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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ドットナインシー 〜光速剣域〜

作者: きつね
掲載日:2026/02/16

 聖王歴十八年。


 人族と魔族が総力を挙げて戦った第四次人魔大戦(じんまたいせん)は、終結から長い年月が過ぎた今もなお、世界の至る所に生々しい爪痕を残していた。

崩れた城壁、焼け落ちた街道、そして戻らぬ人々。


 大戦のさなか、大都市の多くは魔族の手によって破壊され、あるいは魔属領へと呑み込まれた。

その余波は深く、人類の人口は、かつての五分の一にまで減少していった。


 人類は、あまりにも多くのものを失った。

喪失の重みは時とともに薄れることなく、今もなお、世界の底に静かによどんでいる。


 だが、そんな中にあっても、決して失われない希望があった。

大戦後に産まれた子どもたちである。

それが神の祝福なのか、あるいは自然の摂理せつりなのか、産めよ増やせよで人口は再び、指数関数的しすうかんすうてきに増加していった。


 そして、人々は次世代が台頭してくるのを今か今かと待ち続けている。


 一人の退魔剣士見習い――ロット――が住むこのスーイフ村も、その例外ではなかった。


 ――カン! ガイン! ッドガ!


「……はぁ、はぁ……全然……師匠に……剣が……届かない……」


 ロットは肩を大きく上下させ、息を整えようとしながら、ようやく言葉を絞り出していた。

それに対し、片目と片腕を失った老剣士は、涼しい顔のまま、流れるように剣を捌いている。


「ほら、どうしたロット。

そんなことでは、退魔剣士としてやっていけないぞ。

村を、リーンを守る男になるんだろ?」


 その言葉を浴びた瞬間、ロットの剣筋はいっそう乱れた。

同時に、頬の熱が一気にせり上がる。


「ちょ……、やめて下さいよ!」


 ロットは思わず前に出た。

老剣士の口を塞いでしまいたかったが、剣が届く気配は微塵もない。

焦りばかりが、胸の内で膨らんでいく。


「やめろも何も、お前が言い出したことだろ。

木こりの親父さんの跡も継がずに、退魔剣士になりたいだなんて。

この村に隠居しに来た俺の身にもなってくれよ、っと」


 老剣士は片手でロットの剣を受け流しながら、左足を滑らせるように動かした。

撫でるように、内側から、ロットの足元を軽く掬い上げる。


 ドサー。


 転ばされたロットは、服についた土埃を払う余裕もなく、そのまま仰向けに倒れ込んだ。

天を仰ぎ、大きく開いた口で、今度は胸を激しく上下させている。


「師匠……、もう一歩も……動けません……」


 もう目も開けられない。

だが、その鼻先に老剣士の剣先が、ふいに、軽く触れた。

その冷たさに、ロットは否応なく目を開ける。


「ロット、寝ている暇があるのか。

今日はリーンとアインと一緒に、外れの丘まで行くんだろう。

リーンの手料理が食べられるって、ずいぶんとはしゃいでいたじゃないか」


 その話を聞いた瞬間だった。

ロットは、先ほどまでの疲労が嘘のように跳ね起きる。


「そうだった! 一回帰って、身体拭かないと!

今日もありがとうございました、師匠!」


 慌ただしく身支度を整え、(つまづ)きそうになりながら野稽古場(のげいこば)を後にしようとするロットの背中を見つめる、老剣士のまなざしは、困ったようでいて、どこか愛おしげだった。


 やがて、去ろうとするその背に、声を投げかける。


「ロット、リーンによろしく伝えておいてくれ。

お裾分けも、いつもすまないと。

それからアインにも、たまには稽古に顔を出せと言ってくれ。

いくら弟のあいつが、親父さんの後を継いで木こりになると言っても、森に入る以上は、自分の身くらい守れなければならんからな」


 その言葉に頷くと、一礼し、ロットは村の中へ駆けて行った。

野稽古場には、ふいに吹き抜けた風に目を細め、(いぶか)しげに天を仰ぐ老剣士の姿だけが残った。


 ――――


 今日は、ロットとアインと、村外れの丘で昼を食べる約束がある。

そのためリーンは、朝から台所に立ち、腕によりをかけて料理に勤しんでいた。


 三人は、この村で生まれ、共に育った幼馴染だった。

同じ年頃の若者は他におらず、村の人々も、そして当の三人も、いつかはロットかアインのどちらかとリーンが夫婦になるのだろうと、特別な疑問もなく思っている。


 今はまだ、三人でいる時間が楽しく、笑って過ごせている。

けれど、十五歳のリーンとアイン、そして一つ年上のロットは、年頃ということもあり、互いを意識せずにはいられなかった。


 やがて昼食の支度を終え、バスケットに料理を詰め終えると、リーンはエプロンを外した。

顔を軽く拭い、着ていたリネンのシフトを脱ぎ、外出用のシフトに着替える。

それから、お気に入りのチュニックを手に取った。


 以前、ロットが可愛いと褒めてくれた、花の刺繍が施されたチュニックだった。

母から譲り受けたもので、母は四つ上のミレイおばさんから、そしておばさんは祖母から受け継いだという。

年季は十分で、内側は継ぎはぎだらけだ。

よく見れば表地も毛羽立っている。

それでも、あの日ロットに褒められてから、この服はリーンのお気に入りになっていた。


 リーンはそのことを思い出し、そっとチュニックに顔をうずめた。


 ――――


「兄さん!

なんで、こんなギリギリになるまで稽古してるんだよ!

このままじゃ、リーンの手料理が冷めちゃうじゃないか!

