第三章:何気ないひととき(その一)
ゆい「まーちゃん、時間ある?」
昼下がり、雲のスリットを通り抜け自室に差し込む光に包まれ、裏表紙に記されたあらすじを碌に読まずSF作品と勘違いしたままレジに持っていった”月と六ペンス”を何気なく眺めていたところに、彼女は戻ってきた。
ちょうど、主人公がパリに移住し、ダーク・ストルーヴと再開したところだった。
ストルーヴと、今、部屋に入ってきた彼女はなかなか対照的だと思う。
立ち姿には隙がなく、人の内面の機微に敏感で、女性にしては背が高く、痩せていて足も長い。
血色は、この時間帯でこそ普通の範疇であるが、朝などはあまり良くなさそうで、デネブやシリウスを思い出させるような少しだけ青白い肌をしている。表面温度は低いのに。
体系的に博識なところと、善人なところは同じだ。
ゆい「あれ、なんかおかしいかな」
人間観察のていで見惚れていると、彼女は何かを勘違いしたらしく、服の裾を掴んでくるくると自転し始めた。
ゆい「いや、ほら、分厚いタイプのインナーって、Tシャツがわりにちょうどいいじゃん?」
照れたような言い訳が、見当違いの方向に飛んで行く。
まさみ「いえ、なんでもありませんよ。それより、時間なら、大丈夫ですが」
朝にある程度の勉強を終えたため、夕方の支度を始めるまで予定はない。
ゆい「じゃあさ、一緒にゲームしない?すっごいの見つけた」
まさみ「いいですよ。リビングでやりますか?」
ゆい「そうだね、テレビに繋いでやろ」
まさみ「わかりました」
“月と六ペンス”に、かつて別の本に付録として挟まれていた栞を挟み、パタンと閉じる。
背表紙には、しっかりと、天才画家の生涯についてのあらすじが刻まれており、月の文字は一つもない。
本立てにそれを戻し、先に出て行った彼女の後に続いた。
廊下に出ると、少し肌寒く、それはリビングに入っても同じだった。
彼女はすでに、ローテーブルを挟んでテレビと向かい合うソファに腰掛けていて、肩には半纏がかかっていた。
女性にしては背の高い彼女にしても、その半纏はかなり大きく、どこで、何のために買ったのだろうと気になった。
隣に腰を下ろすと、重力でソファが少し沈む。
天文を勉強している今なら、それぐらいの事象にも新たな発見があるかもしれないと思ったが、やわらかい以外の感想が頭に浮かぶことはなかった。
エアコンのリモコンを探してあたりをキョロキョロとしていると、彼女は無線で繋がったコントローラーをテーブルに置き、バッ、と半纏を広げた。
ゆい「ここ、ここ」
彼女が、自身の太腿をポンポンと叩く。
人肌の温もりを持ったブラックホールを見つめたまま少し迷った挙句、私はその引力に身を委ねることにした。
事象の地平面を超えて私を迎え入れた特異点は、ぎゅっと私を抱きしめると、そのまま光ごと閉じ込めた。
膝掛けをかけ、お腹が寒くないようにクッションまで抱えてしまうと、私はもう、頭以外に外界と接触する面を失ってしまった。
ゆい「コントローラーとって」
言われるがまま、半纏と膝掛けの隙間から、前屈みにテーブルに手を伸ばすと、背中に密着した彼女の体も一緒に前に傾いた。
まさみ「どうぞ」
ゆい「ありがとう」
後ろから、横腹を通って伸びてくる三本目の手にコントローラーを渡すと、ポーズ画面で止まっていたカーソルが”はじめから”を選択し、ゲームの中の私が目を覚ました。
ゆい「左スティックで移動で、右スティックで視点移動ね」
このボタンがジャンプで〜、と彼女の長い指がそれぞれのボタンに説明を加えていく。
右肩から覗き込むようにして話しているため、右耳がこそばゆい。
まさみ「どういうゲームなんですか?これ」
ゆい「宇宙の謎を解き明かすゲームだよ」
短く切られた彼女の返答から、やればわかるという意を汲み取った私は、わずかにぬくもりの残るコントローラーを受け取り、とりあえず前に歩き出した。
目の前に焚き火があり、早速スリップダメージを受けるという、幸先のよろしくないスタートを切った私だったが、その靄は、視点移動で見上げた無窮の星空に消えた。
明らかに見かけの大きさが30分角を超えている月が、これまた明らかに1時間で15度を超える速さで公転運動をしている。
小さな村のようなそのスタート地点が位置するのは、どうやら地球ではない、どこか遠くの星系に存在する岩石惑星の一つのようだった。
まさみ「すごく綺麗ですね」
ゆい「でしょ?とりあえず、そこの焚き火に座ってる人に話しかけてみるところから始めるのがいいよ」
