第10話 静寂の笛と、歌声の『再生』
ハルピュイアのライラさんが宿に来てから、三日が過ぎた。宿は、彼女のために、できる限りの「静寂」を保っていた。
ガノスさんたちドワーフは、騒音が出る作業を一時中断し、今は宿の地下で「飲む温泉」の配管磨きに専念してくれている。私もリュウさんも、厨房での作業音や、廊下を歩く足音にまで、細心の注意を払った。
「……ライラ様、いかがですか?」
私が、リュウさん特製の「音のしない食事」を天上の間に運ぶと、ライラさんは窓辺の椅子に座り、静かに外を眺めていた。彼女の『音の呪い』は、この宿の黄金色の湯と、私の《浄化》の力で、少しずつ癒されてはいるようだった。少なくとも、私たちが立てる生活音に、前ほど怯えることはなくなった。
「……ここ、は、とても、静か」
彼女は、か細い声でそう呟いた。しかし、その表情はまだ晴れない。
「でも、怖い……。わたしの、羽の音。わたしの、声……」
彼女は、自分自身が発する「音」を、いまだに恐れていた。呪いが解けなければ、彼女は二度と歌うことも、空を飛ぶこともできない。
「……聖女様。ライラ様の呪いは、王都の『混沌の音』がこびりついたもの」
一緒の部屋に泊まり込み、彼女の世話を焼いていたエルフの行商人さんが、静かに言った。
「その『穢れた音』を完全に祓うには、この世のどんな音とも混じらない、『完全な静寂』の中で、呪いそのものを『餓死』させるしかありません」
「完全な、静寂……」
それは、私やガノスさんが作る「物理的な静けさ」とは、明らかに違うものだ。
◇
その夜。食堂で、私とリュウさん、エルフさんは、小さなランプを囲んでいた。ライラさんは、天上の間で眠っている。
「……『完全な静寂』、ですか。リュウさん、何か方法は……」
「……」
リュウさんは、何も言わずに、厨房の棚から、あの日エルフさんにもらった「銀色の笛」を取り出した。
「……エルフ。お前がこれを俺に渡したのは、こうなることがわかっていたからか」
「さあ、どうでしょう」
エルフさんは、意味ありげに微笑むだけだ。リュウさんは、その『静寂の笛』を、じっと見つめている。
「……セレスティア。ガノスを起こしてこい。念のため、宿の周りに誰も近づけないよう、結界を張るように言え」
「え? ……は、はい!」
リュウさんの紅蓮の瞳が、いつになく真剣な色をしていた。私は慌てて地下のドワーフたちを呼びに行き、エルフさんも「万が一にも邪魔が入らぬよう」と、宿の入り口にエルフ族の魔術的な「結界」を張ってくれた。
準備が整った頃、リュウさんは、銀色の笛だけを持って、静かに天上の間へと上がっていった。ライラさんは、物音に気づいて目を覚まし、リュウさんの持つ「笛」を見て、怯えたように体をこわばらせた。
「……いや! おと、ききたくない……!」
「……これは、鳴らない」
リュウさんは、それだけ短く告げた。ライラさんが息を呑む。リュウさんは、部屋の中心に立つと、その笛をゆっくりと口に当てた。
そして、息を吹き込む。
音が、しない。音楽が奏でられるのではない。リュウさんが笛を吹いた瞬間、まるで水にインクを落としたかのように、「完全な静寂」が、部屋の隅々へと広がっていった。
(……!)
階下の食堂で待っていた私にも、その異常なまでの「無音」の気配が伝わってきた。風の音、木々の葉が擦れる音、ガノスさんのいびき、私の心臓の音。宿屋から、あらゆる「音」が、一時的に奪い去られた。
▶◇ライラ
笛が、吹かれた。音は、しなかった。それどころか、ずっと私の頭の中で鳴り響いていた「騒音の残響」が、消えた。
ガチガチと鳴っていた自分の歯の震えも、聞こえない。世界から、音が消えた。そこは、生まれて初めて体験する、温かく、優しい、「無」の世界だった。
私にこびりついていた『音の呪い』が、拠り所を失って、バラバラと剥がれ落ちていく。 (……ああ、静か……)私は、何年かぶりに、心の底から安堵し、その「完全な静寂」の中で、意識を手放した。
▶◇セレスティア
リュウさんが笛を吹くのをやめると、世界に「音」が戻ってきた。天上の間で、ライラさんが、赤ん坊のように健やかな寝息を立てていた。その顔には、もう苦痛の色はない。
「……『静寂の笛』は、音を奏でるのではなく、『音を喰らう』魔道具なのです」
階下で待っていたエルフさんが、満足そうに頷いた。
「料理人殿。あなた様の、竜の炎とは正反対の……静かなる『癒し』、確かに拝見いたしました」
「……うるさい。腹が減っただろう。何か、温かいものでも食って、今日はもう寝ろ」
リュウさんはぶっきらぼうにそう言うと、私たちに背を向けて、厨房へと入っていった。
翌朝。私たちが目を覚ますと、宿屋の外から、信じられないほど美しく、澄んだ「歌声」が聞こえてきた。慌てて外に飛び出すと、そこには、宿屋の屋根の上で、朝日を浴びながら、嬉しそうに歌うライラさんの姿があった。
呪いが解けた彼女は、美しい翼を取り戻し、空を飛ぶ喜びを、その歌声で表現していた。
「セレスティア様! リュウ様! ガノス様! ありがとう!」
歌い終えた彼女は、空から私たちに手を振った。
「このご恩は、一生忘れません! この『辺境の聖域』に、常に穏やかな『風』が吹くよう、私が空からお守りいたします!」
そう言うと、ライラさんは、故郷の森へと、元気に飛び立っていった。
「……ふふ」
「……ふん」
「……なんちゅう声だ。ガラスが割れるかと思ったわい」
私と、リュウさんと、ガノスさんは、その美しい歌声の余韻に包まれながら、また新しい一日が始まったことを感じていた。