冷めたら、どうしてくれるんだよ!」


 アインは走りながら、容赦なくロットを責め立てていた。

野稽古場から急いで戻ったロットだったが、結局時間には間に合わず、こうして弟まで巻き込み、村道を駆ける羽目になっている。

せっかく身体を拭いたというのに、その努力も、すでに汗で無駄になりつつあった。


「そんなこと言ったって、しょうがないだろ!

全然、師匠に剣が届かないんだから……」


 口ではそう言い返したものの、前を走るアインの怒りは収まらない。

それに、ロット自身も――内心では「ごもっともだ」と思っていた。


「そもそもさ、運動神経の鈍い兄さんが、退魔剣士になるなんて無理なんじゃないの?

いつまでも意地張ってないでさ、一緒に木こりやろうよ。

父さんだって、もう怒ってないと思うよ?」


 アインにそう言われ、ロットは父から逃げ出した日を思い出していた。


 ――――


 あの日も、いつもと同じように、父について森へ入った。

斧を握り、木の前に立ち、何度も腕を振る。

前々から振り方は教わっていたが、どうしてもうまくいかなかった。

狙った場所を、同じように打つことができないのだ。


 業を煮やした父は、ロットの背後に回った。

腰の回し方、腕の位置、顔の向き、足の開き。

一つ一つ、丁寧に、細かく指示を出す。

それでも、結果は変わらなかった。


「ロット、どうして打つ瞬間に目を(つぶ)るんだ。

目で、しっかり見ろ。

見なきゃ、同じところは打てないだろ。

ほら、もう一度だ」


 ――ドガ。

今度は、先ほどよりも拳一つ分、上を叩いていた。


「……どうして、こんなこともできない。

お前は木こりだ。

木が切れなければ、家族を守ることもできないぞ」


 その言葉は、幼いロットの胸に、重く沈んだ。

リーンを巡って、アインと競い合ってきた日々。

守る、という言葉が、重さを持って圧し掛かる。

景色が色を失い、自分の呼吸の音だけが耳に残った。


 不安と焦りが、心を覆い尽くしかけた、その時だった。

ふいに、一つの顔が浮かぶ。


「……守れるもん!

最近、越してきた、あの剣士さまに剣を教えてもらうんだ!」


 そうして、斧を投げ出しその場から逃げ出したのだ。


 ――――


「……う、うるさいな! 意地とかじゃないよ!

僕は僕なりにリーンを守るって決めたんだ」


 その言葉を聞いたアインは口角を上げた。


「なら、丘まで勝負だよ! 兄さん」


 そう言って前を向いたアインの速度が一段と早くなった。


 ――――


 リーンはお気に入りのチュニックを身にまとい、丘の上で昼食の準備をしていた。

三人で腰を下ろせるブランケットを敷き、用意してきた料理を、バスケットから一つずつ取り出して並べていく。


 やがて、村の方から走ってくるアインの姿が見えた。

リーンの前まで駆け寄るなり、これで一二五勝だと、子どものようにはしゃいでいる。

「ロットはどうしたの?」

そう声をかけようとした、その時だった。

少し遅れて、遠くから走ってくるロットの姿が目に入る。


「おーい!

