつひとつが、作り物ではない生の感情だった。

 三度目に向けてくれた引きつった笑顔は、確かに笑顔としては酷いものだった。けれど——無理をしてでも笑おうとした、その不格好な必死さに、ランベルトは胸を衝かれた。


 社交界で擦り切れるほど浴びてきた、計算ずくの愛想笑い。裏に思惑を忍ばせた甘い言葉。腹の探り合いを薄絹で包んだだけの賛辞。

 そういったものが一切ない、剥き出しの誠実さ。


 あの顔合わせの帰り道で、ランベルトはとうに決めていた。この婚姻を、断る理由は何もないと。


 ランベルトは目を閉じ、先ほどのクロエの真っ直ぐな瞳を思い返した。


「——面白い妻だ」


 暖炉の火が、穏やかに揺れていた。



 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲



 結婚から二週間が経った。


 クロエは宣言通り、ヴァイスシュタイン公爵邸の管理を完璧にこなしていた。使用人の配置を効率化し、食材の仕入れ先を見直し、庭園の手入れの頻度を季節に合わせて再編した。すべて無表情のまま、淡々と、しかし一分の隙もなく。

 使用人たちは最初こそ戸惑ったものの、彼女の指示が常に的確で、誰にとっても働きやすい環境を整えるものだと気づいてからは、敬意を持って従うようになっていた。


 夫婦の会話は、ほとんどなかった。

 ランベルトは朝早くに登城し、深夜に帰邸する。すれ違うのは朝の食卓だけで、クロエが「行ってらっしゃいませ」と無表情に告げ、ランベルトが「ああ」と短く応じる。それだけだった。


 ——これでいい。

 クロエは毎朝、そう自分に言い聞かせた。期待も落胆もない、穏やかな無関心。それが政略結婚の正しい形だ。


 ある朝、クロエはいつものように食堂でランベルトの到着を待っていた。

 足音が近づき、扉が開く。


 ——顔色が悪い。


 ランベルトは普段通りの涼しい顔をしていたが、クロエは見逃さなかった。目の下の隈が濃くなっている。肌の血色も、三日前と比べて明らかに落ちていた。


 クロエは何も言わなかった。「お疲れ様です」と労う言葉が喉元まで来て、そのまま沈んでいった。気の利いた声かけのひとつもできない自分が、また少しだけ嫌になる。


 その日の夜、クロエは厨房を訪ねた。


「明日の朝食の献立を変更します」


 料理長が振り返ると、クロエは一枚の紙を差し出した。無表情のまま、淡々と。


「パンは通常のライ麦ではなく、白い小麦粉で。発酵は長めに取って、できるだけ柔らかく焼き上げてください。消化に負担がかからないように」


 料理長が紙を受け取り、目を通す。びっしりと整った文字で、材料の分量から調理の手順まで細かく書き込まれていた。


「スープは肉の煮込みから変えます。鶏の骨から出汁を引いた澄んだコンソメに。余分な脂は丁寧に掬い取ること。根菜は小さく刻んで、透き通るまで煮込んでください」


 料理長は長年この屋敷で働いてきたが、ここまで具体的な献立の指示を受けたのは初めてだった。しかも、ただ手の込んだ料理を求めているのではない。すべての指示に一貫した方針がある。


 ——胃に優しく、身体を温め、疲れた体に染み渡るもの。


「……承知いたしました、奥様」


 クロエは小さく頷き、厨房を出た。「旦那様のお身体が」とも、「最近お疲れのようなので」とも、一言も言わなかった。ただ紙を渡して、変更を告げただけ。


 けれど料理長には十分すぎるほど伝わっていた。この無愛想な奥様が、誰のために献立を考えたのか。


 翌朝。

 食堂に現れたランベルトの前に、いつもと違う朝食が並んでいた。


 クロエは向かいの席に座り、無表情のまま自分の食事に手をつけた。何の説明もしない。


 ランベルトは一瞬、並べられた皿を見つめた。そして白パンをひとつ手に取り、口に運ぶ。

 続いて、スープを一口。


 ふっ、と。

 張り詰めていた肩の力が、目に見えて抜けた。


「ありがとう、クロエ」


 名前を呼ばれたのは、結婚してから初めてだった。


 クロエは突然のことで何と返せばいいのかわからなかった。「どういたしまして」と言えばいいのか、「お口に合ったなら良かったです」と返せばいいのか。どの言葉も、口の中で乾いて張り付いてしまう。


