第六章:最果てのトゥーレより(その二)
コテージに着いた頃には、そろそろあたりも暗くなってくる頃で、最初の晩、私たちはテレビを見たり、暖炉に火をつけてみたり、あるいは普通のスーパーで買ってきた食材でラムのシチューなどの郷土料理を作ってみたりなど、その生活を楽しんだ。
外は生憎の曇りで雪も降り続けており、残念ながらオーロラの観測は断念せざるを得なかった。
二日目には、村の資料館や、小さめではあるが望遠鏡のある天文観測所、地域の図書館などを訪れた。資料館や図書館では、彼女は、ここに来るまでに話していた”フルドフォルク”や”エルフ”など、様々な文化について、書籍に目を通したり、時折、そこに訪れていた地元の人に話を聞いたりしつつ、メモにまとめていた。
彼女はわかったことや、気付いたことなどを私にも都度わかりやすく教えてくれ、旅行にはこうした楽しみ方があったりするものなのか、と感心させられるばかりだった。
天文観測所の方では、またも夜まで続いた空を覆う分厚い雲と降る雪が観測を妨げはしたのだったが、オーロラについての科学的、そして文化的な説明が広範に知ることのできる展示があって、彼女に教えてもらうばかりでなく、視覚的になど、自身でも非常に楽しめた。
最終日、私たちは少し足を伸ばして、フィヨルドの壮観な景色や、火山性の温泉など、大自然の畏敬を大いに感じつつ、ついに最後の夜を迎えることとなった。
残すところはオーロラの観測のみであった。
最後の夜は、夕刻まで雪を降らせていた雲も過ぎ去り、待ちに待った雲ひとつない快晴で、遮られることのない星の光は、そのままこちらに向かって降ってくるようでもあった。
下弦寄りの月が出るにはまだ早く、村の明かりからも少し離れたコテージ傍の雪原は、それを迎えるには最も適した場所であり、私たちは組み立て式のアウトドア用の椅子に厚着をして腰掛けながら、至る所にカイロを貼り、その時を待っていた。
ゆい「星座わかる?」
彼女は北の空を見上げてそう問いかけた。
まさみ「いつもとは見え方が違うので、なかなか難しいのですが、あれとあれとあれとかを繋ぐと」
ゆい「何になるの?」
まさみ「光◯社のニーチェ・ツァラトゥストラ座です」
ゆい「シュールすぎるっ」
まさみ「ほら、こう、ちょうど、うっすらと見える天の川が涙の流れのように・・・」
ゆい「誰がわかるの、そのネタ」
まさみ「ゆいさんならわかりますよね」
ゆい「うん、めっちゃ吹き出しそう」
まさみ「ですよね」
ゆい「・・・でも、ツァラトゥストラ選んだのは、なかなかだねぇ」
まさみ「ええ、隠しきれないセンスが光ってしまいました」
ゆい「めっちゃ泣いてるもんね、あれ」
まさみ「めっちゃ泣いてますよね、あれ」
ゆい「ニーチェも泣いてたのかな」
まさみ「ニーチェ、泣かないで・・・」
ゆい「ぶふっ」
彼女が吹き出すのを見たのは初めてで、少し嬉しかった。
しかし、そのためにニーチェをダシに使ってしまった。それはユーモアのもとに許されるだろうか。
まさみ「とまあ、それは冗談で、同じ北半球なので、緯度と経度から考えて、全体的に少し南西に寄る感じになりますかね。ほら、ちょうど薄い天の川に収まるようにして、Wの形に星が繋がると思うのですが、それがカシオペヤですね」
ゆい「真ん中ちょっと上のあれ?」
まさみ「そうです。その左上に柄杓の形が見えますか」
ゆい「多分」
まさみ「それが、こぐま座で、その中で一番明るい星がポラリス、現在の北極星ですね」
ゆい「おー」
まさみ「まあ、見つけやすいのはそれぐらいですかね。正直、それ以外は私もわかりません。あ、でも、南西に明るい星があるのわかりますか」
ゆい「アレ?」
彼女は夜空の一角を指差す。
まさみ「それは木星ですね。その南です。地平線より少し上ぐらいの」
ゆい「あ、アレ?」
まさみ「そうですね。それが全天で、見かけの等級が最も小さい、つまり最も明るく見える恒星のシリウスですよ」