兄さーん、遅いよー」


 息も()()えに、ようやく丘まで辿り着いたロットに、アインが容赦なく追い打ちをかける。


「これで、俺の一二五勝一二三敗五分けだね、兄さん」


 ロットは膝に手をつき、息を整えた。

リーンが差し出したハンカチで、額の汗を拭ってから、ようやく顔を上げる。


「たった、二つだろ」


「二つ“も”だ」


 悔しそうに口を尖らせるロットに、アインは満足げな笑みを浮かべた。

リーンは、そんな二人のやり取りを見ているのが好きだった。

胸の奥が、静かに満たされていくのを感じる。


 このまま、ずっと変わらない時間を、三人で過ごしていたいと思う反面、心のどこかではロットに勝ってほしいと感じていた。


 昼食を終え、南から吹く、少し湿った風が、三人の頬をやさしく撫でていた。

ロットは、表紙がすっかり擦り切れた、昔から愛読している冒険譚を開いている。

アインは寝ころび、口に若草の茎を咥え、気ままに鼻歌を奏でていた。

そんな二人を、片付けを終えたリーンが、幸せそうに見つめている。


 ――刹那。

けたたましく打ち鳴らされる鐘の音が、山に反響し、三人の耳にも届いた。

魔物の出現を告げる鐘だ。


 それは、村の大人たちが集まり、自警団が出動する合図でもある。

ロットは、無言で本を閉じ、ズボンの後ろポケットに押し込むと、二人を丘に残して駆け出した。


「気をつけて……」


 誰に聞かせるでもなく、リーンはそう呟いた。

その背中が見えなくなるまで、じっと目で追っている。


 やがて、その隣に立ったアインが、そっとリーンの肩を抱き寄せた。


 ――――


「遅いぞ」


 村の入り口には、すでに自警団が集まっていた。

遅れて駆け込んできたロットを、強面で大柄な自警団長が、じろりと睨む。


「すみません。

それで、規模と距離は?」


 団長は、短く(うなず)いた。


「すでに、視察隊が対応を始めている。

数は、およそ二十。

規模としては、脅威級だ。

距離は……十分といったところだ」


 ――近い。

村の、すぐ外だ。


「先日、街で聞いた話ではな。

魔族が力を取り戻しつつあるのか、各地で魔物の動きが活発になってきている。

脅威級とはいえ、何が起きるかわからん」


 団長は一行をゆっくりと見回し、声をさらに落とした。


「気を、引き締めていけ」


 その言葉と同時に、先ほどまで晴れ渡っていた空が、嘘のようにかげりはじめた。

雲は低く垂れ込み、今にも泣き出しそうな気配をはらんでいる。


 ――――


 小さな盾を腕に固定し、音を鳴らすことに特化した(むち)をしならせながら、男たちは森を駆けていた。

視界の利かない森の中では、音こそが合図になる。

鞭の風切り音と、時折混じる笛の音で互いの位置を確かめながら、魔物の群れを追い込んでいく。


「そっちに行ったぞ。

逃がすな!」


 ロットたち自警団が現場に辿り着いた頃には、すでに視察隊が魔物を包囲し、崖下へと追い詰めていた。

自警団は二手に分かれる。

一方は崖の上へ回り、強弩隊が布陣する。

もう一方は視察隊と入れ替わるように前へ出て、剣を構え、じりじりと距離を詰めていった。


 追い詰められた魔物は、逃げ場を失ったと悟ったのか、一斉に跳びかかってきた。

雨が降り出し、足場は悪い。

その中で、団長が数匹を斬り伏せ、強弩隊がさらに数を減らす。


 視察隊が盾で魔物の牙を受け止め、動きを封じる。

そこへ、ロットが横合いから剣を突き立て、確実に仕留めていった。


 老剣士には届かない剣でも、動かぬ相手になら当たる。

だが、刃を突き立てる、その瞬間。

ロットは、また無意識に目を(つぶ)っていた。


 何事もなく討伐が終わるかに見えた、その時だった。

それと同時に、数人の人影が、魔物と絡み合うようにして転げ落ちてきた。


 一瞬で包囲は崩れ去った。

陣形は乱れ、あたりは一気に混沌に呑み込まれる。

次の瞬間、鈍い衝撃音が響いた。

ロットが振り返ると、そこには――自分を庇うように立ち、片腹を(えぐ)り取られ、血を吐く団長の姿があった。


 現実味のない光景が、目の前に広がる。

理解が追いつかず、身体が動かない。

心拍数だけが異様な速さで跳ね上がり、やがて耳に届く音は、自分の鼓動だけになっていた。


 ――恐怖。

遅れて、その感情に気づいた時には、ロットは無我夢中で剣を振り回していた。

だが、刃は魔物にかすりもしない。

まるでそれを嘲笑(あざけわら)うかのように、魔物の口元が歪んでいく。


(……ダメだ。目を(つぶ)るな。

今ここで仕留めそこなえば、次は――リーンが……)


 その思いだけを支えに、ロットは剣を振った。

今度は、しっかりと魔物を視界に捉える。

老剣士に教わったすべてを引き出し、必死に刃を走らせた。


 それでも、剣は届かない。

魔物は、あまりにも容易く、それを(かわ)してみせた。


(もっと早く! もっと早く! もっと……)


 何度剣を振っても、魔物の動きに置いていかれる。

速さを求めれば求めるほど、剣筋は荒れ、形を失っていった。


 だが、その無様な足掻きが、思いがけず功を奏した。

ロットの剣先が、魔物の頬を、かすかに掠めたのだ。

魔物は片手で頬を押さえ、その歪んだ口元を、ゆっくりと吊り下げる。

次の瞬間、距離は一気に潰され、ロットの目の前に、その姿が迫っていた。


 格下に傷を付けられたことに怒り、魔物は間合いに踏み込み、右下から鋭い爪を振り上げる。

ロットは真っ向から受けず、剣の身を滑らせるようにして、その剛力を斜め上へといなした。


 魔物は、いなされた右腕をあえて引かず、ロットの顔前に残した。

視界を塞ぐための、意図的な目隠し。


 刹那。

逆の手が大きく振りかぶられ、頭上から叩きつけられる。


 死角からの強襲。

ロットは瞬時に剣先を地面へ向け、左の掌を剣の腹に添えて支えた。

直後、凄まじい衝撃が、剣を通して全身に伝わる。

その圧を利用するように、ロットは後方へ跳躍した。

衝撃を殺し、かろうじて間合いを取り直す。


(くそ! くそ! くそ!! 防ぐので精いっぱいだ……。

何か手はないのか……何か)


 だが、魔物は待たない。

息を整える暇すら与えず、再び間合いを詰めてくる。


(ダメだ、考えるな。早く動け、考えるな……早く)


 その速さを求める、ただひとつの純然たる願いが神に届いたのか。

それとも、死の間際に見る幻だったのか。

先ほどまで猛攻を仕掛けてきていた魔物の動きが、唐突に止まっていた。


 ――否。

止まったのは、魔物だけではない。空間そのものが、静止している。


 魔物、降り落ちる雨、宙を舞う葉、噴き出したままの血、空気の揺らぎさえも。

知覚できるすべてが凍りつき、まるで氷の中に閉じ込められたかのように、微動だにしなかった。


 そう感じた瞬間、ロットの視界が歪んだ。

いや――歪んだのは、世界の方だった。


 ――0.05c


 次の瞬間。

後方で、魔物の首が、わずかに遅れて宙を舞った。


(な、なにが起きたんだ?)