 結局、クロエは小さく頷いただけで、再び視線をスープに落とした。



 その日から、朝食のメニューは密かにランベルトの体調に合わせて変わるようになった。

 眠りが浅そうな日にはカモミールの香りを忍ばせた温かいミルクを。食が細くなっている日には胃に優しい粥を。肌寒い朝には生姜をすりおろした根菜のポタージュを。


 クロエは一度も「お身体大丈夫ですか」とは聞かなかった。

 ランベルトは一度も「なぜメニューが変わったのか」とは聞かなかった。


 無言の食卓に、静かな信頼が芽生え始めていた。




 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲




 結婚から一ヶ月半が経った頃、避けられない日がやってきた。

 王宮での春の夜会。宰相夫人として、クロエの出席は不可避だった。


「……参りましょう」


 薄い紫のドレスに身を包んだクロエは、馬車の中でランベルトにそう告げた。無表情は、いつも通り。ただ、膝の上で重ねた手が、ほんの僅かに白くなっていた。


 ランベルトはそれに気づいたが、何も言わなかった。ただ、「ああ」と応じて馬車を降り、クロエに手を差し出した。


 夜会の広間は、光と笑い声に満ちていた。

 シャンデリアの下で貴婦人たちが扇を翻し、華やかな笑顔を振りまいている。誰もが巧みに場の空気を読み、絶妙な間合いで会話を弾ませ、計算し尽くされた愛想笑いで社交の波を渡っていく。


 クロエにはできないことばかりだった。


 ランベルトが各国の要人との挨拶に向かうと、クロエは自然と壁際に退いた。話しかけてくる者もいたが、クロエの無表情を前にすると、皆一様に困惑した笑みを浮かべ、早々に去っていった。


 ——仕方がない。いつものことだ。


 クロエは壁に背を預け、広間を静かに眺めていた。


「まあ、あの方がヴァイスシュタイン公爵夫人?」


 背後から、甲高い声が聞こえた。柱の向こう側で、扇の陰に隠れた貴婦人たちの囁き声。


「愛想のかけらもないわね。あんな仏頂面で夜会に来るなんて」

「ランベルト様も可哀想に。あんな無愛想な妻では、社交の場で恥をかくだけでしょう」

「せめて笑顔くらい作ればいいのに。伯爵家の教育はどうなっているのかしら」

「まあ、所詮は政略結婚ですもの。愛がないから、愛想もないのでしょうよ」


 くすくすと、嘲りを含んだ笑い声。


 クロエの表情は変わらなかった。

 変わらなかったが、重ねた手の力だけが、じわりと強くなった。


 ——知っている。全部知っている。

 笑えないことが、どれほど損なことか。愛想笑いひとつで人の心を掴める人間がいることも、自分にはそれが永遠にできないことも。

 父に「木偶の坊」と呼ばれた日から、ずっと知っていた。


 クロエは静かに広間を抜け出し、バルコニーに出た。

 夜風が薄い紫のドレスを揺らす。眼下には王宮の庭園が広がり、月明かりが噴水の水面を銀色に染めていた。


 ——やはり、私はこの場所に相応しくない。


 手すりに手をかけ、俯く。涙は出なかった。泣き方すら不器用な自分が、少しだけ滑稽だった。


「ここにいたのか」


 背後から、聞き慣れた低い声。振り返ると、ランベルトが広間から出てくるところだった。要人との社交を途中で切り上げてきたのだろう、僅かに乱れた髪をそのままにしている。


「ええ。少し外の空気を吸っていました」


 クロエは姿勢を正し、いつも通りの無表情で応じた。


 ランベルトは彼女の隣に立ち、庭園を見下ろした。数秒の沈黙の後、ぽつりと言った。


「帰ろう」


「——え?」


「君のいない喧騒は、息が詰まる」


 クロエが何か言う前に、ランベルトは彼女の手を取っていた。手袋越しでも伝わる、大きくて温かい手。


「で、ですが旦那様、まだ社交のお時間が」


「構わない。宰相が早退したところで、国は滅びない」


 淡々と、しかし有無を言わせない口調で言い切ると、ランベルトはクロエの手を引いて広間には戻らず、裏廊下から直接馬車寄せへと向かった。

 すれ違う侍従が驚いた顔をしたが、ランベルトは一顧だにしなかった。


 馬車に乗り込み、扉が閉まる。車輪が石畳の上を転がり始めると、夜会の喧騒が嘘のように遠ざかっていった。


 クロエは、繋がれたままの手を見下ろしていた。


「……申し訳ありません」


「どうして謝る?」


「私のせいで、大切なお付き合いの場を台無しにしてしまいましたので」


「台無しにはなっていない」


「ですが」


「あの場で一番価値のある時間は、君がそこにいてくれることだった。君がいないなら、残る理由がない」


 クロエは言葉を失った。

 ランベルトは窓の外に視線を向けたまま、それ以上は何も言わなかった。


 馬車の中に、静かな沈黙が満ちた。繋がれた手だけが、微かな温度を伝え続けていた。



 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲



 屋敷に戻り、クロエは自室で夜会用のドレスを着替えた。

 普段着の質素なワンピースに袖を通しながら、馬車の中でのランベルトの言葉を何度も反芻していた。


 ——君がいないなら、残る理由がない

 社交辞令だ。宰相ともあろう方が、無愛想な妻ひとりのために夜会を抜け出す理由などない。気を遣ってくださっているのだ。この優しい人に、これ以上迷惑をかけてはいけない。


