エピローグ
ゆい「じゃあ、私から行くよ」
まさみ「どうぞ」
ぱちっ、と彼女は景気良く、いつもの飛車先の歩とは違い、角の道を開けるように歩を突いた。
伸ばされた左手の薬指には、土星とはいかないまでも、天王星を飾るような控えめな輪がキラリと輝いている。
薬指を回る輪の頂点には、いつか私の贈ったメノウの石が、軌道を回る小惑星のように、内部でよく光が反射するよう形を整えられてその存在を示していた。
その道の人による意匠が凝らされた作品には劣る輝きであろうが、我ながら渾身の出来だ、と思う。
応じるように私も、左手薬指の輪を意識しながら、いつもと違う角の道を開ける歩を突くのだった。
角交換は正直苦手だった。
見透かすように微笑みながら、彼女は飛車の前の歩を突いたので、私は先の隣の歩を突いて角道を閉じる。
ゆっくりとした立ち上がりだった。
まさみ「私、怖かったんですよ」パチッ
ゆい「ん、なにが?」パチッ
木の打ち合う乾いた音が響く。
彼女の目が好きだった。
少しだけするどい目は、いつも浮かべる柔和な表情と調和しながら私に向けられて、それが嬉しかった。
右目には伸びた前髪がかかっていて、普段は見えなくなっている。
幼い頃にできた傷のせいで、隠したいのだそうだ。
私は彼女の右目がどんなでも、いっそそこに眼窩のクレーターが広がっていたとしても、何も気にしなかったが、それなら前髪で隠れていても別に良いのでは、と言われれば、それはそうだった。
まさみ「ゆいさん、他人の音楽聞いてる時、寂しそうな顔するじゃないですか」パチッ
ゆい「そんな顔してる?」パチッ
まさみ「ええ、それはもう。まるで、手の届かない月を眺めるかのような」パチッ
ゆい「うーん。だとしたらそれは、新しい表現を見つけて、まだこんな形で、まーちゃんに思いを伝えた事はなかったな、っていう、そういう寂しさに違いない」パチッ
まさみ「そうですか」パチッ
彼女の髪が好きだった。
少しだけ甘く染められた濃褐色のその髪は、長くなった陽に透けて亜麻色になり、開け放たれた窓から吹く風で、鎖骨の前に揺れていた。いつか遠い夢の中で見た、秋の柳のようだと思った。
まさみ「ゆいさんは、ただ好きなだけで何かして欲しいわけじゃない、と言っていましたが・・・」パチッ
ゆい「言ったね」パチッ
まさみ「私にはそうは思えなくて」パチッ
ゆい「うん」パチッ
まさみ「・・・晴れた日には、小麦の生地の畑を耕し、雨の日には、文化の雨音に浸りながら、時折話でもして」パチッ
ゆい「随分、詩的な物言い」パチッ
まさみ「そうして傍で、ゆっくりと静かな終わりを迎えに行ってくれたら、・・・月のことなど、忘れて。そう、思ってしまうのでした」パチッ
彼女の手や腕や脚が好きだった。長く伸びたそれが、伸びたり折り畳んだり。一つ一つの動作がしなやかで美しく、生活に溶け込みながら彩りを与え、それでいて自然だった。ずっと見ていても飽きなかったし、ずっと見ていたかった。
ゆい「いいんだよ、それで。私も、別に、何かして欲しいとは思わなくても、ずっと傍にいられたらと思うし、その時が来るまで一緒にいられたらとも思うし、できれば、その時を一緒に迎えられたら、とも思うよ」パチッ
まさみ「そうですか、それなら、よかったです」パチッ
彼女の全てが好きだった。
穴の空いた服や靴下を縫って直して部屋着にするところも好きだったし、くたびれてどうしようもなくなってしまった服をクローゼットの奥にこっそりしまっておくところも好きだった。
同じ服を何着も買っているのに、どうやってかそれぞれを見分けて使い分けているところも好きだったし、外に出る時に、おしゃれ、だとか言って、くたびれて部屋着にしたのと同じ服を新しく買ってきて着るところも好きだった。
通りすがりにギターの頭を撫でていくところも好きだったし、一緒にお風呂に入った時に、今日は少しだけ贅沢しよう、と言って、湯船のお湯のメモリを一つだけ上げるところも好きだった。
ずっと、私に向けて話しかけていてほしかった。その優しい声で、囁いていてほしかった。私のための歌を歌っていてほしかった。
いっそ一つになってしまいたかった。そうすれば、何かを話せば、それが骨を伝わって耳まで届くから。
でも・・・、でも私は、彼女に、名前を呼んでほしかった。だから二人を選んだのだった。
ならば、いつか二人で一つの半纏に身を包んだ時のように、顔が二つ腕が四つの新種の生命体に、本当になってしまいたかった。
それで生活が不便になっても、他からどう思われても、別に良かった。むしろそれを通過儀礼にして、愛を証明しさえできた。
それほどに彼女が好きだった。
本当に、本当に彼女が好きだった。
まさみ「ゆいさん、もし、私が先にいなくなってしまっても、ちゃんと生きていってくれますか?」
ゆい「どうだろう。わからないけど、多分、まーちゃんに向けた作品をいつまでも作り続けると思う、いつまでも。まーちゃんはどう?」
どうだろう。多分、ダメになってしまうのではないだろうか。あまり考えたくはなかった。
まさみ「人生は上手に活用すれば、十分に長いとは言いますが、有限であるところは玉に瑕ですね」
ゆい「そうだね。同じ気持ちだよ」
私は、持ち駒の一つをそっと手に取り、彼女の方を見つめた。
私がなかなか駒を置かないので、彼女もこちらを向いた。
不思議そうにこちらを見つめる彼女の表情に、私は自然と微笑んでいただろうか。
それはもう世界に溶け込むように、生まれて初めて、自然に。
まさみ「ゆいさん、愛してますよ。宇宙で、一番」
ゆい「え、あ・・・、え!?」
動揺する彼女を差し置いて、私は盤上に駒を打った。
乾いた音が世界に木霊した。
まさみ「詰みですよ、ゆいさん。私の勝ちです」
ゆい「え、あれ、うそ!」
彼女は、もうそれ以上動かしようのない盤に目を移した。
ゆい「ほんとだ・・・」
まさみ「もう一回やりますか?」
ゆい「え?あ、どうしよう・・・」
まさみ「次は、別のにしてみませんか。囲碁とかチェスとか、まだやったことないのを。師匠にルール教えてもらいに行きましょうか。どちらも知っていると思いますから」
私がそう言うと、彼女は少し考えて、思い出したかのように、こちらにいたずらな笑みを向けた。
ゆい「あ〜、いいの?師匠、まーちゃんが私を一番って言ったこと、嫉妬するかもしれないよ?」
まさみ「師匠は、"殿堂入り"ですから」
ゆい「なにそれ、ずる!どっちが上なの!」
まさみ「さあ、どうでしょう」
ゆい「うわ、逃げた!」
・・・・・・
・・・
・・・
私は、今でも、彼女の残した音楽を聴いている。
過去に作られた歌が、時間を超えて、現在の、そして未来の自分の心に明かりを灯すのは、遥か遠くに存在する星から放たれた光が、時間をかけて私の眼に届くのに似ている。
だからこそ、私は星が好きだった。
だからこそ、私は彼女の音楽が好きだった。
もう一つ。
中性子星の中には、”パルサー”と呼ばれ、自転に伴いパルス状の電磁波を放出するものが存在するらしい。
私にはそれが、人知れず孤独に音を紡ぎつづけてきた彼女と重なって見えるのだった。
だからこそ私は・・・。
おわり