「――ほう、飲み込みが早いなぁ、人間」


 わらうような声が、どこからともなく重なった。

それは耳を通らず、思考の裏側へと直接、流れ込んでくる。


「速さを求めるその願い、ワレ様が叶えてやったぞ。

キシーシシシ……」


 だがロットには、その声が男なのか女なのか、若いのか老いているのかを考える余裕はなかった。

気味の悪さを噛みしめる間もなく、木立の向こうから、新たな気配が迫ってくる。


 枝葉を裂き、数匹の魔物が、こちらへ向かって駆け出していた。


 ――0.05c。


 再び、一拍の遅れを伴って、魔物の首が次々と宙を舞った。

そして、そのさらに少し後になって、()()()()()()()()()()()が、ようやくロットの中に追いついてくる。


「ワレ様は、優しいぃ」


 嗤う声が、満足げに響いた。


「だから、オマエに一つ、武技を与えてやった。

その名も――光速剣域。

スキル・相対加速を使えば、オマエの好きなように速度を上げられる。

ついでに、スキル・位相保護で、オマエの身体を()()()()()から守れるようにもしてやったぞ。

ワレ様やっさしぃ、やっさしぃ。

キシーシシシ……」


 それは、善意を装った仮面の奥から、嫌らしさだけが滲み出てしまったような、歪な笑いだった。


(……スキル? 武技?)


 ロットには、意味がわからなかった。

だが、理解できない何かが起きていることだけは、はっきりとわかる。

それでも、この状況を打破できるのなら、なんでもよかった。

それが神であろうと、悪魔であろうと。


「くそ! さらに増えたぞ!」


 声のする方を見る。

木立の向こう、山道のあたりだ。

ここからおよそ五十メートル。

視察隊の数人が、新たに現れた魔物の一個小隊と剣を交えていた。


 ロットは、救援に向かおうと、武技――光速剣域を再び発動させた。


 ――0.05c。


 刹那。


 気づけば、自分は地面に倒れていた。


 息が、吸えない。

肺が潰れたように、空気が入らない。

腹に力を込め、どうにか浅い呼吸を繰り返すと、右の脇腹に激しい痛みを感じた。

すぐ側に立っている樹木に身体を打ちつけたようだった。


「なんだぁ、人間。

さっきまでのはマグレなのか?

武技の制御ができてないじゃないかぁ。

……しょうがない、ワレ様は優しいから、追加でスキル・相対重力を授けよぉ。

このスキルを使って、相対加速で速くなった分、オマエ自身が制御できる速度まで時間圧縮するといいぃ。

ワレ様優しいぃ。キシーシシシ……」


 正直、何を言っているのか理解はできなかった。

だが、理屈よりも先に、身体が反応する。

ロットは痛む脇腹を押さえながら立ち上がり、もう一度、仲間たちの方を見据えた。


 ――武技・光速剣域。


 その場に、青とも赤ともつかぬ残光だけが、ぼんやりと漂った。


(キシーシシシ……。

人間、その力を使えば、世界は救えるだろう。

だが、使い続ければオマエは世界に居場所を失う。

その時、何を思うかぁ……。ワレ様、楽しみ……)


 その言葉を最後に、声はふいに消えた。


 ――――


 ロットたち自警団が魔物討伐へ向かってから、しばらくして、突然雨が降り出した。

アインはリーンを伴い、足早に自宅へと戻る。


「……なんだよ。

こんな時期に、急に降り出すなんて」


 ぶつぶつと文句を言いながらも、アインは母が用意してくれていた布をリーンに差し出した。

濡れた身体を拭くため、リーンは胸元の紐をゆるめ、チュニックを脱ぐ。

下に着ていたリネン姿のまま、そっと息を吐いた。


 ほどけた髪が、肩に落ちる。

雨粒を含んだそれを、丁寧に指で梳き、腕や脚の水気を布で拭っていく。


 濡れた衣服は重く、身体に張り付き、リーンの女性らしい身体の曲線を強調している。

隣でその様子を見ていたアインは、視線のやり場を失い、思わず喉が鳴った。


 外では、雨脚がいっそう強くなっていった。


 ――――


 (なんだこれは……。わからない……。何が、起きた)


