第34話 聖域《ふるさと》への『帰還』
私、セレスティアが、この「竜の谷」に最初の一歩を踏み入れた時、ここは、絶望そのものだった。
大地は死に、空は淀み、竜族の心は、虚に閉ざされていた。けれど、あの「最初の一杯」……リュウさんが、この谷のか細い「命」と、私の「聖女ハーブ」、そして彼の「魂」で紡いだ、あの透明なスープが、すべてを変えた。
あれから、季節、巡った。
「聖女様! こっちの『南斜面』、土壌の浄化が終わったぞ! いつでも、例の『種』を蒔ける!」
「わあ、イグニスさん、ありがとうございます! 今、行きます!」
私を呼ぶ声に振り返ると、そこには、土まみれになりながらも、生き生きとした表情で、鍬を担ぐイグニスさんの姿があった。あの、誇り高かった竜の戦士長は、今や、この谷一番の「農夫」として、再生の先頭に立ってくれている。
スープで「生きる意志」を取り戻した竜族たちは、リュウさんが作る「回復食」で体力を取り戻し、今、自分たちの手で、故郷を「再生」させる喜びに満ち溢れていた。
私は、リュックから「聖女ハーブ」の種を取り出すと、イグニスさんたちが耕してくれた、新しい「畑」に、それを蒔いていく。そして、両手を、その大地にかざす。「《聖女の浄化》!」
あの日、再覚醒した、私の《浄化》の光。それは、もう、私一人の力ではない。
ガノスさんにもらった「聖域の土」を「核」にして、この谷で生きようとする、竜族たちの「意志」そのものに、呼応する力。光が、大地に吸い込まれ、蒔かれた種が、一斉に、力強い「緑の芽」を吹き出した。
「「「おおおおお!!」」」
それを見ていた、若い竜族たち《あの黒ずんだ鱗を持っていた子供たちだ》が、歓声を上げる。
大地は、再生した。
私が、この谷に来て、最初に作った、あの「直径数十メートルの聖域」は、今や、この「竜の谷」全体を覆い尽くす、巨大な「菜園」へと姿を変えていた。鉛色だった空は、瘴気の呪いが完全に浄化され、リュウさんの瞳と同じ、燃えるような「紅蓮色」の夕焼けを、映し出している。私の「往診」は、もう、終わったのだ。
その日の夜。谷の「再生」を祝う、大きな「宴」が、竜王陛下の洞窟の前で、開かれていた。もちろん、その宴の「厨房」は、リュウさん、ただ一人だ。
彼は、この谷で「新しく」育った、私の「聖女野菜」と、竜族たちが、再生した川で獲ってきた「川魚」を使い、彼が持つ、最高の技術で、「祝宴の料理」を振る舞っていた。
「……美味……! 美味ぞ、リューディアス!」
「王子が、我らが谷の『食材』を……! こんな、『命の味』を、引き出してくださるとは……!」
虚な目をしていた、あの老竜たちが、今や、子供のように目を輝かせ、リュウさんの料理に、夢中になってかぶりついている。リュウさんの「料理」もまた、この谷で、完璧に、成し遂げられたのだ。
宴の中心で、竜王陛下が、ゆっくりと立ち上がった。リュウさんの料理と、私の《浄化》の力で、すっかり「後遺症」が癒えた陛下は、あの頃の威厳を、完全に取り戻していた。
彼は、リュウさんと、そして、私の前に、進み出た。
「……聖女セレスティア殿。……そして、我が息子、リューディアスよ」
谷中の竜族たちが、静まり返る。
「……聖地の主よ。君の、その海よりも深い『慈愛』が、我らが谷を、絶望の淵から救ってくれた。……この『恩』は、竜族の血が途絶えぬ限り、永遠に、忘れはしない」
竜王陛下が、私に、深く、深く、頭を垂れた。
「や、やめてください、陛下! 私は、私が、やりたかったことを……!」
「そして、リューディアス」
竜王陛下は、リュウさんに向き直った。その瞳は、「父」としての、厳しさと、誇りに満ちていた。
「……お前は、『王子』としての責務を、見事に、果たしてくれた。……いや、|われらの、想像を、遥かに超えるやり方で、この谷を、救ってくれた」
「……」
「……今こそ、戻ってきてはくれまいか。この谷に、残り、我らが、新しい『王』として……。この、再生した谷を、導いてはくれぬか」
その場にいた、イグニスさんを含む、すべての竜族が、リュウさんに向かって、ひざまずいた。
「「「……どうか、王子! 我らの、王に!!」」」
来た。いつか、来ると、思っていた、「選択」の時が。私の心臓が、きゅっ、と小さくなる。ここは、彼の故郷。彼の民。彼が「王子」として、戻るべき、場所。
私は……私は、彼が「王」になるというのなら、彼の「幸せ」のために、笑顔で、彼を、送り出さなければ。私は、この聖域と、一つになったわけじゃない。私の「聖域」は、ガノスさんたちが待つ、あの、辺境の……。
