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After Story  作者: NS-1
6/13

第四章:やっぱり難しい

ガチャ、っと鍵を回す音に続いて、次第に速くなるエンジン音が朝靄の中をこだまする。

彼女は運転席に座ってまずワイパーを動かし、フロントガラスに結露した水滴の膜を拭き取った。

もうしばらくすると、ぬるま湯が必要になる季節だ。

近くに見える田畑も、実りの季節の金色を通り越し、朽葉色に変わった。

栄枯盛衰。この栄華とは程遠い片田舎でもそれは同じで、まさに世の習いといったところだった。


まさみ「すみません、送ってもらって」

ゆい「ううん、いいよ。今日は特別寒いしね」

まさみ「ありがとうございます、助かります」

道路には粉雪が薄く積もっていて、轍から覗くアスファルトの黒と対を成している。


ゆい「暖房つけよっか」

まさみ「そうですね」

彼女は、ダッシュボード中央部の乱立するスイッチの摩天楼に左手を伸ばし、流れるようにいくつかのボタンを押した後、エアコンの温度を調整するつまみを赤と青の境界線の少し赤寄りまで回した。

ゆい「寒かったら、自由に強くしてくれていいから」


調子の悪そうなカーステレオが車内に小さく響いている。

AM放送のニュースによると、今朝は氷点下近いらしい。

この中をバイクに乗って走っていくのは、さすがに応えそうだった。


シートベルトを絞めると、彼女は座席を調整し、ルームミラーの角度を変えて、とお手本のような手順を踏襲し、私の方をちらっと確認してから、車を発進させる。

長い腕がハンドルを小刻みに回転させ、車は敷地から公道へとゆっくり進んでいく。

助手席からの景色はもう見慣れたものだったが、妙に新鮮に思えるのは、運転席に座っているのが師匠ではなく彼女だったからだろう。

慣れた道を走るこの車は、主に買い出しの時に使われている師匠の車だった。

今は師匠と彼女が二人で使っている。

彼女は買い出し時以外にも、町に用事がある時にはバイクではなく車で出かけることが多かった。

こっちの方が楽らしい。

まあ、それはそうだろう。


運転するその横顔は、朝早くということもあり、やはり少し青白かった。


私は車の運転免許を持っていなかった。

高校を卒業してしばらく、費用が貯まった頃に一度、教習所へ通ったこともあったが、公道に出る前にやめてしまった。

シフトレバーやペダル、ハンドルの操作に加え、確認作業など、いろいろなことを順番通りに、あるいは同時にやりながら各課題をこなしていくのは、私には少し難しかったらしい。それはおそらく、AT限定の免許であっても同じだっただろう。

なかなかハンコもたまらず、あるとき教官に怒られたのをきっかけにやめてしまった。

払ったお金が割合計算でいくらか戻ってきたが、それをどうしたのかはもう覚えていないし、当時の自分にとっても、どうでもいいことだった。


ゆい「グローブボックスにカイロあるから、持っていってね。今日寒いから、試験前とかに、手、悴んだりするといけないから」

まさみ「ありがとうございます」

グローブボックスを開くと、慣性で宙に止まった様々な物体がばさっと、時間差でボックス内に落ちた。

カイロの他に、本やペンなどの小物もいくつか入っていた。


まさみ「”人生の短さについて”・・・。これ、ここにあったんですね」

ゆい「あ、うん。買い出しの時に読んでて。もしかして探してた?」

まさみ「あ、いえ。本棚が空いてたので」

元々これは共同の本棚に置いてあった本で、彼女の買った本だった。

埋まっていたはずの最上段に隙間があったため少し気になっていたが、何の本がなくなったのかは覚えていなかった。

まだ読んだことはない。

興味はあったが、今はまだアリストテレスで止まっている。


彼女は、”哲学に興味あるからって、ソクラテスから原著で順番に、っていうのはまーちゃんらしいね”と笑っていた。

共同の本棚には、彼女の持っていた哲学書もそれなりには入っていたが、内容は古代の西洋哲学から新しいのはおそらくポスト構造主義まで、主義主張によらずバラバラだった。

一度、ニーチェの”ツァラトゥストラはかく語りき”を手に取ったが、何が書かれているのかはまるでわからず、本屋で数3Cの参考書を興味本位で開いた時と同じ感想しか浮かばなかった。

