第24話 聖女の『覚悟』と、最後の『神饌』
私とリュウさんが、魔瘴の本流を浄化し、たどり着いた地下空洞の最深部。そこは、私たちが守るべき「辺境の聖域」の、本当の「心臓」……《黄金の源泉》の真下だった。けれど、その光景は、私から希望を奪うには十分すぎるものだった。
「……ひどい」
私たちが湯治場として浸かっていた、あの温かく、清らかだった源泉。その岩盤の「底」が、今、黒く、おぞましい「何か」に侵食されていた。
源泉の黄金色の光は、まるで風前の灯火のように弱々しく明滅し、その中心部には、帝都で氷帝を覆っていた「あれ」よりも、さらに巨大な、黒い「|魔瘴の心臓」そのものが、源泉に根を張り、脈打っていた。
ドクン、ドクン、と。宿屋全体が、その邪悪な鼓動に共鳴して、微かに震えている。
私たちが倒してきた「触手」や「泥の津波」は、すべて、こいつから伸びた「枝葉」に過ぎなかったのだ。そして、この「心臓」は、私たちの聖域の「源泉」そのものに寄生し、その聖なる力を、今まさに、吸い尽くそうとしていた。
「……リュウさん。あれが……」
「……ああ。ラスボスのお出ましだ」
リュウさんの声には、緊張と、それ以上に、この宿の「本丸」を汚されたことへの、静かな怒りが込められていた。
ズズ……と、魔瘴の心臓が、私たちという「異物」の侵入に気づいた。それまで源泉の力を吸うことに集中していた「意識」が、明確な「殺意」を持って、私たちに向けられる。空気が、凍る。帝都で感じた魔瘴の比ではない。濃密な「死」の瘴気が、私たちを押し潰そうと、四方八方から迫ってきた。
ドン! ドドン!! 地上から、微かに、くぐもった爆発音が響いてくる。ガノスさんとヴォルグさんの、必死の防衛戦の音だ。源泉の力が弱まったことで、宿屋全体を守っていた《浄化》の結界が、急速に失われている。外の「壁」が破られるのも、時間の問題だった。
「……セレスティア! 下がるな!」
リュウさんが叫ぶ。瘴気に怯んだ私をかばい、彼が前に出た。彼は、もはや調理用コンロなど使わない。その右手に、純粋な「竜の炎」を収束させる。
「……俺の聖域で、これ以上、好き勝手はさせん!」
彼が放つのは、帝都で魔瘴の「芯」を焼いた、あの「炎の包丁」。いや、あの時よりも、さらに凝縮され、研ぎ澄まされた、本当の「必殺」の炎。彼が、自らの竜核を燃やして放つ、渾身の一撃。
「《神の火加減》・刺身!!」
リュウさんの手から放たれた「炎の包丁」は、音も無く、空間を切り裂き、魔瘴の心臓へと突き刺さった。
ゴアアアアアアア!! 魔瘴の心臓が、先ほどの「本流」を焼かれた時とは比較にならない、おぞましい断末魔の「絶叫」を上げた。炎が、黒い心臓の内部で爆発し、その表面を、容赦なく焼き焦がしていく。
「やった……!」
私が歓喜の声を上げた、その直後。リュウさんの体が、ぐらり、と傾いた。
「リュウさん!?」
「……っ、ぐ……!」
彼が、片膝をつく。その紅蓮の瞳が、苦痛に見開かれている。魔瘴の心臓は、確かに、今の一撃で深手を負った。だが、倒しきれていない。それどころか、焼かれた表面が、おぞましい速度で「再生」を始めていた。そして、反撃が来た。
魔瘴の心臓は、リュウさんの「竜の力」に反応した。故郷の谷で、彼の同胞を喰らった、あの「魔瘴のブレス」そのものが、リュウさんめがけて、黒い奔流となって放たれた。
「危ない!」
私は、リュウさんを突き飛ばした。黒いブレスが、先ほどまで私たちがいた場所を通過し、背後の岩盤を、音もなく「溶解」させる。
リュウさんは、私に突き飛ばされた勢いで、かろうじて直撃を免れた。だが、彼の消耗は、限界に達していた。
「……はぁ、……はぁ……!」
「リュウさん! しっかり!」
「……馬鹿野郎、余計な、ことを……」
彼は、苦しげに息をしながら、私にだけ聞こえる声で呟いた。
「……ダメだ。俺の竜核は、まだ、本調子じゃねえ……。トラウマは消せても、あの時つけられた『傷』そのものは、まだ……」
私は、すべてを理解した。彼は「心の傷」は癒えた。だが、「竜核」という、彼の力の源そのものに負った「物理的な損傷」は、まだ完治していなかったのだ。彼は、この聖域を守るため、私を守るために、無理をして、全力を超えた一撃を放ってくれた。だが、その代償は、あまりにも大きかった。
ズズズズズ……!
魔瘴の心臓が、体勢を立て直した。リュウさんという最大の脅威が、今、無力化したことに気づいたのだ。それは、歓喜に打ち震えるかのように、その黒い巨体を脈動させ、再び、私たち二人を同時に喰らおうと、瘴気のブレスを溜め込み始めた。もう、次はない。私たち二人とも、あのブレスを避ける力は、残っていなかった。
(……このまま、終わり……?)
