補講
衛星の軌道面に当たる太陽からの光の角度が常に同じで、数日後に再び同じ地点上空に戻ってくる軌道・・・、どういうことなの。
参考書に書かれている説明から脳に図を上手く描けずにモヤモヤする。
昔からこういうことが苦手だった。想像力が足りないのだ。
はぁ・・・。
小さくため息をつくも、それすら靄に吸収されていく。
右側頭部の髪も、もうボサボサに違いなかった。
ゆい「まーちゃん、ちょっとおいで」
まさみ「はい?」
背後から声がかかる。
彼女は椅子ごと180度回転し、こちらに向いていた。
まさみ「すみません、気が散りましたか?」
ため息や髪をかきあげる仕草の音が差し障ってしまっただろうか。
ゆい「ううん、おいで」
彼女は回転椅子から腰を上げ、床に正座した。
ゆい「ここ座って」
ぽんぽん、と対面する床を優しく叩く。
言われるがままそこに座ると、彼女は姿勢を正した。
ゆい「まーちゃん、今から私の言うとおりにしてね」
まさみ「はい」
ゆい「あぐらか、正座か、どっちか楽な方の座り方で座って」
正座する彼女の前であぐらをかくのは忍びなかったので、私も合わせて正座することにした。
まさか、お説教でもされるのだろうか。
そ、そこまでのことだっけ。
ゆい「じゃあ、次は目つむって」
まさみ「あの、これはどういう・・・」
ゆい「いいからいいから」
まさみ「はい・・・」
ゆっくりと目を瞑ると、彼女が動く音がしたので、少しだけ、反射的に身構えてしまう。
ゆい「じゃあ、こうして、手で円を作って」
彼女は私の両の手を取り、おへその前で、親指同士と、残り四本の指同士を重ねさせ、丸を描くような形に整えた。
ゆい「今から”黙想”やるからね、リラックスしてね」
肩に手を置かれ、服が擦れる感覚がした。
“黙想”、確か、師匠が日課にしていた気がする。
昔やっていた武道の名残だったかで、私は武道を習っていなかったので、一緒にやることはなかった。
厳しい鍛錬とセットで行われるものだと思っていたので、”黙想”だけ行うというのは少し後ろめたいような、そんな感じがあったのだ。
まさみ「黙想ということは、なにか、武道でもやってたんですか?」
ゆい「うん、昔、剣道をね。古流派の道場だったから、ちょっと柔術、体術もあったけど」
まさみ「私、武道はやっていないのですが、大丈夫ですか?」
ゆい「大丈夫大丈夫。心を落ち着かせるためとか、まあ、そんな感じのだから。じゃあ行くよ」
彼女は私の肩に置いていた手を外し、対面に座り直す。
ゆい「ゆっくり呼吸を整えながら、気持ちを落ち着かせてね。最初は難しいかもしれないから順番に行くよ」
まさみ「はい」
ゆい「あ、返事はいいからね。耳だけ傾けて」
まさみ「あ、わかりました」
彼女はしばらくの間黙ったまま、私の呼吸の音がしなくなるのを待っていたようだった。
本当に落ち着いている時の呼吸というのは、深呼吸のような大きなものではなく、必要最小限の浅くゆっくりな呼吸なのだということを初めて意識したような気がした。
ゆい「黙想っていうのは、まあ人によって考え方が違うところもあるんだけど・・・」
そう言って彼女は立ち上がる。しばらくして、からから、と窓の開く音がし、涼しい、というよりは少し冷たい冬の風が部屋に吹き込んだ。
ゆい「寒くて耐えられなかったら、その時は言ってね。”黙想”をする目的っていうのは、まあ、人によっていろいろあって、たとえば、心を無にする、無の境地に達するのを目的とする人もいれば、何か一つのことだけに精神を統一させることを目的とする人もいるし、神秘主義的だったり・・・、黙想の源流で言えば、ウパニシャッド哲学のように梵我一如、宇宙を支配する原理に自分を重ね合わせようとする人もいるね。さあ、まーちゃん、その手で作った丸の中に、無を、あるいは宇宙を、自分の思うままをイメージしてみて」
そう言われて私は、手で作った円の中に宇宙をイメージする。
恒星があって、惑星があって、銀河があって、銀河団があって、それは次第に宇宙の大規模構造となり、最終的には光の及ばない、真っ暗な空間になっていく。
ゆい「いま、頭の中はどうなってるかな?さっき悩んでたこと、今も渦巻いてる?もしそうなら、ゆっくり、頭の中に時間を意識して、次第に、他のことをなくしてそれだけに集中して」
まさみ「でもそれじゃ、忘れちゃうかも・・・」
いつの間にか私は声を出してしまっていた。
精神や心といったものを拘束している鎖のようなものが、外れていっているせいかもしれなかった。
ゆい「大丈夫。忘れてもいいの。本当に大事なことなら、また思い出せるよ」
まさみ「でも試験が・・・」
ゆい「大丈夫・・・」
彼女は、いつのまにか、音もなく私の後ろに回り込んでいて、ゆっくりと私の肩を包むように後ろから抱きしめる。
ゆい「今度の試験がダメでも、また次があるよ。それがダメでもその次。ゆっくりゆっくり、忘却曲線に沿って、歩いていけばいいの。生き急がない生き急がない。それを教えてくれたのは、まーちゃんだよね」
彼女の言葉が、私の心の、最も深いところに沈んでいく。
次第に、頭の中が白く、あるいは黒く、色すらもない無に近い状態へと変わっていき、時間の流れだけが、そこにあった。
ゆい「さあ、次で最後、宇宙の終わりのように、あるいは新しい宇宙の始まる前のように、次第にその流れも無くなっていって、無になっていくように・・・」
・・・・・・
・・・
・・・
ふと気がつき、眼を開けると、目の前に彼女がいた。正座し、手で円を描いたまま眼を閉じている。
鎖骨にかかる少しだけ染められた髪は、柔らかな陽光を受けて亜麻色に透き通り、右目にかかる長めの前髪と共に、吹き抜ける風にさらさらと揺れている。
深く、深く、夢すら見ない日のように、深く眠っているような感覚だった。
部屋を巡る風が、天地自然之図を描くように心のうちを対流し、淀んだものを洗い流していくようだった。
背はしっかりと伸びていた。手の形も、その状態に至る前の形と変わりないまま、体の中心に在る。
不思議な感覚だった。
いつのまにか、彼女の眼も開いていた。
ずっと見ていたはずなのに、その動きがあまりにも自然で、世界のうちに溶け込んでいて、気づかなかった。
窓の外で、北風にさざめく椚の枯れ木が立てる音が、心地いい。
ゆい「どうだった?」
まさみ「・・・言語に絶する、といったところでしょうか」
ゆい「それはよかった」
彼女はすっと、また自然に、立ち上がった。
ゆい「じゃあ、お風呂行くから」
まさみ「あ、私も片付けてから行きます」
ゆい「うん、じゃあ待ってるね」
彼女が部屋を出て行ってから、机の上をいつもより丁寧に片付けた。




