第17話 聖域の『宴』と、竜の『宝箱』
私たちが、ガノスさんたちドワーフ族が待つ「辺境の聖域」の扉を開けると、そこには、懐かしいほどの騒がしさが満ちていた。
「遅えぞ、聖女様! リュウ!」
玉座の間で聞いたどんな魔導士の声よりも大きく、張り上げられた声。ドワーフの棟梁、ガノスさんが、腕組みをして仁王立ちになっていた。
その後ろからは、狼獣人のヴォルグさんが、大きな尻尾をいらだたしげに振りながら顔を出す。
「リュウ! 約束の肉はどうした! 俺は、お前らが留守の間、この聖域に余計な虫が寄り付かないよう、きっちり警備してやったんだぞ! 腹が、腹が減りすぎて、さっきガノスと本気で殴り合いになるところだった!」
「ふん! ヴォルグの旦那が、聖女様の菜園の野菜をつまみ食いしようとしたから、止めてやっただけだわい!」
「あれは毒見だ!」
「「ぎゃあぎゃあ!」」
帝都での、あの命を懸けた緊張感が、一瞬で吹き飛んでいく。私は、その、あまりにも「日常」な光景に、張り詰めていたものが一気に解けていくのを感じた。ああ、そうだ。ここだ。ここが、私の「居場所」だ。
「……ははっ」
思わず、笑いがこぼれた。私が笑うと、言い争っていたガノスさんとヴォルグさんが、きょとん、とした顔で私を見る。私の隣で、この騒動を静かに見ていたリュウさんが、ふっと、息だけで笑った。
「……相変わらず、騒がしい宿だな」
彼はそう言うと、背負っていた荷物を床に降ろし、帝都から着てきたコートを脱ぎながら、まっすぐ厨房へと向かっていった。
「リュウさん?」
「ヴォルグ、ガノス」
リュウさんは、愛用の包丁セットを調理台に広げながら、私たちを振り返った。その紅蓮の瞳には、もうトラウマの影はない。そこにあるのは、最高の料理を提供する「料理番」としての、絶対的な自信だけだった。
「……留守番、ご苦労だった。騒がしいお前らには、特大の『まかない』を食わせてやる。セレスティア、菜園から一番いい『聖女野菜』をありったけ持ってこい。今夜は、宴会だ」
「「おおおっ!!」」
ヴォルグさんとガノスさんの雄叫びが、宿屋中に響き渡った。
それから、私たちは、まるで戦いのように慌ただしく宴の準備を始めた。
私は、リュウさんに言われた通り、奇跡の菜園へと向かった。数日留守にしただけなのに、私の《浄化》の力を吸った野菜たちは、帝都で見たどんな宝石よりも瑞々しく、生命力に満ち溢れていた。
(……不思議)
私は、トマトを収穫しながら、そっと自分の左手の小指を見た。
帝都で切れた《運命の赤い糸》は、もうどこにも見えない。あれほど私を縛り付け、怯えさせていた「運命」が、今はもう、ない。だというのに、私は、今、最高に《《満たされて》》いた。
氷帝陛下と結ばれる「運命」よりも、今、ここで、リュウさんのために野菜を収穫し、お腹を空かせた仲間たちのために料理を準備する「今」の方が、ずっと、ずっと幸せだった。
(私は、もう、運命なんかに縛られない)
私は、カゴいっぱいの聖女野菜を抱え、厨房へと駆け戻った。そこでは、リュウさんが、信じられないほどの集中力で、ヴォルグさんが持ち込んだ「黒イノシシの干し肉」の塊と格闘していた。彼の動きは、帝都へ行く前よりも、さらに洗練されている気がした。
トラウマという「枷」が外れた彼の《神の火加減は、もはや芸術の域に達していた。
「セレスティア、その野菜をこっちに。ガノスが好みそうな根菜類は、俺が『竜の炎』で蒸し焼きにする。ヴォルグの肉は、お前のハーブで徹底的に臭みを消し、旨味だけを引き出す」
「はいっ!」
厨房は、再び私たちの「戦場」になった。けれど、それは、命を懸けた魔瘴との戦いではない。お腹を空かせた仲間たちを、最高に幸せにするための、温かい戦いだ。
私が浄化した水でスープの出汁を取り、リュウさんがそれを黄金色に輝くコンソメに変える。私が持ってきたハーブを、リュウさんが炎で炙り、その香りを肉に移す。二人でいると、無敵だった。
数時間後。リノベーションされたばかりの食堂のテーブルには、この世のものとは思えないほどの料理が並んだ。
ヴォルグさんの目の前には、湯気を立てる、大人の頭ほどもある「黒イノシシのロースト」。ガノスさんの前には、ドワーフ族が泣いて喜ぶ「地底芋の蒸し焼き」と、リュウさん特製の「飲む温泉」を使った薬膳スープ。
