第22話 地下の『本流』と、二人の『厨房』
「――っ、いやぁっ!」
私の悲鳴が、聖域の中に響き渡った。大切な「厨房」が、内側から、土足で踏みにじられることへの怒りの絶叫。
「!」
床板を突き破って生えてきた、おぞましい黒い泥の「触手」。それが、私という《《心臓》》の匂いを嗅ぎつけ、一斉に襲いかかってくる。私は、玄関の扉に手をかける寸前で、咄嗟に後ろへ飛びのいた。
「聖女の浄化!」
私は、自分に襲いかかる触手に向かって、掌から浄化の光を放つ。
ジジッ! と、光に触れた先端が焼け焦げ、怯んだように後ずさる。
(効く……!)
帝都で対峙した「本体」や、リュウさんが今、外で戦っている「黒い腕」とは違う。こいつらは、もっと細く、力が分散している「斥候」のようなものだ。
だが、安堵したのも束の間。
ガガガガッ! 私が一本を浄化している間に、食堂の床が、まるで地震が起きたかのように、次々と突き破られていく。
五本、十本、二十本……。私たちが、お客様と食事をし、笑い合った、あの温かい食堂が、見る影もなく破壊されていく。黒い触手は、私を包囲するように、壁を、天井を、這い回り始めた。
「くっ……!」
私は、光を放ち続ける。けれど、多すぎる。このままでは、ジリ貧だ。
……私は気づいた。この触手たちが、どこから来ているのかを。
床下に張り巡らされた、ガノスさんの「配管」……聖なる結界が通っていない、その「死角」を縫うようにして、一直線に、宿の「奥」へと向かっている。
(……まさか)
私の脳裏に、最悪の光景が浮かぶ。大浴場。この聖域の、本当の「心臓」である、あの《黄金の源泉》だ。
私を《《おびき出す》》ためだけじゃない。こいつらの「本命」は、あの源泉そのものを、内側から「汚染」すること……!
(させない……!)
私が、源泉のある大浴場へと駆け出そうとした、その時。私の背後、天井を這っていた触手の一本が、私の魔力供給が途絶えた瞬間を見計らったかのように、鋭く、私めがけて振り下ろされた。
「しまった――!」
咄嗟に腕で防御するが、間に合わない。
▶◇◇◇
宿屋の外。リュウは、森の奥から次々と現れる「黒い腕」を前に、舌打ちをしていた。先ほど放った「炎の包丁」は、彼の竜核の力、その根幹を燃やす。
トラウマを克服したとはいえ、乱発できる技ではない。ガノスとヴォルグが、必死で防衛線を維持しているが、押し寄せる「泥」の津波は、聖域の《浄化》の光に焼かれながらも、その「壁」の高さを、じりじりと増してきている。
「チッ……! 埒が明かねえ……!」
このままでは、セレスティアが源泉で放つ《浄化》の力が尽きるのが先だ。どうする。どうやって、この大味な《《食材》》を、効率よく「調理」する……?リュウが、思考を巡らせた、その時。
「――っ、いやぁっ!」
聖域の「内側」から、セレスティアの悲鳴が聞こえた。それは、外の喧騒を突き破り、リュウの鼓膜に、まるで氷の杭のように突き刺さった。
「!」
リュウの紅蓮の瞳が、怒りと、彼自身が気づかなかった、純粋な「恐怖」で見開かれた。血の気が、引いていく。あの時と同じだ。故郷の谷で、守るべき同胞の断末魔を聞いた、
「リュウ! どこへ行く!」
ガノスの怒鳴り声も耳に入らない。リュウは、防衛線を維持するのをやめ、一直線に、聖域の「壁」へと駆けだした。だが、玄関は、黒い津波に塞がれている。
「どけろ!」
立ちふさがる「泥」の壁に向かって、調理用コンロの《神の火加減》を、最大火力で放射した。
ジュオオオオ!! 竜の炎が、泥を蒸発させ、強引に「道」をこじ開ける。
「馬鹿野郎! 一人で突っ込む気か!」
ヴォルグが、リュウの無謀な行動を援護しようと、残った魔瘴獣の前に立ちはだかる。
だが、リュウは、玄関には向かわなかった。
彼が目指したのは、彼が毎日、食材を仕入れていた「厨房」の、小さな「裏口」だった。彼が、自分の「城」として、隅々まで知り尽くした、最短ルート。彼は、炎を放射しながら、泥の津波の中を突き進むと、裏口の扉を、炎ごと、その身で突き破った。
ガシャアアアアン!!
