第12話 氷帝の『呪い』と、聖女の『決断』
「――我が主、氷帝陛下が……! 陛下が、原因不明の『呪い』で、お倒れになりました!」
使者の悲痛な叫びが、静かになった宿屋に響き渡った。私の頭は、ハンマーで殴られたかのように、真っ白になった。氷帝。北の帝国。私が逃げてきたはずの、「運命」そのもの。
忘れていた、左手の小指がズキリと痛む。私にしか見えない《運命の赤い糸》が、まるで使者に引かれるように、北に向かって強く、強く脈打っていた。
パーティーを追放されて、「役立たず」になった私を、もう「運命」は追ってこないはずじゃなかったの?
「……セレスティア?」
私の尋常でない様子に、隣にいたリュウさんが、低い声で私の名を呼んだ。彼が、私の前にそっと立つ。外部の人間から守るかのように。
「……何の用だ。ここは宿屋だぞ。客か?」
リュウさんの紅蓮の瞳が、使者を射抜くように見据える。使者は、リュウさんのただならぬ気迫に一瞬怯んだが、すぐに主君を思う忠誠心が勝ったようだった。
「客ではない! 我々は、聖女セレスティア様を、帝国にお迎えに来たのだ! 陛下をお救いできるのは、陛下と《運命の糸》で結ばれた聖女様、あなたしかいないと、国の予言がそう示した! どうか、運命に従い、我らと共に……!」
「……!」
《運命》という言葉。それを、リュウさんの前で聞かれてしまった。リュウさんが、私を振り返る。その瞳に、驚きと、私が今まで見たことのない複雑な色が浮かんでいた。私が「氷帝」という名に怯え、そして今、「運命」という言葉に縛られていることを、彼は瞬時に理解したようだった。
「うるせええええ!!」
張り詰めた空気を破ったのは、地下から響いてくる、ガノスさんの怒鳴り声だった。
「客じゃねえなら、なおさら宿屋で騒ぐんじゃねえ! こっちは今、源泉の調整で忙しいんだ!」
ドカドカと足音を立てて、ガノスさんが姿を現した。その手には、まだ配管磨き用の工具が握られている。
「大体なんだ、『運命』だぁ? そんなもんで、ここの女主人を連れて行こうってのか、ああん?」
「なっ、無礼な! 我々は帝国の……!」
「帝国だろうが何だろうが、関係ねえ!」
ガノスさんは、私と使者を交互に見ると、ふん、と鼻を鳴らした。
「聖女様よぉ。こいつは、何て言った? 『陛下が呪いで倒れた』、そう言ったな?」
「……はい」
「なら、話は簡単じゃねえか」
ガノスさんは、工具で肩を叩きながら、当たり前のように言った。
「呪いだろうが、病だろうが、傷だろうが、ここに助けを求めに来たんなら、そいつは『客』だ。……違うか?」
「……あ」
ガノスさんの言葉に、私はハッとした。そうだ。私は、運命から「逃げる」ために、ここにいるんじゃない。私は、この「辺境の聖域」で、助けを求める人を癒すために、ここにいるんだ。ヴォルグさんも、エルフさんも、ライラさんも、みんなそうだった。北の氷帝だって、もし本当に呪いで苦しんでいるのなら……。
(……彼は、私にとって『運命の相手』なんかじゃない……彼は、今、助けを必要としている、この宿屋の、ただの『お客様』だ)
そう思った瞬間、私の小指でズキズキと痛んでいた「赤い糸」の脈動が、すうっと静まった。恐怖は、もうない。
「……リュウさん」
私は、私を庇うように立っていたリュウさんの隣に、一歩前に出た。そして、使者に向き直る。
「私、行きます」
使者が「おお!」と顔を輝かせる。リュウさんが、静かに私を見た。
「……『運命』として、か?」
私は、その紅蓮の瞳をまっすぐに見つめ返して、首を振った。
「いいえ。私は、この『辺境の聖域』の聖女、セレスティアです」
私は、にこり、と笑った。それは、追放された聖女の怯えた笑顔ではなく、この宿の「女主人」としての笑顔だった。
「苦しんでいるお客様がいると聞きました。……『往診』に、伺います」
私の答えに、リュウさんが、ほんの少しだけ、口元を緩めた気がした。
「……わかった」
彼は、厨房の棚から、いつも使っている愛用の包丁セットと、静寂の笛を手際よく布に包み始めた。
「え? リュウさんも?」
「当たり前だ」
リュウさんは、私の菜園で採れた「聖女ハーブ」を何種類か掴むと、荷袋に詰める。
「呪いで倒れた客だ。まともな飯も食えていないんだろう。聖域の『料理番』として、最高の回復食を食わせに行く」
「……!」
「ガノス、留守を頼む。ヴォルグあたりに連絡して、宿の警備も強化しておけ」
「へいへい。わーってるよ」
ガノスさんは、やれやれ、と頭を掻いた。
「使者殿! 『辺境の聖域』、聖女セレスティアと、料理人リュウ。ただいまより、往診に参ります。……氷帝陛下の元へ、ご案内を!」
私が帝国から来た使者に向き直ると、彼はまだ状況が飲み込めず、呆然と私たちを見ていた。