哲学書と数学書で同じ感想が浮かぶはずがないので、これは誤りらしい。


まさみ「読み終わりました?」

ゆい「うん、”人生の短さについて”だけはね。他のも一緒に収録されてるけど、そっちはまだ」

彼女が読み終わっているのなら借りるつもりでそう問いかけた。

古代ギリシャやローマの哲学書は、それこそ哲学の初期に位置するということもあり、浅学非才な私でも幾らかは理解できるのが気に入っていた。


まさみ「どうでした?」

ゆい「なかなかストア派らしい厳しい物言いだったよ。でも、いい本だったかな。時間の使い方を問い直す良いきっかけになると思う。まあ、いわゆる”神様が生きて”、もっと身近にいた時代の話だから、有意義とされる時間の使い方は、やっぱり哲学的で、信仰に根ざしたものが多かったけど。あ、有意義な時間の使い方の話で、エピクロスの名前をあげたのも良かったかな。ほら、ストア派とエピクロス派って、論争もあったらしいしさ。そういう派閥とか関係なしに耳を傾けるのって、なんというか・・・誠実じゃん?」

まさみ「次、借りてもいいですか?」

ゆい「うん、じゃあもう持っていってもいいよ。続きはまたいつか読むから」

まさみ「ありがとうございます」

私はその本を、筆記用具やテキストが詰まったバッグの内ポケットにしまった。


ゆい「いつか話したと思うんだけど、私の哲学の行き着く先。”ただ生きる”っていうやつ。前はそう思ってたんだけど、今はさ、行き着いた先の哲学は、等しくいいものだと思うんだよね」

まさみ「たとえば、どういうのですか?」

ゆい「例えば・・・、行動原理や存在、義しさや信仰とかを形而上の存在に求める人もいれば、拠り所を無くした後も、自分で意味をつけながら前に進む人もいる。さっき言った”ただ生きる”っていうのは”無為自然”なあり方の一つだったりするよね。全ては心の揺れ動く様だっていう人もいれば、ただ物があるだけって言う人もいたりするし・・・、今だったら、最後みたいな考えをする人が多いかな?」

“全部いいよね”と、彼女はこちらを一瞥して微笑んだ。


私はどうだろう。まだよくわかっていない気がする。

あの時、彼女に言ったことを思い返せば、”無為自然”でありたい、というのが自分の思いに一番近いのかもしれない。

この世界は、何か大きな流れのようなもので、その中を、流されるのではなく流れていきたい。

ただ、その考えの始まりは、何に対しても突出することのない自分に対する諦観のような、あるいは処世術のような、そういうものであった気もする。

そういう意味で辿り着いたその考えは、正しいのか、正しくないのか。

あるいは、私の考えもまだ、流れている途中なのかもしれない。


まさみ「師匠は、自分で意味をつけながら前に進む人に近いかもしれませんね」

ゆい「そうだね、すごく強い人だし。可愛いところもあるけどね」

まさみ「そうですね」

彼女が家に来てからというもの、師匠は今までにない色々な一面を見せるようになった。

まるで月と地球で回っていたところに、もう一つの星がやって来て、自転と公転にズレが生じ、月の裏側が見えるようになったみたいな、そんな感じだ。

不思議というほどでもなく、もちろん悪い気もしなかった。

今はそんな三重連星で安定している。


・・・車は山間部を通り抜け、街へと下っていく。

試験会場はまだ遠く、比較的大きな行政区画まで出向かなければならない。

ゆうに数時間はかかるところを送ってくれる彼女にもう一度お礼を言うと、さっきも聞いたよ、とやはり柔らかく笑っていた。


・・・・・・

・・・

・・・


ゆい「じゃあ、また、終わる頃くらいに迎えに来るから」

まさみ「帰りぐらい電車とバスでも大丈夫ですよ?」

ゆい「ううん、私もちょっと用事あるし。お昼も食べて帰ろ」

まさみ「わかりました。師匠には私から連絡しておきますね」

ゆい「うん、じゃあ、また」

まさみ「はい、では」

話が終わると、ウィンドウが閉まり、車はそのまま敷地を出て左に曲がっていった。

市民体育館の入り口には、”地学検定 天文学”の立て看板が見える。

体育館前の駐車場に車はあまりなく、入って行く人もあまり見当たらなかった。


受験票を受付に持っていくと、中へ入るように促される。

体育館内には、学校で使っていたような一組の机と椅子が複数、といってもそれほど多くはなくまばらに並べられており、各番号が割り振られていた。


自分の受験番号と対応するその席は、端の方に位置していて結構寒い。

彼女からもらったカイロをお腹に雑に貼り、その上を手のひらで覆った。

それが少し心強かった。


程なくして試験監督が現れ、受験案内を始めるも、人は数えられるほどしか見当たらず、どうやらこの試験はそれほど人気があるようでもないみたいだった。

試験用紙が配られ、開始の合図を待つ。

うっすら透ける文字を眺めながら、考えていたのは、やはり彼女のことだった。


・・・・・・

・・・

・・・


できたか、と言われると、まあまあ、といったところだろうか。

天文学史はあまりわからなかった。

あと、頭の中に図示して考えるタイプのも微妙だっただろうか。

他は計算も含めて、意外と行けた気がする。

試験中ずっと、彼女の言った

“解ける問題を解くだけだよ”