ゆい「すごい!あ、そういえば、惑星もわかるんだね」
まさみ「ええ、今年用の天文カレンダーを持ってきていますから。さっき見てきました」
ゆい「そっか」
まさみ「木星から右の方に天王星もあるはずなのですが、見えますか?」
ゆい「あれかな?」
まさみ「おそらく」
星座について彼女と話していると、彼女はオーロラについて私に説明を加えてくれた。
ゆい「オーロラはね、北欧神話では、夜空を駆けるワルキューレの甲冑の輝きって、言われてるらしいよ」
まさみ「ワルキューレ・・・。観測所でその名を見たのですが、残念ながらキャプションの英語が難しく読めませんでした」
ゆい「ワルキューレは、神々の世界、アスガルドにいるオーディンっていう神様に仕える、勇敢な戦死者をアスガルドに導く戦いの乙女たちなんだって。馬に乗って空を駆けるって言われたり、白鳥の姿をして空を飛ぶって言われたりするみたいだね」
まさみ「なるほど」
ゆい「オーロラは他にも、天国に喩えられたり、龍に喩えられたり、いろんな言い伝えがあるみたいだね」
彼女はそう言うと、私の手を取った。
ゆい「オーロラのこと、まーちゃんも教えてよ」
まさみ「私ですか?」
ゆい「うん、まーちゃんに教えてもらおうと思って、科学とか、天文に関係ある方は調べてこなかったんだ」
私は少し頭の中を整理してから、口を開いた。
まさみ「オーロラが光る原理はですね、太陽風などによって地球へと運ばれてきたプラズマが、地球の磁気圏に捕まって、一部はそのまま、多くは一度、太陽から見て地球の裏、つまり夜側のプラズマシートという場所に溜まり、それが地球磁場の活動、磁気リコネクションによって、磁場に沿って一度に大気に降り注ぐことで、大気中の粒子を励起させ、発光させているから、らしいですよ」
ゆい「あー、それで極付近でよく見られるんだ。ちなみに励起っていうのは?」
まさみ「励起は、分子や原子の持つ電子が、外部からのエネルギーによって、本来の電子軌道より外側を回るという、エネルギーの高い状態にされることですね。オーロラの場合、プラズマの陽子や電子が、分子や原子の持つ電子に衝突して、励起させるみたいです。励起された状態から、元の状態、基底状態に戻る時に放出されるエネルギーがオーロラの光となって現れてるそうですよ」
ゆい「なるほどね。じゃあ、色は?緑とか、紫とかあるじゃん?」
まさみ「色は高度によって、正確に言えば、プラズマの降り注ぐ力で左右されますね。降り注ぐ力が弱いと、高度が下がる前に酸素と衝突して赤く光ります。強くなるにつれて、より強く励起された酸素が緑に発光し、さらに強く降り注ぐと、低高度の窒素が励起されて、紫に光ったりするそうですよ」
ゆい「なるほどね、だからたまに、低緯度でも見られるオーロラは、赤いのが多いんだ」
まさみ「そうですね」
彼女は取った私の左手の手袋を脱がせ、指の間に、自分の右手の指を絡ませた。
触れた指の冷たさが、心臓を跳ねさせる。
ゆい「前も言ったけどさ、こういうの、いいよね」
まさみ「こういうの、とは?」
ゆい「まーちゃんに何か教えてもらうの。私の、欠けたままの隙間が、まーちゃんで埋まっていくような気がして、本当に心地がいいよ。まーちゃんもそう思っててくれたら、嬉しいな」
私は、何も言うことができなかった。
ゆい「実はさ、渡したいもの、あるんだ」
彼女は、名残惜しそうに絡めた指を外し、ポケットから小さな箱を取り出した。
開いた箱の中身が、細く降り注ぐ星々の光に反射して、それもまた星のようだった。
彼女は、私の左手を、添えるようにして持ち上げ、その薬指に、輪をはめた。
透き通る赤と青の霞が混ざり合うような模様をした小さな石が、私を見つめていた。
ゆい「もう一つあるよ」
彼女は、一つのカセットプレーヤーを取り出して、裏返した私の左の手のひらに、それをのせた。