 つい先ほどまで、魔物の猛攻を盾で受け止めていた視察隊の男は、目の前の状況を理解できずにいた。

人型のような()()が、歪な青い光を放ちながら横切った――。

そう感じた次の瞬間には、魔物の首が次々と跳ね上がり、やがて赤い光へと変じて消えていった。


 いや。

そう感じただけかもしれない。

実際に()()()いたのかどうかも、怪しい。


 とにかく、何かが起きた。

そして、自分たちは助かったのだ。


 男は、その事実だけを受け止め、すぐさま仲間に声をかけた。

魔物に不意を衝かれたにしては、生き残りは多い。

だが、損傷の激しい遺体のいくつかは、それが仲間のものか、魔物のものかすら判別がつかない状態だった。


 生存者を集める。

軽傷者を数名現場に残し、重傷者の警戒にあたらせ、自力で歩ける者だけで、村へ戻り救護班を呼ぶことになった。


 足場は悪い。

雨も強まっている。

行きよりも、はるかに時間がかかった。


 だが、その道中、先ほど起きた出来事を口にする者は、一人としていなかった。

ただ、先ほどから強まった雨の、地面を打ちつける音だけが、あたりに響いていた。


 ――――


 リーンとアインは、村の教会へと急いでいた。

つい先ほど、リーンの母も加わった救護班が、負傷者を抱えて教会に戻ったと知らせが入ったのだ。


 先に帰還した自警団の中に、ロットの姿はなかった。

もしかすると、歩けないほどの大怪我を負っているのではないか。

その思いに胸が締めつけられる。

二人はじっとしていられるはずもなく、周囲の制止を振り切り、駆け出していた。


「ロット!!」


 教会の扉を押し開けるのと同時に、リーンの声が響いた。

中には、多くの負傷した自警団員が横たわっている。

救護班と教会の者、そして村の女衆たちが、区別なく命を繋ぎ止めようと奔走していた。


 湿った雨の匂いに、血の匂いが混じる。

むわりとした空気が肺に入り、リーンは思わず口元を手で覆った。


 足がすくみかける。

アインが肩を支えてくたおかげで、ようやく中へ足を踏み入れられた。

だが、その支える手もまた、わずかに震えていることに、リーンは気づかなかった。


「あの……すみません、ロット知りませんか? まだ戻ってきてないんですが……」


 入口近くで、汚れた布と包帯を麻袋に詰め込んでいる女性に声をかける。

だが、返ってきたのは短い言葉だった。


「見てない」


 他の者にも尋ねてみるが、返答は一様に同じだった。

「見ていない」

「知らない」


 やがて、邪魔になるから外へ出てくれと、強く言われ、二人は、押し出されるようにして、教会の外へと戻された。


 ――――


「捜索は今日で終わりにする。以上」


 今回の捜索隊長であるダンがそう告げると、その場にいた村人たちは一斉に席を立った。


 今日は、捜索隊が村長の家にあるグレートホールへ集まり、活動報告と成果の確認、そして今後の方針について話し合いが行われていた。

リーンとアインも、無理を言って捜索隊に加わらせてもらっている。


「ちょっと待ってください! もう打ち切りなんですか?

もう……探さないんですか? まだ……」


 帰ろうとする人々の中で、リーンだけが声を上げた。


「悪いな、リーン。

今回、友や家族を亡くした者も大勢いる。

だが、それでも俺たちは生きていかなきゃならん。

いつまでも捜索に時間を費やすことはできないんだ」


 そんなことは、リーンもわかっていた。

わかってはいる。

それでも、納得できない。

諦めきれない気持ちの方が、どうしても勝ってしまう。

それが若さゆえなのか、それとも淡い恋心ゆえなのかは、誰にもわからなかった。


「まだ……まだ一週間ですよ? ロットだって――」


 まるでその言葉を遮るように、ダンが机を叩いた。


「一週間”も”だ!

……これだけ探して、誰一人見つかっていない。

帰って来た者もいない。

もう終わりだ……終わりなんだ……リーン。

ロットは……帰ってこない」


 その言葉を聞いた瞬間、リーンはその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。

アインは慌てて抱き起こしながら、ダンへ視線を向ける。


「お願いだよ、父さん。

せめて、俺たちだけでも続けさせてくれないか?」


「ダメだ! 危険すぎる。

それに、もしもお前達まで失ったら、俺は……」


 そこには、これ以上言葉を続ける者も、それを遮る者もいなかった。


 ――――


 自分が沈む。

自分だけが、底の見えない深い井戸へと沈み込んでいくような感覚が、ロットを包み込んだ。


 だが、先ほどとは違い、今度は、確かに自分の感覚がここにあった。

身体の輪郭も、剣の重さも、呼吸の感触も、はっきりと残っている。


 その一方で、世界は止まっていた。


 落ちる途中で固まった雨粒。

宙に散ったままの血飛沫。

振り上げられた剣。

跳ねたまま凍りついた泥。

 

 音のない静寂の中、ロットは迷わず駆け出し、止まって見える魔物へと剣を振るう。

剣は問題なく届き、首を切っていく。

首を断つ感触だけが、確かに手に残っていた。


 だが、斬ったはずの首は落ちず、血も噴き出さない。

それでもロットは、その感触だけを頼りに、次々と剣を振るった。


 やがて、周囲の魔物を斬り終えると、意識的にスキル・相対重力を緩めていく。

それに合わせるように、沈み込む感覚が薄れ、遠ざかっていた音が、ゆっくりと近づいてきた。


 次の瞬間。

堰を切ったように、音と動きが一斉に戻る。

断たれた魔物の首が、次々と宙を舞い、血が噴き出し、雨粒が地面を叩いた。


 そして――

武技・光速剣域を解くと、膨大な光の奔流が、背後から津波のように押し寄せ、ロットの身体を包み込んだかと思うと、そのまま前方へと吹き抜けていき、全てが止まった。


 それと同時に、脇腹に走る激痛に、ロットはその場に崩れ落ちてしまった。

うずくまった視界の中で、ようやく、鼻を突く雨に混じった、濃厚な腐敗臭を感じ取り、そのまま気を失ってしまった。


 ――――


 ロットが目を覚ましたとき、そこにあったのは見慣れた顔が二つだった。

リーンとアインである。


 二人は、目を開けたロットを見るなり、泣きながら抱きついてきた。

脇腹に鋭い痛みが走ったが、それよりも、自分がどうしてここにいるのかがわからないことの方が、よほど大きかった。

それでも、リーンが無事でいることと、こうして再び二人に会えたことがただ嬉しくて、ロットもまた二人を抱き返した。


 やがて、父のダンと母、それに自警団幹部が数名、部屋へ入ってきた。

涙を流して無事を喜ぶ母とは対照的に、父の顔はどこか険しい。


「ロット、お前この一週間どこにいた。

俺たち木こり衆や、狩人たちと山の中は散々探し回ったんだぞ。

それが、捜索を打ち切った昨夜、村の入り口に倒れていたお前をこの二人が発見したんだ」


 そこでロットは事の顛末を知った。

死者・行方不明者が十七名、内遺体を回収出来たものが十一名。

その中には、自警団長の名もあった。


「ロットよ、お前さんがこの一週間で辿った道を教えてくれねぇか?