というアドバイスが頭を回っていて、あまり集中はできてないみたいだった。


最後に受けた試験が高校時代に取得した資格の試験だった私は、試験感というものを失っていたみたいで、なんともふわふわした感じになってしまった。

まあ、別にいい。落ちたらまた受ければいいのだ。


会場を後にする他の受験者につられて、ふらふらと体育館を出ると、彼女の車はもう停まっていた。

見慣れた、白の軽自動車。

走行距離はかなりいっているはずだが、まだまだ現役だ。


彼女は近くの花壇に腰掛け、レイリー散乱で青く染まる空に向けハーモニカを吹いていた。

和音の中に宝石のようにリフを散りばめながら、牧歌的な曲を奏でている。

見上げた海にはところどころに白い方舟が、何か大切なものを乗せ、西から東へと、地上のことはどこ吹く風で流れていくようだった。

彼女の演奏は、風景に溶け込んでいて、ちらっと目をくれられることぐらいはあれど、人の流れを遮るようなことはなかった。


頭にかぶっている大きなボンボンがついたライトグレーのニット帽。

あれは私のお気に入りだった。

出会う前から元々持っていたもののようで、ほつれも多かったらしい。

どうやって直したのかは、永遠の謎である。

少し目線を下に向けると、厚めのカーディガンの上に、さらに薄手のカーディガンが重ねられていて、私はこういう着こなしをする人を彼女以外に知らない。

曰く、グランジファッションとのことだったが、カーディガンに穴やパッチワーク、ほつれはなく、人目は気にしているようだった。

相変わらず長い足には、ジーンズに栗皮色のスニーカーが合わせられていて、これもグランジ意識らしいが、どちらも古くはなさそうだった。


ゆい「あ、まーちゃん。おかえり・・・ってのはちょっと違うか。居たなら声かけてよ」

まさみ「ええ、ただいまです」

ゆい「じゃあ、行こっか」

花壇に咲いたプリムラのような、少しはにかんだ笑顔を見せてから車に向かう彼女に続いて、私も助手席に乗り込み、シートベルトを絞める。


ゆい「いつもの商店街でいい?」

まさみ「はい、今日はあのコーヒーのところにしてみますか?」

ゆい「そうだね」

彼女は、どうだった、とは聞かないだろうから、私から切り出すことにした。


まさみ「出来は、まあまあというところでした」

ゆい「そっか、まあ私の経験からして、そういう時の方が”桜咲く”こと多いと思うよ」

まさみ「そうですか。では、春を寝て待つことにしましょうか」

ゆい「うん、ゆっくりしたらいいと思うよ」

信号待ちで、彼女は後部座席にある自分のバッグに手を伸ばす。

隣には、なぜかギターのハードケースが立てかけられており、シートベルトも絞められていた。

中に入っているのは、おそらく彼女と一緒に我が家にやってきた、二本目のアコースティックギターだろう。

控えめに木目の透けるローズウッドのボディとネックに、黒々と固く詰まったエボニーの指板が貼られている。

丸っこく、少しふくよかな形をしていて、その音は、鈴のような高音はない代わりに、柔らかな木を体現するかのような響きで辺りを包んだ。

少しだけ彼女の声に似ていた。


ゆい「まーちゃん。はい、これ、プレゼント」

ギターケースに気を取られていた私をよそに、彼女は、書店名の印字されたクラフト紙のブックカバーで覆われた本を差し出した。

中を開いてみると、どうやら本格的な天文学の入門書のようで、今まで使っていた参考書に比べ、かなり学樹的に深掘りされた内容が記されているようだった。


ゆい「それ、大学の教養課程で使われる参考書だって。ほら、高校範囲の次にちょうどいいでしょ?次は私も一緒に勉強しようかな」

まさみ「・・・そうですね。では高校範囲は、私が教えますよ」

ゆい「うん、お願い」

いきなりのプレゼントに面食らったものの、私はそれをありがたく受け取った。


しばらくの間、ぱらぱらとめくっては閉じを繰り返す。

微積分や数列の記号もしばしば顔をのぞかせ、宇宙はまだ、広く遠く、果てしなく広がっているようだった。


車はアスファルトで舗装された道を、行く車の流れに沿って進み、それなりに長い時間をかけ、見覚えのある麓の小さな街へと車輪を転がした。

その間私たちは、少し話し、少し黙り、時にラジオから流れるお昼のニュースに耳を傾けながら、歴史には価値のないような何気ない時間を見送った。


