第13話 北の帝都と、呪われし氷帝
私、セレスティア・フィルミが、北の帝国へ向かうと決めてから、実際の移動はあっという間だった。
ガノスさんが「こんな時のために調整しといたんだ!」と意気揚々と起動させた、ドワーフ族の試作機『魔導地底列車』。それは、文字通り大地の下を、凄まじい速度で突き進む鉄の獣だった。
「聖女様、料理人殿、寒くはありませぬか? 北の地脈は、地底と言えど冷えます故」帝国の使者は、私たちに最高級の毛皮のコートを差し出しながら、恐縮しきった様子で尋ねてくる。無骨な鉄板がむき出しの車内は、ガノスさんのドワーフ的趣味なのか、やたらと地熱で暑いほどだったが、彼の気遣いに「お構いなく」と笑顔を返した。
私は、小さな窓から外を流れる岩盤を眺めながら、リュウさんが淹れてくれた温かいハーブティーを両手で包み込んでいた。
私の菜園で育ったハーブの、慣れ親しんだ香り。リュウさんは、あの慌ただしい出発の中、道中の携帯食まで完璧に用意してくれていた。すべて私の菜園の食材を使い、彼が「火入れ」を済ませた保存食だ。彼が隣にいる。その事実だけで、私は、初めて向かう「運命」の地を前にしても、不思議と心が凪いでいた。
(……でも)
時折、左手の小指がズキリ、と痛む。私にしか見えない《運命の赤い糸》。北へ向かうにつれて、その糸は物理的に引っぱられるかのように、その存在を主張し始めていた。まるで、目的地が近づいていると、私に警告するかのように。
リュウさんは、そんな私の様子に気づいているのかいないのか、窓の外の闇を、じっと紅蓮の瞳で見つめていた。辺境の聖域にいた時よりも、明らかに口数が少ない。北へ向かうにつれて、無意識に彼が感じ取っている何かが、彼の機嫌を損ねている……ううん、彼の神経を、戦場にいる時のように張り詰めさせているのがわかった。
やがて、凄まじい轟音を立てていた魔導列車が、ゆっくりと速度を落とす。地上の、巨大なターミナル駅へと浮上したようだった。扉が開くと、凍てつくような、しかし魔力で清められた空気が流れ込んできた。 「帝都、氷都グラキエスに、ご到着です」
駅には、帝国の紋章を掲げた衛兵たちが、寸分の隙もなく整列していた。彼らは、私を見るなり一斉に敬礼し、その目に「救世主だ」という熱烈な希望の色を浮かべた。……そして、私の隣に立つリュウさんを、鋭い警戒の目で射抜く。
「使者殿、そちらの男は?」
「陛下の『お客様』であらせられる、聖女様の護衛……いや、お付きの料理人殿だ! 無礼のないように!」
「料理人……?」
衛兵たちの訝しむ視線を、リュウさんは意にも介さず、ただ「寒いな」とだけ呟いた。
馬車で案内された帝都は、噂に聞いていた「氷の帝国」そのものだった。
建物はすべて、白亜の石や、魔術で凍らせた氷晶でできており、街全体が巨大な芸術品のようだ。だが、その美しさとは裏腹に、街は静まり返っていた。
人々は皆、厚いコートに身を包み、足早に通り過ぎていく。私が想像していたような、他国を威圧する「冷酷非道」な雰囲気は、どこにもない。街全体が、まるで大切な人を失うことを恐れるかのように、静かな「悲しみ」と、深い「不安」に凍りついていた。
(……みんな、氷帝陛下のことを、心から心配してるんだ)
《《運命》》という言葉に縛られ、ただ恐ろしいだけの存在だと思っていた氷帝の、「本当の姿」が少しだけ見えた気がした。
馬車は、帝都の中央にそびえ立つ、巨大な城の前で止まった。氷の結晶そのもののような、壮麗な城。
「……こちらです。陛下は、玉座の間にて……」
使者に導かれ、私たちは、あまりにも静かな城内へと足を踏み入れた。
玉座の間にたどり着いた瞬間、私は息を呑んだ。
