第30話 王子の『故郷』と、聖女の『再誕』
それは、聖域の、穏やかな夕暮れを、切り裂く「過去」からの訪問者だった。
燻製窯の前で、リュウさんの動きが、止まる。私、セレスティアも、カウンター席で、息を呑んだ。
霊木の扉の前に、フードを取った「竜族」の男性が、片膝をついていた。その額には、リュウさんと同じ、紅蓮の「鱗」が一枚、輝いている。彼が、リュウさんを見上げ、震える声で……太古の「竜の言葉」で、告げた。
「……《《リューディアス・イグニート……我らが紅蓮の、王子》》」
厨房の空気が、凍りついた。「王子」……? 私が、声も出せずにいると、リュウさんが、硬直を解き、静かに、しかし、鋭く、竜の言葉で返した。
「……《《イグニス。……なぜ、お前がここにいる》》」
「……《《お探ししておりました。リューディアス様》》」
イグニスと呼ばれたその竜族は、リュウさんの姿を、信じられないものを見るかのように見つめている。その旅装束はボロボロで、額の鱗も、ひどくくすんでいた。あれほどの誇り高そうな戦士が、これほどまでに疲弊している。私の心臓が、嫌な音を立てた。
「……《《故郷は、どうなった》》」
リュウさんの声が、震えていた。
彼が、トラウマを克服し、力を取り戻した今、最も知りたかった「答え」。彼が、見捨ててきた故郷の、安否。イグニスは、その問いに、一瞬、顔を伏せた。だが、次に顔を上げた時、その目には、涙が浮かんでいた。それは、私が恐れていた、絶望の涙ではなかった。
「……《《……滅びました》》」
「!」
「……《《我らが『|喰らう闇』と呼ぶ、おぞましき存在は、……滅びたのです!》》」
イグニスの、歓喜とも、嗚咽ともつかない声が、厨房に響いた。
「……《《王子! あなた様が、北の帝国で分体を……そして、この『聖域』で、本体を討ってくださった、あの瞬間! 我らが谷に巣食っていた『分体』もまた、力を失い、完全に、消滅いたしました!》》」
「……あ」
リュウさんの体から、張り詰めていた「何か」が、ふっ、と抜けていくのがわかった。帝都で氷帝を救った時。この聖域の地下で、私たちが「魔瘴の心臓」を浄化した。
あの戦いによって、故郷を救ったんだ……リュウさんは、故郷からただ逃げ出した「敗北者」ではなかったのだ。
彼が、この聖域で、私と、仲間たちと守り抜いた「日常」こそが、結果として、故郷を縛り付けていた「元凶」を、討ち滅ぼしていた。
「……《《そう、か》》」
リュウさんは、それだけ言うと、よろめくように、カウンターに手をついた。長年、彼の竜核に突き刺さっていた、最後の「棘」が、ようやく、抜けていった。
私は、安堵の涙が溢れそうになるのを、必死でこらえた。よかった。本当に、よかった……!戦いは、すべて、終わったんだ。
だが、イグニスさんの表情は、すぐに、深い「苦悩」の色に戻った。彼は、立ち上がり、今度は、私にもわかる「大陸共通語」で、話し始めた。
「……しかし、王子。『喰らう闇』は、滅びました。……ですが、谷は、我らが故郷は、救われておりません」
「……どういうことだ」
リュウさんが、彼に問い返す。
「……『喰らう闇』は、滅びる寸前、その『呪い』だけを、谷全体に撒き散らしました」
イグニスさんは、この聖域の、清浄な空気を、まるで砂漠で水を求めるかのように、深く、深く、吸い込んだ。
「……長年瘴気に蝕まれた大地は、完全に『死んだ』ままなのです。草木も生えず、水は濁り、生き残った同胞たちも、瘴気の『後遺症』に苦しみ、心が折れてしまっています。……『喰らう闇』は、死してなお、我らの故郷を、緩やかな『死』へと、道連れにしようとしているのです」
戦いは、終わった。けれど、本当の「苦しみ」は、これからだった。私たちが、この聖域で、魔瘴が消えた後の「再生」を経験したように。彼らもまた、「再生」を、必要としていた。私たちが倒したのは「病原菌」で、彼らが今、苦しんでいるのは、その「後遺症」なのだ。
「……だから、来たのか。イグニス」
リュウさんの声には、もう、迷いはなかった。