助手席に座っていただけの私が言うのも何ではあるが、それほど苦もなく麓の街に着いた私たちは、商店街裏の駐車場に車を停めてから、端の方にある喫茶店兼食堂のような古い風貌の店へと足を踏み入れた。

“珈琲”を売りにしていることが、暖簾と幟旗から見て取れる。

彼女と二人で巡ってきた商店街全店制覇企画もそろそろ終わりに近づいているようだった。


店の中は少し薄暗く、入り口方面の右上隅のテレビがまさにお昼時と言ったような喉に自信のある素人を集めて歌を披露させる番組で、閑散とした店内の間を持たせていた。

私は入り口から見て奥の壁寄りの長椅子に腰掛け、彼女は私に合わせ対面するスピンドル椅子に座った。

できればニュースか何かにチャンネルを変えようとテレビのリモコンを探し、ちょうど手の届かない場所にあることを発見したと同時に、伝票を持った店員が注文を伺いに席へやってきた。


ゆい「まーちゃん、どうする?」

まさみ「私は、Aセットにしましょうか」

ゆい「私はBセットで。ドリンクはホットのコーヒーで、食後にお願いできますか?ミルクと砂糖は大丈夫です」

まさみ「私も同じで、あ、ミルクだけお願いします」

店員が奥へと戻ったのを横目に、机の上に置かれたお冷に口をつける。


ゆい「いい感じのお店だね」

私もそれに同意だった。

純喫茶のような琥珀色の明かりが店内を控えめに演出している一方で、テレビやメニューのラインナップなどは大衆食堂を思わせ、ちょうどいい塩梅で二つが双立しているおかげで、どちらの振る舞いも強制されないところが心を落ち着かせる。

和菓子とコーヒーのような、和洋折衷でも安心する組み合わせだった。

その中で唯一、テレビの音だけが私の心の湖面を波立たせていた。


いつのことだったか、お風呂も済ませて、ソファに並んで適当な歌謡ショーを眺めていた時のこと。

意外と若い歌手やバンドも出演し、街中で幾度となく聞くような流行りの曲も演奏されていただろうか。


その中で、とあるバンドの曲の合間に、

ゆい「今の主流はコード楽器を、例えばギターをクリーンでカッティングにするとか、スッキリさせる感じにして、音数を多くすることで聞き手に飽きさせないように工夫される感じが多くてね。だから1番と2番で編曲、曲調がガラッと変わったり、メロディごと変わることも多いよね。ほら、ショート音楽の時代だから。それが良いのか悪いのかはわかんないけどね。だから若手で、こういうシンプルなバンド編成で出てくるのって珍しいんだよ。元から売れてる人とかは別でね」

と、彼女が呟くように語りかけてきたのを覚えている。


テレビに視線を戻した彼女の薄く開かれた目に、私は月が映るのを見たような気がした。


その後も、彼女は静かにテレビを眺めていた。

私たちより若いと思われるような、ともすると学生であるかもしれない女の人が歌を披露することもあったのがまた印象的だった。

後で気になって調べてみると、文化祭で有名曲の弾き語りのカバーを披露したのがネットで話題になりデビューに至ったらしい。

曲に関してはたまに作詞、作曲の欄に名前を連ねることがあるのみで、制作は主に、事務所お抱えのプロデューサー、コンポーザー等が行なっているようだった。

歌っている人が曲も作っているのだろうというなんとなくの固定観念があったばかりに少しだけ意外だったが、考えてみれば確かに、そう取り沙汰されるほどのことでもなかった。


それから私は、彼女が他人の音楽を聴いているのを見ると、なぜか胸が騒ぐようになってしまった。


私のあれこれ張り巡らされた思索は、注文した料理が届くのをもって中断された。

日替わりのAセットは生姜焼き定食で、量は少し多めだった。

家庭的な味で美味しかったように思うのだが、正直に白状すると味はあまり覚えていない。

それもお店の雰囲気にそぐうようで、良いなと思っているのは不思議だろうか。

過ぎたるは及ばざるが如し。

美味しすぎもせず、かといって・・・といったところが、また居心地良く、また来たいと思えるような、そんな感じだった。


Bセットは焼き魚定食だったようで、すでに平らげられていた彼女の皿には、これまたきれいに身を取り外された魚の骨が横たわっていた。私は、未だかつて、あれほど綺麗に焼き魚を食べられたことがあっただろうか。多分ないと思う。


