第五章:ナイトフライト(その二)
早くに空港に到着した私たちは、今できるだけの手続きを先に済ませ、空港内のラウンジで過ごしていた。
私にとって、飛行機での移動はこれが初めてで、妙に浮つく気持ちと、なんとなくの不安が心のうちに混在している。
彼女も同じだったらしいが、彼女にとっての不安は目の奥の痛みらしく、気圧差が副鼻腔炎を誘発するとかなんとかで、とてつもなく痛いらしい。
なる時とならない時があるらしく、大学受験の行きの飛行機でそれが起き、二日目の試験まで違和感が残っていたそうだ。
それを聞いた私も怖気付く思いだったのだが、私の反応を見て、”しまった”と、彼女に話したことを後悔させてしまわぬよう、努めて、元々あまり動かない表情筋をさらに強張らせた。
まあ、それも虚しく、彼女は話した後に自分で感づいて後悔してしまっていたのだが、二人の旅行に対する高揚感に比べると、それらは些細なことだった。
ゆい「師匠も来られればよかったのにね」
まさみ「ええ、そうですね」
ゆい「まあ、協会の仕事があるなら仕方ないよね」
まさみ「ああ、あれは嘘ですよ」
ゆい「嘘?」
まさみ「ええ。確かに、毎年この頃に協会で処理しておかなければならない事務手続きがあるにはあるのですが、会長か副会長が大半を請け負ってくれていますし、師匠でなくとも別に手伝いが来ますから。来ようと思えば来られますよ」
ゆい「うわ、じゃあ気を利かせてくれたんだ」
まさみ「ええ」
彼女はカップに口をつけながら、遠い目で斜陽と反対の、自宅がある方向を眺めた。
まさみ「本の持ち込みって、大丈夫ですよね?」
ゆい「うん、基本的に危険性のあるもの以外は持ち込めるよ」
まさみ「そうですか、よかったです。”蟹工船”はつい先日読み終わりましたので」
ゆい「・・・」
まさみ「あの、ジョークですが」
ゆい「あ、あぁ、よかった。いや、ほら、ね?」
彼女には、私がどう見えているのだろうか。
そういう疑問はさておき、私は持参した”こころ”を鞄から取り出して、彼女に見せる。
まさみ「持ち込みは、これですよ」
ゆい「”こころ”?」
まさみ「読んだことありますか?」
ゆい「あるよ」
まさみ「読書家ですね。私も二度目です」
ゆい「まーちゃんも読書家じゃん」
まさみ「博覧”弱”記なのが、残念なところです」
彼女は眉の端を少しだけ下げながら笑う。
ゆい「抒情的な作品だよね」
まさみ「そうですね。たまには自国の文学に触れるのもありかなと」
ゆい「いいね。母語で描かれた作品は翻訳のフィルターがないから、また変わった読書体験ができるかもね」
まさみ「ええ」
ゆい「私は、映画でも見ようかと思ってるけど、一応持ってきてるよ」
彼女が取り出したのは、”アイスランド地方史”と銘打たれた新書だった。
付箋が針葉樹の森のように本上部の短辺から顔を覗かせている。
まさみ「旅行でも勉強ですか、すごいですね」
私はまたも感心される思いで、そう呟いた。
ゆい「いやいや、むしろ私にとってはこれが醍醐味なんだよ。私は、その土地の歴史や文化をある程度、頭に詰めておいて、その上で、生活に根付いた構造や自然、景色に触れることで、そこから表象や記憶というものを感じたいんだよね」
あ、観光に一家言あるわけじゃないからね、と彼女は勢いづいた語気を最後、弱めるようにして私に力説した。
ゆい「でも、まーちゃんが見たいのが、”オーロラ”っていうのは、また良かったね」
まさみ「どうしてですか?」
ゆい「ほら、有名観光地巡りがしたい!とかだったら、私の嗜好とちょっとずれる部分があって、スケジュールを立てるのが難しかったかもしれないけど、オーロラならむしろ、中心地より地方や郊外の方がよく見えると思うから」
まさみ「確かにそうですね」
ゆい「私も興味あるけどね、オーロラ」
オーロラに特別な興味がない人は、それこそ、もうその地に住んでいて、それが生活の一部と化している人々ぐらいのものだろう。
ゆい「そろそろ行こっか」
まさみ「そうですね」
飲み終えたカップをカウンターに返し、私たちは搭乗口に向かった。
手荷物検査の際、昔、国語の授業か何かで読んだ、評論文の、パスポートなどの身分証で外部に保証されることなく、自分が何者であるかを証明できうるか、だったか、そういう問いを思い出した。
私にはできそうもないが、彼女にならできるのでは、と揺れる後ろ髪を見ながらなんとなく思うのだった。
・・・・・・
・・・
・・・
まさみ「窓側、譲っていただいてありがとうございます」
ゆい「うん、いいよ。私は初めてじゃないしね。なんでも聞いてくれたまえ」
まさみ「ご教授願います。では早速、機内食というのは、何か決まりだったりルールだったりがあるんですか?」
私はシートベルトを絞めながらそう尋ねる。
ゆい「すみません、国内線しか乗ったことがありません」
まさみ「では、共に旅の恥をかき捨てるしかありませんね」
ゆい「二人なら、それもいいかもね」
まさみ「よくないですよ」
そう言って私は座席備え付けのパンフレットを手に取った。
パンフレットは機能性多数の作りの良さで、簡易的なカレンダーに、スケジュール表、メモの後に、機内ルールが記載されていた。
てっきり私は、コース料理のように前菜から始まって・・・、というのを想像していたのだが、どうやらプレートタイプの軽食で提供されるらしく、テーブルマナーもないらしい。
空の上で揺れて卓袱台返しにならないかが心配だった。流石に田舎者すぎるだろうか。
彼女はパンフレットに目を通した後、件の新書を開いていた。そういえば、空の上は酔ったりもしないのだろうか。
しばらくして、機長による機内アナウンスがあり、機体は離陸体制に入った。
妙に緊張した私は、カーディガンの無い襟を正しつつ、座席に座り直す。
ジェットエンジンの轟音と共に滑走路を駆け抜け、機体と期待と少しの不安が夜空に吊るされた銀紙の星を目指すかの如く宙に浮かび上がるのに合わせ、私はロケットに搭乗する宇宙飛行士のように、目をつむってお腹に力を入れ、体をアルマジロのように縮こまらせて相対的に増幅するはずの重力加速度に備えたのだったが、どんなに時間が経っても最初に少しだけかかった負荷が大きくなることはなく、おそるおそる目を開き辺りを見回すと、数日前に過ぎ去った満月のように目を丸くした彼女と目が合った。
ゆい「ど、どうしたの」
まさみ「・・・エコノミー症候群なるものがあると聞きましたので、すこし体を動かそうと」
ゆい「ま、まだ早いよ」
まさみ「・・・」
フライトは乗り継ぎも合わせて、丸一日以上かかるらしく、到着は明後日の朝ごろになるらしかった。
窓の外、眼下には人々の営みを示すように様々な色の光が連なって広がり、それは光彩陸離に燐光が流れる銀河の一角のように見え、私は桔梗色の空を駆ける列車の、青い天鵞絨の座席に腰掛ける少年のような気分でいた。