広いホールには、百人を超えるであろう魔導士や神官たちが集まり、必死の形相で祈りを捧げ、詠唱を続けていた。だが、その声は、まるで分厚い壁に吸い込まれるかのように、玉座の手前で力を失っている。凄まじい魔力の渦。そして、その中心。
(……あ)
玉座に、一人の男性が、眠るように座っていた。私の左手の小指が、今までにないほど激しく、ズキン、と痛んだ。見たくなくても、見えてしまう。私と彼とを繋ぐ、太く、強固な《運命の赤い糸》が。
彼が、「北の氷帝」。私が逃げてきたはずの、運命の相手。けれど、彼は「氷帝」という威圧的な呼び名とは裏腹に、苦痛に顔を歪ませた、青年と呼んでも差し支えないほどの若い姿をしていた。そして、その体は、玉座ごと、禍々しい「呪いの氷」に覆われていた。
それは、ただの氷ではなかった。黒ずんだ、汚れた氷。まるで生き物のように、ドクン、ドクンと不気味に脈動し、氷帝の生命力そのものを吸い上げているようだった。
帝国の魔導士たちが必死に炎の魔法を当てているが、呪いの氷はびくともしない。それどころか、魔導士たちの魔法すらも「糧」にするかのように、その表面に吸い込んでいく。
「聖女様! どうか、あなたの《浄化》の力で……!」
使者が、懇願するように叫ぶ。
私は、リュウさんと顔を見合わせた。彼は、無言で頷く。
(大丈夫。私は、運命に従いに来たんじゃない。この『辺境の聖域』の聖女として、『往診』に来たんだ)
私は自分の小指の痛みを無視し、意を決して、一歩前に出た。
「聖女の浄化!!」
この宿屋で、幾度となく奇跡を起こしてきた、私の全力の浄化の光。温かく、清浄な光が、まっすぐに呪いの氷へと向かう。けれど。
「……え?」
光は、呪いの氷に触れた瞬間、パァン、と弾かれた。いや、違う。まるで、光が「悲鳴」を上げたかのように、音もなく「喰われた」のだ。私の光が、穢れの糧にされてしまった。
「なっ……!?」
「聖女様の力が、効かない……!?」
「最後の希望が……運命の聖女でも、ダメなのか……!」
魔導士たちが絶望の声を上げ、私を案内してきた使者は、その場に泣き崩れた。私も、自分の力が初めて「完全な敗北」を喫したことに、動揺して立ち尽くす。
「……セレスティア。下がれ」
低い、地を這うような声が、私の耳元で響いた。いつの間にか、リュウさんが私の前に立ち、その呪いの氷を、紅蓮の瞳で睨みつけていた。その瞳は、もはや料理人のものではなかった。故郷を奪われた、「竜」の瞳だった。
「……リュウさん?」
リュウさんの様子が、おかしい。彼は、料理人としての彼ではなく、何か別の……恐ろしく、気高い「何か」の気配を放っていた。その指が、戦闘時でもないのに、カタカタと小さく震えている。怒りか、あるいは……恐怖か。
「……この匂い。この気配。……この、忌まわしい魔瘴……」
私は、ハッとした。彼が負ったという「心の傷」。彼が「竜」の姿に戻れなくなった原因。ライラさんの『音の呪い』を癒した時とは比べ物にならない、本物の「過去」が、今、目の前にある。
「リュウさん、まさか、これ……!」
私の声は、震えていた。リュウさんは、その呪いの氷から目を離さずに、絞り出すように言った。それは、憎しみと、絶望と、そして、微かな「覚悟」が入り混じった声だった。
「……ああ。……間違いない。これは、ただの呪いじゃない。俺の故郷を襲い、同胞を喰らい、俺の竜核を傷つけた……あの時と、まったく同じ『魔瘴』だ」
事態は、私たちが想像していた「往診」などという、生易しいものではなかった。私たちは、辺境の聖域から遠く離れたこの帝都で、リュウさんの「過去」そのものである、強大な敵と対峙していた。