「セレスティアーー!!」
▶◇セレスティア
私が、振り下ろされる黒い触手を、腕で受け止めようとした、その瞬間。厨房の方向から、壁が爆発するような轟音と共に、灼熱の「炎」が飛び込んできた。
炎は、私を襲おうとした触手を、一瞬で焼き切る。そして、炎の中から、黒い煤にまみれたリュウさんが、転がり込んできた。
「リュウさん!?」
「……無事か!」
「は、はい! でも、床下から……!」
リュウさんは、私が言い終わる前に、状況を完全に把握していた。食堂の床を突き破り、うごめく、おびただしい数の黒い触手。そして、その触手たちが、宿の「奥」……源泉へと向かっていることを。
「……チッ。外に気を取られている間に、随分と、派手に『下ごしらえ』をしてくれた……!」
リュウさんは、調理用コンロを引きずり込むと、容赦なく、食堂の「中」で、炎を放射した。「《神の火加減》・強火!!」
ゴオオオオ!! 彼が作り上げた、ガノスさん自慢のテーブルも、カウンター席も、すべてを巻き込んで、竜の炎が、床下から生えてくる触手を焼き尽くしていく。食堂が、炎に包まれる。
「リュウさん! 宿が……!」
「燃えるか、喰われるか、どっちかだ! だったら、俺が燃やす!」
彼の炎は、ただの火ではない。「魔瘴」だけを、優先的に「調理」する、竜の炎。
宿の木材が燃え尽きるよりも早く、黒い触手だけが、灰となって消滅していく。だが、焼いても、焼いても、床下の「穴」から、次々と新しい触手が湧いてくる。キリがない。
炎が収まった時、食堂だった場所は、見るも無残に焼け焦げ、そして、床には、魔瘴が湧き出てくる、巨大な「穴」が、ぽっかりと口を開けていた。ゴボゴボと、地下深くから、魔瘴の「本流」の、不気味な脈動が聞こえてくる。
「……リュウさん。やっぱり、本命は……」
「……ああ。大浴場の『源泉』だ」
リュウさんは、調理用コンロを放り投げると、背負っていた「荷物」……帝都にも持っていった、あの包丁セットの入ったカバンを、私に投げ渡した。
「セレスティア。中身を」
「え……?」
言われるがままにカバンを開けると、そこには、包丁の他に、あの時、氷帝を救った「聖女ハーブ」の束と、そして、エルフさんにもらった『静寂の笛』が入っていた。
「外は、ガノスとヴォルグが死ぬ気で守ってくれてる。……だが、時間の問題だ」
リュウさんは、その暗い「穴」を、紅蓮の瞳で見据えた。
「この『本流』を叩かない限り、この宿は、内側から腐り落ちる」
「……!」
「帝都でやった、『料理』を、もう一度やる」
「で、でも、どうやって……」
リュウさんは、私に向き直ると、私の手を、強く握った。それは、帝都で、私が彼の手を握った時の、お返しのように。彼の、温かい、料理人の手だった。
「この『穴』を、降りる」
「え……!?」
「ここが、敵の『厨房』の入り口だ。……俺たちの聖域を荒らしたんだ。今度は、俺たちが、あいつの厨房を、メチャクチャにしてやる」
外では、ガノスさんとヴォルグさんの、必死の雄叫びが聞こえる。私の《浄化》の光が途絶えたことで、宿屋の「結界」が、急速に弱まり始めている。もう、一刻の猶予もなかった。
「セレスティア」
リュウさんは、私を、まっすぐに見た。
「……俺の『故郷』に、一緒に行くんだろう」
「……!」
「その、予行演習だ。……俺の背中に、ついてこれるか」
私の答えは、決まっていた。運命の糸なんかなくても、私の居場所は、とっくに決まっている。
「……いいえ」
私は、カバンから「聖女ハーブ」の束を掴み取り、彼の隣に並び立った。
「……背中じゃありません。リュウさんの、『隣』です」
「……ふっ。上等だ」
リュウさんは、私が今まで見た中で、最高に、最高に、楽しそうに笑った。私たちは、二人で、この聖域の床下に広がる、魔瘴の本流……その暗い闇の中へと、ハーブを手に、飛び込んだ。