ワシらは、そこを重点的に捜索を続けたいと思っておる」


 ロットは目を伏せた。

戦いの後、気がつけば、ここに寝ていた。

そう答えるしかなかったからだ。


 何度も問い返され、記憶を辿ってみたが、何も浮かばない。

行方不明の間に何があったのか、それはついに明らかにならなかった。

結局、魔物の瘴気にあてられたのか、あるいは目の前の惨状に衝撃を受け、意識が混濁したまま山をさまよっていたのだろうと、そう結論づけられた。


「もぅ……良いじゃない。ロットは返ってきたんだから。

そうだ! ロット、今夜は何が食べたい? 今日は私が腕によりをかけて作ってあげる」


 重い空気の中で、その無邪気な声だけが浮いていた。

ロットは、ほんの少しだけ、救われた気がした。


 ――――


 今日は、久しぶりに老剣士と野稽古場(のげいこば)で剣を交えていた。

ロットが村の入り口で発見されてから、五日ほどが経っている。


 脇腹の痛みはまだ残っていたが、支えがなくとも歩ける程度には回復していた。

身体が鈍ってしまう前に、一度顔を出しておきたかったのだ。

その傍らには、もちろんリーンが付き添っていた。


 あの日以来、リーンは甲斐甲斐しくロットの世話を焼いている。

一度、彼を失いかけた恐怖は、彼女の中で静かに形を変えていった。

それは恋心だけでは収まらず、いつしか手放すことへの怯え――

言葉にすれば、執着に近い感情として、ロットへと向けられていた。


 ロット自身、その変化に気づいていないわけではなかった。

だが、嬉しさを覚える一方で、どこか胸の奥に、アインへの申し訳なさも残っている。

その感情をどう扱えばいいのか、まだ答えは見つからなかった。


 この日は、老剣士に怪我の具合を伝え、本格的な稽古を再開する時期について話し合って、剣を置いた。

やがて野稽古場を後にし、ニ人は村への帰り道を歩き出す。


 もう支えは必要なかった。

それでも、いつの間にか指先が触れ合い、自然と絡め取られる。

ロットとリーンは、何も言わず、手をつないだまま村へと戻っていった。


 ――――


 カンカンカンカンカン!


 その日、けたたましい鐘の音でロットは目を覚ました。

先日、丘で聞いたものよりも間隔は短く、激しく打ち鳴らされるそれは敵襲を告げる合図であり、自警団と戦える者は村の入り口へ、戦えない者は外れの丘の先にある洞窟へ避難せよという指示だった。


 部屋に飛び込んできたアインに揺り起こされ、ロットは急いで身支度を整える。

アインはまだ成人前であり、ロットも傷が癒えきっていないため、母を伴って洞窟へ向かう手筈だった。


 途中でリーン一家とも合流し、広場の井戸を過ぎたあたりで、魔物の斥候と鉢合わせる。


「きゃー! ま……魔物が村の中に……」


 見習いとはいえ退魔剣士である以上、怪我の有無に関わらず、ロットに逃げる選択肢はなかった。

腰から剣を抜き、魔物と対峙しながら、空いた左手で皆を自分の背後に誘導した。


「アイン! 先に行け! 母さんと、リーンを任せたぞ」


「何言ってるのよ! ロット! ……一緒に逃げましょ? ね?」


 今にも崩れ落ちそうなリーンの声を背に、ロットは両手で剣を構えた。


「ロットー!」


 その叫びと同時に、アインがリーンの手首を掴み、強引に引き下がらせる。


「兄さん……。必ず追い付いて来てくれよ」


 ロットが小さく頷くのを見て、アインは振り返らずに走り出した。


「ロット! ロットーーー……」


 やがてその声は、家々を焼く炎の轟きに飲み込まれていった。


 ――0.05c。


 刹那。

魔物の首が、次々と宙を舞っていた。


 ――――


 左目は白濁し、左の袖は空をはらむ。

残された右手に握られた古剣だけが、鈍い銀の光を帯びている。


 老剣士は、これほどまでに神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる魔族を前にしたのは初めてだった。

塵ひとつ、迷いひとつ入り込む隙のない存在。

月光を吸い込むような白銀の髪と、この世の理から切り離されたかのような超然とした美貌。

その額に、魔族特有の角が二本、静かに伸びている。


 これほど完成された存在を、老いた身で仰ぐことになろうとは。

臓腑が凍るような恐怖を覚えながらも、老剣士は口端を歪めた。


「……おぬし、名はあるのか?」


「禁書第三師団長 ラジエル」


 その名を聞いたとき、老剣士は深く息を吐いた。

長年、肺の奥に溜め込んできた濁りを吐き出すように。

そして、それと引き換えるように最後になるであろうその名を、魂に深く刻み込むと、残された右眼に、かつての闘志が冷たい焔となって灯った。

 

「ただで通すわけにもいかんのでな。

老い先短い身、これが精一杯の意地だ。……いざ!」


 その踏み込みは、これまでの人生で最も鋭かった。

命を賭して振るわれた一閃は、剣士としての集大成であり、彼という人間のすべてだった。


 老剣士の人生は決して順風満帆ではなかった。

剣に人生のほとんどを費やしながら、唯一愛した女性さえ守れず、目の前で失った。

後悔を胸にさらに剣へとのめり込み、その果てに片腕と片目を失い、生きる意味さえ失った。


 だが、それも無駄ではなかった。

隠居のつもりで訪れたこの村で、少し頼りなく、それでも真っ直ぐな弟子と出会い、

そして最後に己のすべてを込めた理想の一撃を放つことができたのだから。


 しかし、その刃は空を切り、戻ることなく止まった。


 月光が、横に流れ、地面が、近づく。


(……アイーシャ。今行く……)