私の脳裏に、この宿屋での、短いけれど、幸せだった日々が駆け巡る。追放された私を、温かいシチューで迎えてくれた、リュウさんの不器用な優しさ。
私の《浄化》の力を「役立たず」ではなく「素晴らしい」と認めてくれた、ヴォルグさんの笑顔。
私の力を「心臓」だと信じて、今も地上で戦ってくれている、ガノスさんの背中。タマちゃん。エルフさん。ライラさん。みんなの顔が、浮かんで、消える。
(……嫌だ)
私は、もう、何も失いたくない。私は、もう、「役立たず」のまま、守られて、終わるなんて、絶対に嫌だ。
(……そうだ。まだ、やれることがある)
私は、リュウさんから託された、あのカバンを見つめた。帝都でやった、「合体技」。あの「光の実」を、もう一度作れれば。あれなら、この魔瘴の心臓にも、確実に「食中毒」を起こさせることができる。でも。
(……材料が、ない)
地下に潜る直前、魔瘴の本流を浄化するために、私は、カバンに入っていた「最後の一束」の聖女ハーブを、使い切ってしまっていた。
万策、尽きた……。
リュウさんが、私を守るように、最後の力を振り絞って、私の前に立とうとする。その、ボロボロになった背中が、私に「答え」をくれた。
(……いいや。材料なら、ある)
私は、立ち上がった。そして、私を守ろうとする、彼の背中を、今度は、私が、後ろから、優しく抱きしめた。
「……セレスティア?」
「リュウさん。ありがとう。もう、大丈夫です」
「な、にを……」
「……聖女ハーブが、なぜ、あの力を持っていたか、わかりますか?」
「……それは、お前の菜園で、お前の《浄化》の力を、吸っていたからだ」
「はい」
私は、リュウさんの肩越しに、絶望の象徴である「魔瘴の心臓」を、まっすぐに見据えた。もう、恐怖は、なかった。
「ハーブが『材料』になるなら。その『大本』である、私自身が、最高の『食材』にならないはず、ありませんよね?」
「……!?」
リュウさんが、息を呑み、私を振り返ろうとする。私は、それを、許さなかった。
「リュウさん。あなたは、私に、温かいシチューをくれました。私に、料理人の『誇り』を、見せてくれました。私に、『運命』なんかより、ずっと温かい、『今』をくれました…………今度は、私の番です」
私は、自分の胸の中心……魔力の源である「魂」に、意識を集中させた。それは、一歩間違えれば、私自身が「聖女」の力を失い、二度と《浄化》を使えなくなるかもしれない、危険な賭けだった。けれど、この人と、この聖域を守れるなら、私は、何も惜しくなかった。
「リュウさん。私を、『調理』してください」
その言葉は、私にできる、最大限の「愛」の告白であり、彼への「信頼」の証だった。リュウさんは、私の覚悟と、その瞳に宿る、聖女としての、女としての、絶対的な強さを、理解した。
「……馬鹿野郎」
彼が、震える声で、そう言った。魔瘴の心臓が、瘴気のブレスを溜め終え、まさに、私たちを消し去ろうと、その黒い顎を開く。
「……ああ、わかったよ。セレスティア」
リュウさんは、私の覚悟に応えるように、ゆっくりと振り返った。その紅蓮の瞳は、傷ついた竜のものではなく、この世で最も尊い「食材」を前にした、料理人としての、最高の闘志に燃え上がっていた。
「……お前という、この世で最高の『食材』……! 俺の《神の火加減》で、無駄なく、完璧に、『調理』してやる!」
私は、リュウさんに向き直り、両手を広げた。私の魂が、眩い白金の光となって、溢れ出す。
「リュウさん!」
リュウさんは、傷ついた竜核の、最後の力を振り絞り、その「聖女の魂」という、この世で最も扱いの難しい「食材」に、自身の《神の火加減》の炎を合わせた。
帝都でやった時とは、比べ物にならない。ハーブという「媒体」を介さない、魂と、炎の、直接の「融合」。私の《浄化》のすべてと、彼の《竜の炎》のすべてが、完全に一つになった。この地下空洞全体が、まるで太陽が生まれたかのように、白と紅の入り混じった、神々しい光で満たされていく。
そして、二人の力の中心に、あの「光の実」よりも、さらに凝縮された、純粋な「生命力の塊」……「聖女の心臓」とでも呼ぶべき、究極の「光」が、生まれた。
グオオオオオ!! 魔瘴の心臓が、その「究極のご馳走」の誕生に、本能的な「恐怖」と、それ以上に、抗いがたい「食欲」を覚え、最後のブレスを、私たちに放った。
「リュウさん!」
「……ああ!」
リュウさんは、私の魂の光を、その手で掴む。それは、熱く、そして、温かかった。
「――『いただきます』、だ、化け物!」
リュウさんは、私を抱きしめるようにして、迫りくる魔瘴のブレスの中を、突っ切った。そして、魔瘴の心臓の「核」……その最も黒く、深く、脈打つ中心部へと、私たちの「魂」そのものである、最後の『神饌』を、深々と、叩き込んだ。
光が、闇を、内側から、食い破った。




