第32話 竜の谷の『荒野』と、二人の『往診』
私たちが、ガノスさんたち仲間に見送られ、あの「辺境の聖域」を旅立ってから、どれほどの月日が経っただろうか。
ヴォルグさんがくれた「獣道の地図」は、正確だった。私たちは、イグニスさんの案内のもと、帝都を迂回し、大陸を横断する、険しくも、美しい「裏の道」を進んできた。
それは、決して、楽な旅ではなかった。けれど、絶望的な「逃避行」だった、あの頃とは、まったく違っていた。
「リュウさん! 見てください! この村、魔瘴が消えたおかげで、井戸の水が、綺麗になってます!」
「……ああ。だが、まだ土地の『力』が弱い。セレスティア、ガノスにもらった『聖域の土』を、少しだけ、分けてやれ」
「はいっ!」
私たちは、ただ「竜の谷」を目指しただけではない。
リュウさんが言った通り、道中の、魔瘴の「後遺症」に苦しむ村々や土地に、「往診」をしながら、旅を続けた。私が、ガノスさんにもらった「聖域の土」を、汚れた井戸や、痩せた土地に、ほんの少しだけ埋める。そして、「再覚醒」した《浄化》の光を、そっと、注ぐ。すると、死んでいた大地が、息を吹き返し、水が、輝きを取り戻していく。
「おお……! 水が……! 作物が、また、育つぞ!」
村人たちの、歓喜の声。そして、その夜。リュウさんが、彼の「携帯コンロ」と、私たちが聖域から持ってきた「食材」で、村人たちに、温かい「回復食」を振る舞うのだ。
『氷結の宝箱』で運んできた、聖域の恵み。それは、人々の、疲弊しきった「心」を、内側から、癒していった。
私は、自分の《浄化》の力が、聖域から離れても、ガノスさんのお守りを「媒体」にすることで、変わらず奇跡を起こせることを、知った。ううん、違う。聖域と繋がっているからこそ、私の力は、どこまでも「出張」できるのだ。そして、リュウさんの「料理」が、その土地の「再生」を、完璧に後押しする。
私たちは、二人で、最強の「往診医」だった。旅を続けるうちに、私のカバンにぎっしり詰まっていた「聖女ハーブの種」は、大陸のあちこちに蒔かれ、行く先々で、小さな「聖域」の芽吹きを残していった。
そして、ついに。ヴォルグさんの地図が、終わりを告げる場所。大陸の西の果て。人間が踏み入ることを許されない、切り立った渓谷の入り口に、私たちは、たどり着いた。
「……ここが」
「……ああ」
リュウさんが、息を呑む。イグニスさんが、私たちの前に進み出て、その場所に向かい、深く、頭を垂れた。
「……ようこそ。聖地の主よ。……そして、王子。……お帰りなさいませ」
「……ここが、『竜の谷』か」
リュウさんの声は、固かった。私が見上げた先には、空を突くような、赤黒い岩肌が、どこまでも続いていた。だが、私が想像していた、神秘的な「竜の故郷」の姿は、そこにはなかった。
谷全体が、まるで、巨大な「火事」にでも遭ったかのように、荒廃しきっていた。草木は、一本も生えていない。川は、濁り、よどんでいる。空は、晴れているはずなのに、魔瘴が残した「呪い」の残滓のせいで、鉛色に、くすんでいた。
(……ひどい)
『喰らう闇』は、滅んだ。けれど、イグニスさんが言った通り、その「呪い」だけが、この土地の「生命」を、今もなお、縛り付け、蝕み続けていた。
聖域が、魔瘴に襲われた時よりも、ずっと、ずっと、深刻な「死」の臭い。
イグニスさんに導かれ、私たちは、その死んだ谷の、奥深くへと、足を踏み入れた。
道中、私たちは、何人もの「竜族」と、すれ違った。彼らは、人間の姿……リュウさんやイグニスさんのような、凛々しい姿ではなかった。
瘴気の「後遺症」に苦しみ、その力の大半を失い、やつれ、疲弊しきった、人間の「老人」のような姿で、ただ、岩陰に座り込み、虚な目で、空を見上げているだけだった。私たちという「来訪者」に、気づきもしない。心が、折れてしまっている。
「……これが、今の、我らの谷の姿です」
イグニスさんが、悔しそうに、唇を噛む。リュウさんは、何も言わなかった。ただ、その光景を、自分の目に、焼き付けるかのように、黙って、見つめていた。
彼が、燻製肉を作りながら、夢にまで見た「帰郷」。それが、これほどまでに、過酷な「現実」だとは。
やがて、私たちは、谷の最深部……ひときわ大きな、洞窟の前に、たどり着いた。
「……父上が、お待ちです」
イグニスさんが、そう言った。
中は、ガランとしていた。かつては、宝物や、竜族の「誇り」で、満ちていたのかもしれない。だが、今は、ただ、冷たい岩肌が、むき出しになっているだけだ。その、一番奥。巨大な「玉座」らしき岩の上に、一人の、老竜が、静かに座っていた。
リュウさんと同じ、紅蓮の鱗を持つ、威厳に満ちた姿。だが、その威厳も、瘴気の呪いによって、深く傷ついていた。
