第1話:『死因:土下座。目覚めれば世界樹の根元にて』
今ニートです。
感想、コメントくれると就活頑張れます。
1. 【覚醒:圧倒的な「緑」の匂い】
消毒液の匂いではない。
最初に鼻孔を突いたのは、濃厚で瑞々しい、圧倒的な「植物」の香りだった。
濡れた土、樹液の甘さ、そしてどこかスパイシーな草花の香りが混然一体となって肺を満たす。
「……ッ、はぁ!」
私は弾かれたように顔を上げた。
最後に見ていたのは、謝罪先の客室のフローリングだったはずだ。だが今、私の目に映っているのは、視界に収まりきらないほどの「巨木」だった。
雲を突き抜けるほど高い幹。空を覆い尽くす緑の天蓋。
風が吹くたび、数万の葉がざわめき、まるで巨大な生物の寝息のような音が響く。
「……なんだ、ここは」
呆然と立ち尽くす私の視界に、巨木の根元に抱かれるようにして建つ、荘厳な石造りの建物が入ってきた。
看板には見たこともない幾何学的な文字が刻まれている。
本来なら読めるはずがない。だが、その文字列を見た瞬間、脳内で勝手に意味へと変換された。
『グランドホテル・ユグドラシル』
(……読める。まるで最初から知っていた言語のように、意味が頭に滑り込んでくる)
状況は不明だ。だが、過労死寸前だった私の脳は、奇妙なほど冷静に現状を分析していた。
ここは日本ではない。この巨大な樹――おそらく『世界樹』と呼ばれるような存在――は、あらゆる土地からの魔力が交わる特異点なのだろう。
交通の要所に宿場町ができるように、この巨木の麓に、異種族たちが羽を休めるための「宿」が発展したのは必然の理屈だ。
美しい建物だ。だが、私の「職業病」が異常を感知した。
エントランスのマットが3ミリずれている。
ドアマンの立っている姿勢が、重心が片足に乗っていて美しくない。
そして何より――
「……ロビーから、怒号が聞こえる」
一般人なら恐怖で逃げ出すだろう。
だが、クレーム対応のエキスパートである私の足は、吸い寄せられるように自動ドアをくぐっていた。
美しい建物だ。だが、近づくにつれて私の眉間にシワが寄った。
「だ・か・ら! 書けないって言ってるだろう!?」
ロビーの中央、フロントデスクでトラブルが起きていた。
怒鳴っているのは、両腕が巨大な翼になっている鳥人族――ハーピーの女性客だ。
対して、カウンターの中で涙目になっているのは、金髪のエルフの少女。
「も、申し訳ありません! ですが規則で、宿泊台帳にお名前を書いていただかないと、お部屋の鍵(魔力キー)が有効化されないんです……!」
「アタシのこの翼の指で、どうやってその細いペンを持てっていうんだい! 嫌がらせか!」
ハーピーが翼をバタつかせ、周囲に突風が巻く。
(なるほど……マニュアル重視の新人スタッフと、身体的特徴が合わないお客様の衝突か)
私はスッと息を吸い、争いの渦中へと歩み寄った。
その時、私の視界に半透明のウィンドウがポップアップした。
『対象:ハーピー(一般客)』
『不満度:85%(上昇中)』
『要望:自尊心を傷つけられず、スムーズに入室したい』
(……なんだこれは? ステータス画面? まあいい、今はトラブル処理が先だ)
私はエルフの少女とハーピーの間に、割って入るのではなく、エルフの横に一歩引いて立った。あくまで「黒子」の立ち位置だ。
「失礼いたします。少しよろしいでしょうか」
「えっ? あ、はい……あなたは?」
「通りすがりの者です。スタッフさん、一つ確認させてください」
私は声を荒げず、事務的に、かつ迅速にエルフの少女に問いかけた。
「その宿泊台帳へのサインですが、『文字を書くこと』自体が必須なのですか? それとも、『本人とわかるもの』で良ければ代替可能なのですか?」
ここが重要だ。
私はこのホテルの業務を知らない。もし「名前という文字」に意味があるなら、代筆は効かない。だが、もし「本人確認」が目的ならば――。
エルフの少女は目をぱちくりとさせた。
「え? あ、後者です! この専用インクに触れて紙に痕跡を残せば、ご本人確認として魔石が反応します」
「なるほど。ならば、文字である必要はありませんね?」
「は、はい。理屈の上では……」
言質は取れた。
私は懐から、前世で愛用していた携帯用の大型朱肉を取り出し、カウンターに置いた。そして、ハーピーの女性に向き直り、恭しく一礼した。
「お客様、不手際により大変不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。当ホテルでは、美しい翼をお持ちのお客様に対し、ペンを強要するような無粋な真似はいたしません」
「あ、あん? じゃあどうするんだい?」
「こちらをご覧ください。文字の代わりに、お客様の翼の先端をこのインクに浸し、台帳に『翼印』を押していただく――それでチェックイン完了とさせていただきます」
私はエルフの少女に目配せをした。「それでいいですね?」と。
彼女はハッとして、コクコクと頷いた。
「は、はい! 翼の跡であれば、魔力認証も問題なく通ります!」
「……へぇ。拇印ならぬ、翼印ってわけかい」
ハーピーの女性の表情から、険しい色が消えた。
「なんだ、そんな簡単なことでよかったのかい。……あんた、話が早いね」
彼女は翼の先をインクにつけ、ポンと台帳に押し付けた。
カチリ、と音がして、カウンターの上の魔石キーが青く光る。
「認証完了です。……ようこそ、グランドホテル・ユグドラシルへ」
ハーピーの女性が上機嫌で去っていくのを見届け、私は小さく息を吐いた。
緊張が解けたのか、少女がその場にへたり込む。
「あ、ありがとうございました……! 私、頭が真っ白になっちゃって……」
「気にするな。マニュアルは大事だが、お客様の身体の形は種族ごとに違う。次からは『どうすれば可能か』を先に考えるといい」
そう言い残して立ち去ろうとした私の背中に、低い声がかかった。
「……ほう。魔法の理を知らぬ人族が、ホテルの理を解くとはな」
振り返ると、ロビーの吹き抜けの2階から、片眼をかけた老紳士が見下ろしていた。
縦に割れた瞳。あふれ出る威圧感。ただ者ではない。
「君、魔法は使えないね?」
「ええ、さっぱり」
「だが君は、誰よりも早くあの客の『不便の本質』を見抜いた。……魔法よりも稀有な才能だ」
老紳士は、階段をゆっくりと下りてきた。
「私はこのホテルの総支配人。……どうだろう、君のような人材を求めていた。ウチで働いてみる気はないかね?」
「……条件によります」
「衣食住完備。給与は金貨5枚。そして何より――」
支配人はニヤリと笑った。
「君のその『お節介焼き』のスキルを、存分に発揮できる厄介な客が、山ほど待っているよ」
私はネクタイを締め直した。
前世では過労死した。だが、目の前で困っている客を見過ごして生きるくらいなら、死ぬまで働く方がマシだ。
「採用していただきましょう。ただし、まずはあのエントランスのマットを3ミリ直してからです」
こうして、元社畜コンシェルジュの異世界ホテル業務が幕を開けたのである。