「「うおおお! いただきます!!」」
二人の声がハモる。ヴォルグさんは、ナイフも使わず、ローストにかぶりついた。
「……う、美味い! 美味すぎる! なんだこの肉は! 俺が狩ってきたただの干し肉が、口の中で『生きてる』!」
ガノスさんも、スープを一口飲むなり、その厳しい髭を感動に震わせた。
「……馬鹿な。このスープ、俺の故郷の『地底の火酒』よりも、五臓六腑に染み渡る……! 聖女様の野菜の『生命力』と、リュウの旦那の『炎』が、完璧に調和してやがる……!」
「「おかわり!!」」
私たちは、その凄まじい食欲に、笑いながらも、次々と料理を運び続けた。それは、帝都での勝利を祝う「祝勝会」であり、私とリュウさんの「お帰りなさい会」であり、そして、この「辺境の聖域」の、いつもの日常だった。
◇
宴が落ち着き、ヴォルグさんとガノスさんが、黒曜石の部屋と地下の源泉に、それぞれが泥酔して引き上げていった後のこと。私とリュウさんは、静かになった厨房で、二人きりで後片付けをしていた。
「……すごかったですね、二人とも」
「……ああ。あれだけ食えば、数日は持つだろ」
リュウさんは、愛用の包丁を丁寧に手入れしながら、そう言った。その時、彼は、荷物の中から、氷帝陛下にもらった「贈り物」を取り出した。美しい氷の結晶でできた、小さな「箱」。
「リュウさん、それ……」
「陛下からの『宿代』だ」
リュウさんは、その箱を、まるで貴重な食材を扱うかのように、そっと調理台に置いた。氷帝陛下は、これを「最高の冷蔵庫だ」と言っていた。
「……試してみるか」
リュウさんは、今日の宴で使い切れなかった、一番瑞々しい「聖女ハーブ」の葉を一枚摘むと、その箱の中に入れた。そして、蓋を閉める。箱に刻まれた帝国の紋章が、ごく微かな、蒼い光を放った。
数秒後、リュウさんが再び蓋を開ける。そこにあったハーブを見て、私とリュウさんは、同時に息を呑んだ。
ハーブは、萎れるどころか、まるで今、菜園から摘んできたかのように、葉先に朝露すら浮かべていた。いや、それ以上だ。氷結魔法の力が、ハーブの「生命力」そのものを、採れたての瞬間のまま、完璧に「封じ込めて」いる。
「……すごい」
「……ああ」
リュウさんの紅蓮の瞳が、料理人としての、強い輝きを放っていた。彼は、その箱――氷結の宝箱とでも呼ぶべきそれを、愛おしそうに撫でた。
「……これがあれば」
彼が、ぽつりと呟いた。
「これがあれば、どんなに遠くから運んできた食材も、鮮度を落とさずに『調理』できる。……たとえ、それが、大陸の果て、西の『竜の谷』からであっても」
私は、彼の言葉に、ハッとした。彼の、新しい「目的」。トラウマは克服した。けれど、故郷の安否は、まだわからないままだ。
(リュウさんは、いつか、行くんだ。自分の故郷の『今』を、確かめに)
以前の彼なら、絶望的な過去から目をそらすために、辺境で死のうとしていた。けれど、今の彼は、違う。「辺境の聖域」という、絶対に帰ってくるべき「今」を手に入れたからこそ、彼は、自分の過去に、真正面から向き合おうとしている。
「……でも、まだだ」
リュウさんは、宝箱を厨房の一番大切な場所に仕舞うと、私に向き直った。
「この聖域は、まだ始まったばかりだ。俺は、ここの料理番だ。……お腹を空かせた客を、放っておくわけにはいかない」
その言葉が、今はまだ、聖域を離れない、という彼の答えだとわかった。
「……はい!」
私は、心の底から嬉しくなって、頷いた。静かになった食堂で、私は、もう何もない自分の小指を見つめた。運命の赤い糸は、ない。私は、私の意志で、隣に立つ、この「糸のない」料理人さんと、明日もここで、お客様を迎えるのだ。
「リュウさん」
「……なんだ」
「……ううん、なんでもないです。ただ……」
私は、今、最高に幸せな笑顔で、彼に言った。
「おかえりなさい、リュウさん」
リュウさんは、一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに、いつものように「……ああ」と短く、でも、確かに温かい声で、答えてくれた。