 決意は、静かに固まった。


 クロエはランベルトの書斎を訪ねた。扉を叩き、返事を待って入室する。


 ランベルトは暖炉の前の長椅子に座っていた。上着を脱ぎ、襟元を緩めたその姿は夜会の時とは別人のように力が抜けている。傍らの小卓には、クロエが用意を指示しておいたカモミールティーが湯気を立てていた。


「——旦那様。お話がございます」


 クロエは長椅子の前に立ち、背筋を伸ばした。


「座ったらどうだ」


「いえ、立ったままで申し上げます」


 ランベルトは軽く眉を上げたが、それ以上は促さなかった。


 クロエは息を吸い、吐いた。


「——私と離縁してください」


 暖炉の火が爆ぜた。


「もっと愛想良く笑ってくれる、可愛らしい方を妻に迎えてください。社交の場で旦那様の隣に並んでも恥ずかしくない、華やかで気の利く方を」


 声は平坦だった。感情を乗せるのが下手なクロエの声は、まるで買い物の目録を読み上げているように淡々としていた。


「旦那様のお荷物に、なりたくないのです」


 ——よし、ちゃんと言えた。

 これでいい。この人は、もっと相応しい人と幸せになるべきだ。


 沈黙が降りた。

 五秒。十秒。

 長すぎる沈黙に耐えかねて、クロエがそっと視線を上げた。


 ランベルトは、驚いた顔をしていた。

 社交界で「氷の宰相」と呼ばれる男の、見たこともない無防備な表情。

 そしてその驚きが、ゆっくりと溶けていった。


 溶けた先にあったのは、クロエがこれまで見たことのない——柔らかく、どこか切なげな微笑みだった。


 ランベルトが立ち上がった。二歩でクロエの前に来て、そっと両手で彼女の手を包む。


「クロエ」


 名前を呼ばれた。二度目だった。


「愛想笑いなど、私には必要ない」


 低い声が、静かに言葉を紡ぐ。


「社交界の作り笑いも、甘い嘘も、腹に一物抱えた賛辞も——この十年間、死ぬほど浴びてきた。もう十分だ」


 クロエの手を包む力が、ほんの少しだけ強くなった。


「婚約の顔合わせで君と初めて会った時——君は緊張で固まったまま、名前を名乗っただけで黙り込んだ。取り繕おうともしなかった」


「……あれは、何も言えなかっただけです」


「二度目は庭園だったな。噴水を見つめたまま、何か言おうとして——結局、言えなくて、悔しそうに唇を引き結んでいた」


 クロエは息を呑んだ。覚えているのだ。あの気まずい沈黙の中にいた自分の顔を、この人は見ていたのだ。


「三度目に、君は笑おうとしてくれた」


 ランベルトの声が、僅かに柔らかくなった。


「あの引きつった顔は……正直に言えば、笑顔としては酷いものだった」


「申し訳ありま——」


「だが、あの不格好な必死さが——私にはどんな完璧な微笑みよりも眩しかった」


 クロエの声を遮るように、ランベルトがはっきりと告げた。


「できないことを、それでもやろうとした。嘘でごまかすのではなく、不器用なまま正面からぶつかってきた。あの時に決めたんだ。この婚姻を受けようと」


 ランベルトの手が離れ、代わりにクロエの肩にそっと触れた。力任せではなく、拒まれたらすぐに離せるような、慎重な引力で——彼女を抱き寄せた。


「社交界の嘘偽りに疲れ切った私を救ったのは、君のその裏表のない静かな瞳だ」


 クロエの額が、ランベルトの胸元に触れた。リネンのシャツ越しに、穏やかな心臓の音が聞こえる。


「毎朝、私の体調に合わせて黙って変わるメニュー。料理長に渡している献立の指示書——私の体調を見て、毎晩書き直していること。全部知っている」


 クロエは目を見開いた。気づかれていないと思っていた。何も言わず、何の説明もせず、ただ並べていただけだったのに。


「君は言葉で言えない代わりに、行動のすべてで語っている。誰よりも雄弁に。誰よりも誠実に」


 抱きしめる腕に、僅かに力がこもった。


「君が無理をして笑うくらいなら、私が一生——君が安心して無表情でいられる場所を守る」


 声が、震えていた。「氷の宰相」と呼ばれる男の声が、確かに震えていた。


「だから——そのままの君で、ずっと私のそばにいてほしい」


 クロエの視界が、滲んだ。

 泣き方を知らないと思っていた。涙の流し方すら忘れたと思っていた。なのに、頬を伝う温かいものを止める術がわからなかった。


「……旦那様」


 声が掠れた。うまく言葉にならない。気の利いた返事も、可愛い泣き顔も、甘えた声も、何ひとつ出てこない。


 ——でも。