焚き火のそばに座り暖をとる人型の、されど人ではない衣服を着た文明生物に視点を合わせ、話しかける。
“よ、ファーストペンギン。今日が初フライトだって?そりゃめでたい”
麻色の肌をしたカウボーイハットの(おそらく)老年の言葉からするに、私は今日、宇宙に飛び立つことになるらしい。
“探査艇の鍵は?”←
宇宙船のようなハイテクノロジー機械にも、鍵が必要なのかという疑問をよそに、選択肢に矢印を合わせ、ボタンを押す。
師匠「お、面白そうなことをやっているな。・・・まさみは一緒じゃないのか?」
聞き慣れた声が響き、一瞬だけ驚いたが、それはゲームの中ではなく、現実の背後から聞こえたものだった。
ゆい「ここにいるよ」
まさみ「はい、いますよ」
彼女の右肩越しに師匠を振り返ると、目が合った師匠は少しだけ、ぎょっとした驚きの目を向けた。
師匠「あ、ああ、仲がいいな」
まさみ「あ、テレビ使いますか?」
ゆい「使うんだったら、部屋のパソコンに繋ぐから大丈夫だよ」
師匠「い、いや、少し暇になったから、お茶でもと思っただけだ。気にしないでくれ・・・」
師匠はそう言うと、電気ケトルに水を入れ台にセットした。
しばらくしてケトルが口から水蒸気を吹き出し、静かに音を立て始めた。
ゆい「隣、どうぞ」
師匠「あ、ああ」
彼女が四本目の手でソファをポンポンと叩くと、師匠はおそるおそる近づき、そこに腰を落ち着けた。
ソファが沈み、少しだけ私たちの軸が傾いた。
師匠はどこか落ち着かない様子だったが、それはおそらく、私たちが、顔が二つ手が四つある新種の生命体のような様相を呈していたからだろう。
ゆい「師匠もどうぞ、半纏、大きいから三人入れるよ」
彼女は半纏の片側を開き、ブラックホール内部に師匠を招き入れようとしたが、
“い、いや、私は”と、師匠はその引力に反発した。
彼女が、師匠を覆いこもうと傾いたおかげで、私は師匠にもたれかかる形になってしまったが、私たちは師匠を吸い込むことに成功した。
師匠は、あわあわと焦っていたが、それは多分、未知の生命体に捕食されたような気分を味わったからだろう。
膝掛けを師匠の膝にもかかるようにずらし、お腹にクッションをかかえさせる。
されるがままの師匠は、電気ケトルのお湯が沸き、冷めかかっていることにも気づいていないようであった。
師匠「わ、私はこういうのは・・・。そういうのは、あ、愛し合う二人でやればいいだろぅ・・・」
と、師匠が尻すぼみに呟くと、彼女が、
ゆい「師匠も、愛してるよ」
と、耳元で囁いたので、師匠の顔は茹で上がったタコのように赤くなり、
師匠「わ、わああああああ」
と、リビングを飛び出して行ってしまった。
不可能に思われていた光速を超える脱出速度と、あんな師匠を見たのは初めてだった。
まさみ「あまり師匠をいじめないでくださいよ。今頃、布団にくるまってぷるぷる震えてますよ」
ゆい「ごめんごめん。あ、まーちゃんも愛してるよ」
まさみ「調子いいんですから」
ゆい「いや、ほんとほんと。ほんとのほんと。心の底から。まーちゃんは、私の世界だから」
まさみ「愛が重い」
ゆい「どのくらい?」
私は中性子星ぐらい、と答えようとしたが、自惚れだと思われると恥ずかしかったので、
まさみ「異種星ぐらい」
と、少し考えてから答えた。
ゆい「わかんないよ」
と彼女が答えたので、少し安心した。
まさみ「私、浮気なんてした日にはどうなってしまうんでしょうか」
とてつもない重力で押しつぶされてしまう自分を想像し、少し身震いした。
ゆい「どうにもならないよ。もし、まーちゃんにとって、私が邪魔になるような日が来たら、その時はそっと、どこか遠くに消えることにするよ」
と、彼女は優しく囁いた。
低めの倍音が多く含まれる彼女の声は、確かな熱を持って私の耳に届く。
ゆい「私が、好きなだけ。好きだから何かして欲しいとかじゃなくて、ただ好きなだけ。愛してる。その時が来たら、どこか遠くの深い海の底で、まーちゃんの歌を作って、絵を描いて、詩を書いて、石を彫るよ」
まさみ「・・・彫像はさすがに恥ずかしいのでやめてください」
ゆい「じゃあ、歌と絵と、詩だけ」
まさみ「ま、まあ、そんなことにはならないんですけれども・・・」
ぎゅっと、身にかかる引力が強くなり、その分、中心の温度が高まっていく。
行き場を失った私の引力は、抱えていたクッションの形をさらに歪ませることによって、なんとか崩壊を堪えていた。