 最後に、白銀の髪が視界いっぱいに広がった。


 ――――


 何とも言えない不安に胸を締めつけられながら、ロットは村の入り口へと駆けていた。

胸の奥がざわつく。理由はわからない。ただ、遅れてはならないという焦燥だけが足を前へと動かしていた。


 そこら中で家が燃え、炎は熱と黒煙を吐き出しながら夜空を焦がしている。

見慣れた屋根が崩れ、道は抉られ、倒壊した家々が無残に横たわっていた。

鼻を刺す焦げた木の匂いと、そこに混ざる生き物が燃える匂いが現実だと告げている。


 やっとのことで村の入り口に辿り着いたとき、ロットの視界に映ったのは、老剣士と、魔族らしき影が静かに対峙している姿だった。


「師匠!」


 叫んだ、まさにその刹那。

ゆっくりと、あまりにもゆっくりと、老剣士の首が横へ()()()いくのが見えた。


 理解が追いつかない。いや、追いつきたくなかった。


 ――0.05c


 世界がわずかに歪んだように感じた。

自分だけが深い井戸の底へ沈んでいくような感覚。

しかし、意識ははっきりしている。

視界も、思考も、冴えすぎているほどだ。


 次の瞬間、ロットは剣を振り抜いた姿勢のまま、魔族の背後に立っていた。

老剣士の首は、まだ地面へ落ちきっていない。


 確実に斬った。

踏み込みも、軌道も、呼吸も、完璧だった。

それなのに、剣を通して、何の感触も伝わってこない。

肉を断つ手応えも、骨を砕く衝撃も、何一つなかった。


 恐る恐る振り返ると、そこには体をわずかに捻っただけの魔族の姿があった。

必要最低限の動き。

ほんのわずかに、体を傾けただけ。それだけで、ロットの剣は空を切っていた。


 外したのではない。

見切られたのだ。


 ロットは歯を食いしばり、再び武技・光速剣域を繰り出す。

だが今度も、魔族の首が落ちることはなかった。


 そして――。

ようやく、老剣士の首が地面へ落ちた。


「無駄だ、人族の子よ。

どの様にしてその速度を手に入れたかは知らんが、私はお前が斬撃を放つ前からその剣筋を知っている」


 剣筋を知っている?

知っているとは、どういう意味だ。


 ロットには理解が出来なかった。

だが、その瞬間、先日から続く理解不能な出来事の数々が脳裏をよぎり、思わず小さく笑みがこぼれた。


 今さら一つ増えたところで、何が変わる。

どうせ、理解など追いつかない。

ならば――考えるのはやめだ。


 ロットは開き直るように息を吐き、武技・光速剣域の速度をさらに引き上げた。


 今度は、スキル・相対重力もこれまで以上に高める。

沈み込むような感覚が一段と深くなり、世界がさらに静止へと近づく。


 その中で、ロットは()()|した。

剣を振るう、その瞬間を。


 だが、ロットの剣が動くよりも早く、魔族の身体はわずかに傾いていた。

ほんの指先ほどの重心移動。それだけで、剣は空を切る。


 彼の言葉通りだった。

ロットの剣筋を()()()()()のだ。


 背筋に、冷たいものが走る。


「……ほぅ、さらに速度を上げるか」


 次の瞬間。

今度は魔族が刀を振り上げる。

ロットは咄嗟に地面を蹴り、右へと転がった。だが、転がった先に、すでに刀があった。


 読まれている。

振り下ろされた刃が、左の肩口へとめり込み、衝撃が骨まで響いた。

幸い、革ベストの金具部分に当たり、肉は断たれていない。

だが、鈍い衝撃が神経を揺らし、左腕が一瞬で痺れた。


 力が抜ける。呼吸が浅くなる。

ロットは数回、指を開閉し、状態を確かめた。

まだ、動く。


 ――武技・光速剣域。


 ロットは再び速度と重力を引き上げ、魔族へと迫った。

だが、その瞬間には、すでに魔族の姿はわずかにずれている。

剣が通る軌道から、ほんの指一本分だけ外れている。


 ならば。

ロットは武技発動中のまま、さらに速度を上げた。


 ――0.1c


 世界がさらに沈む。

 気が粘つき、光がわずかに尾を引いていく。

それでも、魔族はかわした。


 そして間髪入れずに、魔族の刀が振り下ろされた。

ロットは咄嗟に剣の腹で受け止め、その勢いを殺しきれぬまま、刀の降り抜かれる方向へ身体を流す。

地面を転がり、泥を蹴り上げながら、無理やり身を起こした。


 ――0.2c


 さらに上げる。


 今度も魔族は身をかわした。

だが、その一閃は、わずかに頬を掠める。

月灯りと炎を反射して輝く銀髪が、宙に散った。


 ロットはその瞬間を見逃さなかった。

銀髪が離れるよりも早く、次の一歩を踏み込む。


 斬る。


 斬る。


 斬る。


 剣を振るたびに魔族の身体に傷が増えていく。

浅い裂傷。滲む血。裂ける衣。


 だが、どれも致命には届かない。


「……貴様!