どれくらいそのままだっただろうか。私は、回らない頭でプレーヤーからイヤホンを伸ばし、被っていたコートのフードの隙間から、それを耳につけた。
それから少しして、再生ボタンを押した。ツーっ、とテープの回る音がした。
その時だった。
それは、馬に乗ったワルキューレの軍勢が、列をなして空を駆け降りてくるようにも見えた。
あるいは、それが聖なるものであることを証明する大きな神秘の光輪のようにも見えた。
頭上から、緑色の光の柱が降り注いだ。
私は、一眼見たそれを、この世のものだと思うことができなかった。
それどころか、その緑の光が、この一帯をこの世から切り離し、神の国へと迎え入れたようにすら思えた。
全てが調和していた。
瞬く星々の全てが、薄暗闇の中遠くに聳える山々が、淡く緑に染められた雪の草原が、耳から聴こえる彼女の唄が、感覚の全てが、その光の下で調和していた。
その緑の光は、時々刻々と、姿を変えながら、そして指先を紫に染めながら、段々と地に舞い降りた。
それは形而上の手のように見えた。
あるいは、私の人生に下された幕のようにも思えた。
私の劇はここで終わりだった。
その手を掴めば、私は、地に下された影の世界から、その影を落とす光の、真の実在の世界へと至ることができた。
それは、私が、私に先立つ理性が、ずっと待ち望んでいたことだった。
私の手は、私を介さず、理性の働きかけによって、その光の手へと伸ばされていき、道半ばで、ついに止まった。
私は、いつの間にか彼女を向いていた。
緑の光に照らされた頬を覗いていた。
目は見えなかった。長く伸びた前髪で隠れていた。
彼女には、その光がどう見えたのか、その横顔からはわからなかった。
私は、泣いていたかも知れなかった。寒さに感覚を失った頬では、それを感じることはできなかった。
虚空を掴んで、半端に伸び切らないままの私の腕は、力無くだらりと垂れた。
形而上から流れ出た光は、こちらに伸ばした手を戻し、流れるように姿形を変えていく。
私は、地上に影を落とす存在になる資格を、その光になる資格を失ってしまったようだった。
あるものを見て、そこに”何か”を見出し、感動する。その”何か”になる機会を失ってしまった。
もう、月を見て感動することもないかもしれなかった。
彼女の作った唄は、月のことを歌っていた。
しかしそれは、月でなくとも同じことだった。
月でも
星でも
海でも
オーロラでも、
何かを見て、そこに何かを見出して、感動して、あるいは感動することができずに、心が揺れるたび、彼女のことを思い出すだろうと思った。
窓の外の椚の木が揺れるたび、からからと乾いたささめきを立てるたび、彼女を思い出すだろうと思った。
寄せては返す波の音に、冷たさに、彼女を思い出すだろうと思った。
夜空に見える星が日々変わるたび、大地がそれと調和していることを感じるたび、彼女を思い出すだろうと思った。
月が満ちて、欠けるたびに、彼女を思い出すだろうと思った。
世界を構成するすべてに彼女が溶け出していた。
世界を構成する最も小さな粒子の一つ一つが、彼女に裏付けられていた。
それらに触れるたび、私は、彼女を思い出すだろうと思った。
私の世界はもう、彼女そのものになってしまった。
私は彼女の肩に手を置いた。
肩に薄く残っていた雪が、はらはらと滑り落ち、地に降り積もった雪に同化する。
彼女がこちらを向く。そのもう片方の肩にも手を置いた。
彼女はどういう表情をしていただろう。
無表情のようにも見えたし、寂しげに微笑んでいるようにも見えた。
滑り落ちた雪が、触れた肩の細さが、肩を掴んで寄せた身の軽さが、動作におけるあらゆる意外性が、私たちが二つの独立した別の存在であることを否応なく示していた。
私はそれがたまらなく気に入らなかった。
一つになりたかった。
私は、彼女に、顔を寄せる。
二人の距離は刻々と経つ時間に合わせて、
ゆっくりと近づいてゆき、やがて、唇が触れた。
私と彼女の距離は、とうとうゼロになった。