「……」
老竜が、ゆっくりと、目を開けた。その、くすんだ紅蓮の瞳が、リュウさんを、捉える。
「……《《……リューディアスか》》」
「……《《父上。……ただいま、戻りました》》」
リュウさんが、膝をつこうとする。だが、竜王である父君は、それを、力なく、手で制した。
「……《《……その必要は、ない。……我は、もはや、王ではない。……この、死にゆく谷の、墓守よ》》」
竜王は、イグニスから、すでに「話」は聞いていたようだった。彼は、その、くすんだ瞳を、私……セレスティアへと、向けた。
「……《《……人間の娘。……聖地の主、と、聞いた》》」
「……セレスティアと、申します」
私は、彼の前に進み出て、精一杯の礼を尽くした。
「……《《……我らの谷は、終わった。……魔瘴は、我らの『大地』と、我らの『誇り』を、喰らい尽くした。……もはや、再生の術は、ない》》」
絶望。一族の「王」が、絶望に、囚われていた。これでは、生き残った他の竜たちが、心を折られてしまうのも、無理はなかった。
私は、その時、リュウさんを見た。彼は、父である竜王の、その「絶望」を、まっすぐに見つめていた。そして、彼は、ためらうことなく、懐から「あるもの」を取り出した。私たちが、聖域から持ってきた、あの、『氷結の宝箱』。
「……父上」
リュウさんは、竜の言葉ではなく、あえて、「大陸共通語」で、話し始めた。
「……これは、俺が、逃げた先で……俺が、新しく見つけた『聖域』で、作った、『料理』です」
リュウさんは、宝箱から、彼が、旅立ちの日に「土産」として詰めた、あの、完璧な『竜炎燻』——黒イノシシの燻製肉を、取り出した。そして、携帯コンロに火を灯し、ガノスさんが作ってくれた、金剛石鋼のナイフで、それを、手際よく、切り分けていく。
「……リューディアス? 何を……」
イグニスさんが、戸惑いの声を上げる。
ジュウ、と。リュウさんの《神の火加減》で、軽く、温め直された燻製肉が、この「死」の臭いしかしない洞窟に、信じられないほど、芳醇で、温かい「生命」の匂いを、放ち始めた。それは、イグニスさんが、私たちの聖域で嗅いだ、あの「懐かしい炎の匂い」だった。
「……!」S> 虚だった、竜王の瞳が、その「匂い」に、わずかに、反応した。リュウさんは、その一切れを、小さな皿に乗せると、父である竜王の前に、差し出した。
「……食ってください」
「……」
「……これは、俺が、『王子』としてではなく、『料理番』として、……あんたに、食べさせたかった、俺の、新しい『故郷』の味だ」
竜王は、震える手で、その一切れを、受け取った。そして、ゆっくりと、口に、運ぶ。
瘴気の後遺症で、味など、感じないはずだった。なのに。口に入れた瞬間、凝縮された「肉の旨味」と、セレスティアの「ハーブの香り」、そして、リュウさんの「竜の炎」の、温かさが、……何よりも、彼が「生きている」という「証」が、竜王の、死にかけた「魂」を、内側から、直接、叩き起こした。
「……あ……」
竜王の、くすんだ紅蓮の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。何十年、いや、何百年ぶりに、彼は、「美味しい」という「感情」を、思い出したのだ。
「……温かい……。……これが、お前の……」
「父上」
リュウさんが、竜王の前に、ひざまずく。そして、私を手招きした。私は、彼の隣に、並んで、ひざまずいた。
「……この谷は、まだ、終わっていない」
リュウさんが、竜王の、震える手を、強く握った。
「……俺の『相棒』が、この死んだ大地を、癒す。そして、俺が、あんたたちの、その『折れた心』を、俺の『料理』で、癒す」
私は、その言葉に応えるように、懐から、ガノスさんにもらった「聖域の土」と、私のカバンに詰めた「聖女ハーブの種」を取り出した。
「竜王陛下。……お父様」
私は、竜王の、もう片方の手を、握りしめた。そして、あの日、イグニスさんの「鱗」を浄化した、あの「進化」した力を、今、この谷の「王」に、注ぎ込む。
「聖女の浄化!」
私の手のひらから、白金の、温かい光が溢れ出す。竜王の体を蝕んでいた、瘴気の「後遺症」が、ジジジ……と、浄化されていく。竜王の瞳に、失われていた「力」の光が、戻ってくる。
「おお……! おお……!」
竜王と、イグニスさんが、その奇跡に、息を呑む。私は、笑顔で、言った。
「私たちは、この『竜の谷』を、『往診』に来ました……私たちの、新しい『聖域』として、この土地を、もう一度、『再生』させに来たんです」
リュウさんの「料理」と、私の「浄化」。二人の、「復興」という名の、温かい戦いが、今、この「死」の谷で、始まろうとしていた。