私の”先読”よりも早く動くとは――」


 魔族の声が、わずかに揺らいだ。

驚きか。それとも、怒りか。


 次の瞬間、魔族は何かに気づいたように、ふっと夜空を見上げる。


「……そうか、そういうことか。

またしても、われらの邪魔をするのか。

……忌々しい駄神(だしん)どもが!」


 その吐き捨てるような声と同時に、ロットの腹部に衝撃が走った。

何が起きたのか、見えない。視えなかった。


 内臓を掴まれたような圧迫感と共に、呼吸が奪われ、咄嗟に危機を察し、速度をさらに引き上げ、距離を取る。


 ――だが。

背中に、鈍い衝撃。骨にまで響く打撃。

避けたはずの位置に、すでに魔族が立っていた。


「な、なぜ……」


 声が掠れる。

今度は、ロットが一方的に攻撃を受ける側だった。


 刀が振るわれるたび、空気が裂ける。

必死に身をひねり、地を蹴り、避ける。


 だが、すべて読まれている。


 ――0.3c


 さらに速度を引き上げる。

その瞬間、視界がわずかに前方へ引き伸ばされた。


 世界が細長く、収束する。

光が一点へと吸い寄せられていく。

心臓の鼓動だけが、異様に大きく聞こえていた。


「ふん、まだ速度が上がるか。

しかし、無駄な事だ使徒よ。

この私、禁書第三師団長 ラジエルの前ではな」


「……使徒?… 何を――」


 問いは最後まで形にならなかった。

魔族――ラジエルは、ロットに考える時間すら与えない。

次の瞬間には、すでにそこにいた。


 ロットがスキル・相対加速でよける先へ、まるで最初から知っていたかのように現れ、躊躇なく刀を振るう。


「無駄だと言ったぞ、人間。

だが、誉めてやろう。

私に、過去、現在、未来すべてが記されている禁書を開かせたのだからな」


 禁書。

その言葉が、胸の奥で重く沈む。

過去。現在。未来。すべてが、記されている。


 ならば……

ならば、自分が今どの角度で斬りかかるかも、どの速度で踏み込むかも、すでに、書かれているというのか。


 追い詰められながらも、ロットは止まることを拒み、速度を上げた。


 ――――


 その様子を見ていた()は、ゆっくりと口角を上げた。

いやらしく。楽しむように。

まるで、盤上の駒が想定よりも面白い動きをしたときのように。


 キシーシシシ……。


 ――――


「ば、ばかな!

禁書を開いても追い付けないというのか……」


 ラジエルの声に、初めて明確な動揺が混じった。

彼は、ロットが現れる地点を“知っている”はずだった。

未来に記されているその一点へ、刀を構え、待ち構える。


 だが、その予測が、わずかにズレる。

いや、ズレているのではない。追いつけないのだ。


 ロットは、避けながら、さらに速度を上げていく。

攻撃へと転じながら、なおも加速した。


 ――0.6c


 動くたび、前方が青白くにじむ。

後方は赤く染まり、ときが焼け落ちるように消えていく。


 世界が引き延ばされるが、それでも致命傷には届かない。

ロットは一閃ごとに、さらに速度を上げていった。


 ――0.9c


 突如として、視界が一点へと収束した。

周囲は闇に沈み、世界が、細い筒の中へ押し込められたかのように狭まる。

そのわずかな視界の先で、ラジエルの影だけを辛うじて捉え、ロットは、そこへ向けて剣を振るう。


 ――0.99c


 視界はさらに狭まり、あらゆる風景が前方の一点へと圧縮される。

森も、炎も、夜も、空も。すべてが押し潰され、細い光の隙間へと吸い込まれていく。


 ロットは、暗闇の森の中で村の灯りを目指して走る子供のように、その一点にしがみついた。

この機会を逃せば、終わる。次は村人の……リーンが殺される番になってしまう。

それだけは避けなければならない。


 しかし、まだ、ラジエルを斬った感覚はない。


 ――0.999c


 前方の光は、もはや一粒の星のように遠く、小さい。

どれだけ踏み込んでも、距離は縮まらない。永遠に続く道を、永遠に追いかけているような感覚。


 そのとき、その一点の向こうから、無数の光の針が放たれた。

もはや色としては認識できず、“刺さる”という知覚がロットを支配する。


 ――0.9999c


 突如、前方が輝きを取り戻した。

圧縮されていた光が解け、それは明確な“輪”となってロットの前に現れる。

燃えるでもなく、消えるでもなく。


 ただ、在る。


 その光るリングは、まるで――

宇宙の始まりに残された、最後の残り火のようだった。


 その瞬間。

遅れていた感覚が、ようやくロットの手に追いついた。

肉を断つ手応え。骨を裂く震動。確かに、ラジエルを斬ったという実感。


 終わった。そう思った。


 張り詰めていた意識が、わずかに緩む。

ロットは徐々に、武技も、スキルも、解いていった。


 前方に収束していた針の穴ほどの光が、ゆっくりと円盤状に広がっていき、淡い青の光が視界を満たし、それがやがてロット自身を包み込んだ。


 その瞬間、世界が(ひしゃ)げた。


 空間そのものが波打ち、見えない何かに引き延ばされ、捻じられ、引き裂かれ、そして再び縫い合わされるような感覚。


 前方は青く。

ロットの周囲は緑や黄色に滲み。

後方は、深い赤に染まっていく。


 まるで虹の内側を彷徨さまよっているかのようだった。


 次の瞬間。

それらすべてが濁流となってロットを呑み込んだ。

光も、色も、音も、時間さえも。巨大な奔流が前方へと駆け抜ける。


 ロットは、それにただ包まれていた。


 やがて――それも止まる。

世界が静まり返った。そこにあったのは、静寂だった。


 ロットは、ゆっくりと息を吸い込み、焼けるように痛む肺で、ようやく、身体が“ここ”に戻ってきたのだと理解する。


 辺りを見渡すが、炎は消え、ラジエルの姿もない。


 いや、それどころか、先ほどまで月夜だったはずなのに、今は真上に太陽が昇っていた。


 眩しい光が、(かわら)を照らし、走る子供を見守っていた。


 ――そのとき。

背後で、水桶が落ちる音がした。

乾いた音が、やけに大きく響く。


 ロットは、ゆっくりと振り返った。


「……ロ、ロット……」


 そこに立っていたのは、この村では見たことのない、初老の女性だった。

口元を震わせ、恐ろしいものを見るように、それでいて、どうしようもなく懐かしむような目で、ロットを見ている。


 その、花の刺繍が施されたチュニックを着た女性の目は――

どこか、リーンに似ていた。


 ――――完

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