(……大丈夫。私は、もう、『役立たず』じゃない)
私は、リュウさんが、どんな「答え」を出しても、受け入れようと、そっと、唇を噛んだ。
▶◇◇◇
リュウは、ひざまずく父と、同胞たちを、静かに見つめていた。
傷ついた竜核は、完全に癒え、力は、全盛期に戻った。故郷を苦しめた「魔瘴」は、消え去った。谷は、セレスティアの力で、緑を取り戻しつつある。民は、「料理」で、生きる「意志」を取り戻した。
すべてが、満たされた。「王子」として、戻るべき「理由」は、すべて、揃っている。
だが。リュウは、ゆっくりと、首を振った。そして、ひざまずく父の手を取り、力強く、立たせた。
「……父上。……イグニス。……みんな、聞いてくれ」
彼の「大陸共通語」が、静かな谷に響く。
「……俺は、『王子』には、戻らない」
「「「……!?」」」
竜族たちに、衝撃が走る。
「……俺は、故郷を捨てた『敗北者』だった。……死に場所を探して、辺境にたどり着いた、ただの『竜』だった」
リュウは、宴の輪から、一人、外れて、その光景を、見守っていた「彼女」……セレスティアへと、視線を移した。
「……だが、あの日。一人の、腹を空かせた『役立たず』の聖女が、俺を、見つけてくれた」「……リュウさん……」
「……彼女は、俺が『竜』だとか、『王子』だとか、そんなことは、どうでもよかった。……彼女は、俺の『料理』を、『美味しい』と、泣きながら、食ってくれた」
「……」
「……彼女は、俺に、『料理番リュウ』という、新しい『居場所』をくれた。……俺の『聖域』は、ガノスや、ヴォルグや、タマや……そして、何より、こいつが待つ、あの場所だ」
リュウは、竜王に向き直った。
「父上。この谷は、もう、大丈夫だ」
「……リューディアス……」
「……この谷には、もう、『戦う王』は、必要ない。……必要なのは、この再生した大地を、皆で『耕す』力だ。……イグニス、お前が、その『棟梁』になれ」
「! し、しかし、王子!」
リュウは、ゆっくりと、セレスティアの元へと、歩み寄った。そして、私たちが、あの「聖域」で、いつも、やっていたように。彼は、私に、手を差し伸べた。それは、王子としてでも、傷ついた竜としてでもない。私の「相棒」としての、手だった。
▶◇セレスティア
「……俺は、『辺境の聖域』の、料理番リュウだ」
私は、その手を、見つめた。もう、迷いは、なかった。私の「力」が、どこにあろうと、関係ない。私の「居場所」も、ずっと、昔から、決まっていた。私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、最高の笑顔で、その手を、強く、強く、握り返した。
「……セレスティア」
リュウさんが、私だけを見て、言った。その紅蓮の瞳は、これ以上ないほど、優しかった。
「……腹が減った」
「……はい」
「……ガノスたちの、うるさい声が、聞きたくなった」
「……はいっ!」
「……俺たちの、『家』に、帰るぞ」
◇
数日後。竜の谷の、その入り口。イグニスさんを先頭に、谷中の竜族たちが、私たちを、見送りに来てくれていた。
リュウさんの『氷結の宝箱』は、今度は、竜の谷の「新しい恵み」と、父君からの「餞別」で、満杯になっていた。
「聖女様! リュウ様! このご恩は、決して、忘れませぬ!」
「いつでも、お戻りを!」
私たちは、その声に、笑顔で、手を振った。
イグニスさんが、転移門を、開こうとする。
「イグニス」
「……はっ」
「……それは、いらん」
「……え?」
「……来た時と、同じだ」
リュウさんは、ヴォルグさんにもらった「地図」を、広げた。
「……俺たちは、『往診』の、帰りだ。道中で、俺たちの『種』が、どう育ったか、見て帰らないと、な」
リュウさんが、私を見て、笑う。私も、笑い返した。私たちの、長くて、温かい「帰り道」が、始まる。
そして、季節が、もう一度、巡った頃。懐かしい、辺境の森を抜けた先に、ガノスさんたちが、さらに、巨大に「増築」してくれた、私たちの「聖域」が、見えてきた。
霊木の屋根からは、リュウさんの「厨房」の、温かい「まかない」の煙が、立ち上っている。あの、忌まわしい《運命の赤い糸》から逃げ出した、役立たずの聖女が、今、世界で一番、大切な「相棒」と、二人、肩を並べて。私たちは、その、懐かしい「我が家」の扉を、一緒に、開けた。
「「――ただいま、戻りました!」」
(おわり)