 クロエの両手が、ゆっくりとランベルトの背中に回った。

 しがみつくように。離さないように。不器用に、しかし確かに。


「わた、し……笑えません。これからも、きっと上手には……」


「聞いていなかったのか」


 ランベルトが、彼女の頭をそっと撫でた。


「そのままがいいと言っている」


 静かな書斎に、暖炉の火が揺れていた。

 クロエは泣いていた。声を上げず、表情をほとんど変えないまま、ただ静かに涙を流していた。


 それは、二十年間ずっと固く閉ざされていた扉が——ほんの少しだけ、軋みながら開いた音だった。



 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲



 翌朝。

 クロエはいつもより少しだけ早く目が覚めた。


 ——昨夜のことは、夢ではなかっただろうか。


 枕元に置かれたハンカチを見て、夢ではなかったと知る。ランベルトが渡してくれたもの。端に「L」のイニシャルが青い糸で刺繍されている。泣き止むまでずっと、何も言わず背中をさすってくれた大きな手の温度を、クロエはまだ覚えていた。


 厨房に降りると、料理長が驚いた顔をした。


「奥様、今日は一段とお早いですね」


 クロエは頷き、一枚の紙を差し出した。昨夜、泣き止んでから自室で書いたものだった。


「今朝の献立です。根菜のポタージュを。生姜をいつもより少し多めに。寒い朝ですから、身体が芯から温まるように」


「承知いたしました」


 料理長は小さく頭を下げた。奥様の指示書は日に日に細かくなっている。それが誰のためかは、もう聞くまでもなかった。


 食堂に料理を並べ終え、向かいの席に座る。


 やがて、聞き慣れた足音。扉が開き、ランベルトが入ってくる。


 一瞬、目が合った。


 ランベルトの足が止まった。


 クロエの顔は、いつも通りの無表情だった。眉は動かず、目元は平坦で、感情らしい感情は見当たらない。

 けれど唇の端が一ミリほど緩んだ、笑顔とも呼べないほどの小さな変化があった。他の誰が見ても気づかないだろう。表情筋がほんの少し力を抜いただけの、取るに足らないもの。


「——おはようございます、旦那様」


 声もいつも通り。抑揚のない、事務的な挨拶。

 いつもは視線を下に落としていたクロエが、今日はランベルトの目を見て言った。


「……ああ。おはよう」


 ランベルトは席に着いた。ポタージュを一口飲み、白パンを手に取る。


「今日のスープも美味しい」


「……そうですか」


「生姜が少し多いな。今朝は冷えると思ったか」


「——はい」


 短い返事。それだけ。

 食事を終え、ランベルトが立ち上がる。


「行ってくる」


「——行ってらっしゃいませ」


 いつもと同じやりとり。同じ言葉。同じ無表情。

 ただひとつだけ違ったのは、クロエが食堂の入口まで歩いてきて、ランベルトを見送ったことだった。いつもは席に座ったまま告げていた「行ってらっしゃいませ」を、立ち上がって、数歩近づいて、伝えた。


 ランベルトは振り返り、ぽん、と一度だけ軽く撫でて、何も言わずに玄関へ向かう。


 クロエはしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 頭に残る、大きな手の温もり。


 ——笑えなくても、いいと言ってくれた。

 無愛想なままでいいと、この人は言ってくれた。


 クロエの手が、そっと自分の頭に触れた。

 撫でられた場所が、まだ温かい気がした。


「…………」


 表情は変わらない。変わらないけれど。


 人気のなくなった食堂で、クロエはそっと——ランベルトの空になったスープ皿を両手で持ち上げた。綺麗に飲み干された皿を見つめ、胸の奥でゆっくりと息を吐き、厨房へと歩き出した。


 明日の朝食は何にしよう。明後日は少し寒くなるから、シチューがいいかもしれない。その次の日は——


 考えることが、少しだけ楽しくなっていた。

 笑顔はまだ作れない。気の利いた甘い言葉も言えない。


 でも、明日もまた、この食卓に温かいスープを並べよう。


 それがクロエにできる、精一杯の——


「……好きです」


 誰もいない廊下で、クロエは呟いた。

 聞く人は、誰もいなかった。無表情のまま、蚊の鳴くような小さな声で。


 けれど確かに——その唇は、ほんの少しだけ柔らかく、緩んでいた。

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