「……ああ。だが、王子。我らが必要としているのは、もはや、王子の『炎』……『戦う力』では、ありません」
イグニスさんは、私に向き直った。その厳しい目が、私を、値踏みするように、見つめる。
「……この『聖域』。……この、魔瘴の『対抗毒』とも言うべき、清浄な『気配』。……これを、生み出しているのは、あなたか。人間の娘よ」
「……!」
「我らが必要なのは、この『大地』そのものの力だ。……|聖地の主よ。どうか、その『土地』の力で、我らが死んだ故郷を……」
「待ってください」
イグニスさんの言葉を遮った、私は、カウンターから出て、イグニスさんの前に立った。もう、竜族の威圧感に、怯えたりはしない。
「……私の力は、この聖域と、一つになりました。私自身が、この土地から、離れることは……」
私が、そう言いかけた時。イグニスさんは、懐から、お守りのように握りしめていた「何か」を、私に差し出した。
それは、魔瘴に汚され、その輝きを失い、黒ずんでしまった、一枚の、小さな「|竜の鱗」だった。
「……これは、谷で生まれた、若き竜の鱗だ。……魔瘴が消えた後に、生まれた、希望の光。……だというのに、瘴気の『後遺症』に生まれながらに侵され、飛ぶことも、声を上げることもできぬ、弱き命……」
私は、その鱗を、見た瞬間。胸が、張り裂けそうになった。
役立たずと、追放された、私。飛べなくなった、ハルピュイアのライラさん。そして、傷つき、故郷に帰れなかった、リュウさん。すべてが、重なった。
守りたい。この、小さな、新しい命を。
(……可哀想に)
私は、考えるよりも先に、その「鱗」に、そっと、手を伸ばしていた。ガノスさんの傷に触れた時のように、ただ、触れるだけ。「癒したい」と、願うだけ。私が、鱗に触れた、その瞬間。
「……!」
私の手のひらから、光が、溢れた。それは、私が、魔瘴を倒した時に、失った、あの、白金の《《浄化の光》》。いや、あの頃よりも、もっと、温かく、もっと、力強い。この聖域の「力」そのものを、凝縮したような、神々しい光だった。
「え……!?」
「「……!!」」
リュウさんとイグニスが、その光景に、息を呑む。光は、黒ずんだ鱗を、優しく包み込み、その表面にこびりついていた瘴気の「後遺症」を、ジジジ……と、音を立てて、浄化していく。
鱗が、ゆっくりと、本来の「紅蓮色」の輝きを、取り戻していく。
私の力は、失われてなど、いなかった。「聖域」という大地に、深く、強く「根」を下ろし……。そして、私の「魂」が、「守りたい」「癒したい」と、心の底から願った時。再び、私自身の「手」で、奇跡として、発現するように、「進化」していたのだ。
私は、自分の手のひらに戻ってきた「光」を見つめ、そして、リュウさんを見つめた。涙が、溢れてきた。もう、迷わない。私には、力がある。彼の隣に、立つための「力」が。
「……リュウさん。私、まだ、やれるみたいです」
イグニスは、その奇跡を前に、歓喜に震えていた。
「おお……! 予言は、生きていた! 王子よ! そして、聖地の主よ! どうか、我らが故郷、竜の谷へ……!」
リュウさんが、私の前に立った。彼は、もう、何も迷っていなかった。
「セレスティア」
「はい」
「……お前は、俺の『聖域』だ。……お前が、この土地から離れられないなら、俺が、この土地ごと、お前を連れて行く」
「え……?」
「……だが、お前は、自分の力で、俺の隣に立つと、そう言った」
彼は、私に、手を差し伸べた。それは、王子としてでも、傷ついた竜としてでもない。私の「相棒」としての、手だった。
「……俺の『故郷』に、一緒に来てくれるか」
「……はいっ!」
私は、その手を、強く、強く、握り返した。リュウさんは、イグニスに向き直る。
「イグニス」
「……はっ!」
「……『王子』としてではない。俺は、『辺境の聖域』の料理番として、俺の相棒と共に、お前たちの谷を『往診』してやる」
リュウさんは、ガノスたちが建てたばかりの「燻製窯」から、故郷への「土産」……『竜炎燻』を、取り出した。