食事中、私たちは取り立てて何かを話すということはなかった。

まあ、もう沈黙が気になるような間柄でもない。

ただ、テレビの音がそれとなく聞こえるのと、先に食べ終わった彼女がずっとこちらを眺めていたのだけは少しだけ、気まずかった。


少しして、食後に頼んでおいたコーヒーが運ばれてくる。

いつも飲んでいるインスタントの、お湯に溶かすタイプのとは香りからして違うようで、一旦そのまま口をつけてみたい衝動に駆られた。

逡巡しつつ口をつけてみると、香ばしいほろ苦さの中に甘さがあって、でもやっぱり苦かった。

大人しくミルクを注ぐと、飲みやすさとまろやかさが風味と両立し、ミルク自体のこだわりも推察されるようだった。

コーヒーを強調する幟旗や暖簾が構えられているのも納得の出来だ。


彼女はブラックのままのコーヒーに口をつけながら私のそんな所作も眺めていて、さすがに身悶えるような思いだった。


コーヒーと共に体の熱もいくらか和らいだ頃、

ゆい「今度の旅行、どこ行きたいとかある?」

と、彼女に問いかけられた。


まさみ「ゆいさんは、ありますか?」

ゆい「私?まあ、一応」

まさみ「どこですか?」

ゆい「イタリアのポンペイとか、行ってみたいんだよね」

ポンペイ・・・、なんだか愉快な響きだ。

ヘイホーとか、タリホーとか、そんな感じの口に出したくなるような。


ゆい「西暦79年に、ヴェスヴィオ火山の噴火で灰に沈んだローマの植民市だったところでね」

全然そんなことはなかった。

ヘイホーとか、タリホーとかと並べてしまって申し訳ない。

いや、正直に言うと、”ヘイホー”や”タリホー”についてもそんなに知らないのだが・・・。

とりあえず、愉快とはかけ離れた、そういう出来事が過去にあったようだ。


ゆい「歴史的な浴場があってさ。スダトリウムとかラコニクムっていうサウナみたいな蒸し風呂とか、カルダリウム、テピダリウム、フリギダリウムっていう熱さ別の浴室があって、入る順番に部屋が並んでたりとか、面白いんだよ。パラエストラっていう運動場みたいな場所もあってね・・・」

順々に巡っていって、過去のポンペイの浴場体験を追体験してみたいんだよ、と彼女は身振り手振りを交えて嬉しそうに語っていた。


まさみ「その、実は私も・・・」


話はあっちへこっちへと枝を伸ばし、いつの間にか変な方向へと樹冠が膨らみ始めていた。


まさみ「じゃ、じゃあ、ゆいさんは私のどんなところがす、好き、なんですか・・・?」

ゆい「ん〜?頭のてっぺんから、足のつま先まで全部好きだけど、しいて挙げるとしたら”思慮深い”ところかな」

おずおずとした私の問いかけに対し、彼女は調子良く抑揚をつけて、そう答えた。


“思慮深い”ところ・・・。彼女に言われたことを頭の中で反芻する。

自分に対してそんなふうに思ったことは、今までにただの一度もなかった。


ゆい「今はさ、結構、物質主義的で合理的な世の中で、生とか知性とか、善悪とか道徳とか、そういうものに誠実になればなるほど損をするかもしれないけど、まーちゃんはそういうものを大切にするじゃん?そういうとこ、好きだな」

愛とかね、と彼女は付け加えた。


まさみ「私、最終学歴は、高校卒業後自動車学校中退ですが・・・」

そういうんじゃないよっ、と彼女は席を立った。


お会計は彼女が一緒に支払い、本に加えて流石に気後れするようであったが、頑張ったご褒美、と彼女が譲ることはなかった。

彼女と対照的に、ぎこちない足取りで店を後にし、車に乗り込むと、彼女はカップホルダーから背伸びするように顔を出すミックスのキシリトールガムのボトルを開け、黄色のガムを取り出し口に運んだ。

ボトルの色の減りには偏りがあり、赤のガムが多く残されている。


私は赤のガムを一つとって口に放り込んだ。

そうしたのは、そうすることで、その分だけ長く、傍にいられるような気がしたからだった。

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