第一章:月に手は届かないらしい
それは、とても大きな質量を持って、私の世界に衝突した。
言われてみれば、それほど驚くようなことでもないのだが、確かに、一瞬で世界が変わってしまって・・・、
いわば”パラダイムシフト”だった。
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まさみ「はい、では10分ほどお待ちください」
小さなお客様から、学生割引で少し安くなった代金をいただき、お釣りを返す。
少女「これやっていーい?」
少女の指は、筐体の斜め上に”故障中”と書かれた付箋が貼られているジュークボックスに向けられている。
付箋は糊部分が風化し、取れてしまわないように上からさらにセロハンテープで補強されている。
漢字で書かれた”故障中”は、少女にはまだ読めなかったのだろう。
まさみ「すみません。それ、故障中で・・・。部品待ちなんです」
少女「そうなんだ・・・」
残念そうな少女の顔を一変させるような魔法を、最近手に入れたのだ。
まさみ「なので、僭越ながら私が・・・」
こほん、と咳払いをし、喉の調子を確かめる。
“おーもすとへーぶん、うぇすとばーじーにあ・・・”
そう言って、私は”カントリーロード”の冒頭を紡ぎ始める。
弾き語りで練習して、初めて歌えるようになった曲だ。
今はギターはないが。
キーは少し高くしている。
歌はあまり得意ではなかったのだが、アコースティックギターを弾くようになってからかなり上達した。
音程の”イロハ”を学んだのが良かったのだと思う。
楽器の振動に調和することを意識して発声することで、持ち合わせていなかった”音感”を肌で感じることができたのだ。
少女「あ、それなら、あっちのおねーちゃんがいい」
少女はそう言って、店内でテーブルを拭いていた”彼女”を指差す。
ゆい「あ、私?」
彼女はテーブルに布巾を置き、曲げていた腰を伸ばして、うーんと伸びをする。
そして、“ご指名ありがとうございます”と、カウンターへ歩み寄る。
じゃばじゃば・・・。
カウンター横の流しで丁寧に洗われた手が、そのままこちらに向かって開く。
ゆい「ほい、じゃあ、交代」
私はたこ焼きピックを持ったまま、無言の抵抗を貫いた。
まさみ「・・・」
ゆい「ほれほれ、硬くなっちゃうよ」
視線の鍔迫り合いに押しまけ、しぶしぶたこ焼きピックを手放すと、彼女はそれを器用に回転させ、たこ焼きに突き刺し、次々に回していく。
くるくると回されていくたこ焼きのリズムに合わせ、彼女は歌い出す。
“Blue Ridge Mountains, Shenandoah River…”
キーは私と同じだが、よりハスキーな声が当たりを包む。
含まれる倍音の質が違うのだ、ということを最近習った。
しっかり絞られた布巾を手に取り、机の濡れて黒くなっているところと、乾いて白くなっているところの境界線から、再び走らせていく。
彼女の歌は流石に上手で、机を拭きながら聴き入ってしまった。
・・・・・・
・・・
・・・
ゆい「はい、ありがとう。またよろしくね」
袋を提げて帰っていく少女を見送りながら、彼女はつぶやく。
ゆい「ピック持って歌ってるんだから、これも弾き語りかな?」
まさみ「弾いてないじゃないですか」
ゆい「油は引いてるけどね」
まさみ「うまくないですよ」
ゆい「たこ焼きはうまい」
まさみ「それはそうですね」
余熱を残したままのプレートからは、余分に焼いていたたこ焼きが、程よく焼き目のついた穹窿をのぞかせている。
お昼には、それを二人でいただいた。
・・・・・・
・・・
・・・
ゆい「ココアでも、どうですか」
LEDスタンドの光に照らされ、活字に落とされた視界の端に、湯気の立ったマグカップが差し出される。
まさみ「いいんですか?ありがとうございます」
マグカップから漂う甘い香りが、辺りを包む。
“ダマ”のないホットココアの優しい甘さが、季節の変わり目の急な寒さに強張った体を溶かしていく。
自身のマグカップを手作りの檜の机に置いた彼女は、返す手でこれまた手作りの本立てからA4サイズのクラフト封筒を取り出し、こちらに持ってくる。
ゆい「一緒に見よ」
宛名と差出元だけが書かれた簡素なクラフト封筒は、控えめに膨らんでいる。
まさみ「結果、届いたんですね」
ゆい「うん、結構自信あるよ」
封筒の厚さからみて、おそらく大丈夫だと思うが、彼女につられて少しだけ緊張する。
ぺりぺりと、私ならいつもびりびりになって、結局、強引に破いてしまう糊付けを、彼女は器用に開いていく。
封筒から取り出された数枚の資料は、一番上が、赤い二重線で枠取りのされた白い厚紙になっていて、結果は意外と呆気なく知らされることになった。
ゆい「いぇーい、合格」
まさみ「おめでとうございます」
嬉しそうに合格証を取り出す彼女に、ぱちぱちと、夜なので音量は控えめに、拍手をする。
ゆい「これでやっと、私も師匠の出張修理のお手伝いができるよ」
まさみ「そうですね、先を越されてしまいました」
ゆい「まーちゃんは、もう一個の方持ってるからね」
まさみ「私の方は、お手伝い、というより持ってることに意味のあるタイプのやつですから。師匠も持ってますし」
ゆい「まーいいじゃん?分業、分業」
まさみ「そうですね、ではそちらは、ゆいさんに任せることにします」
元々、二つとも私が取ろうと思っていたところを、一個ずつにしようよ、と言い出し、参考書ごと持っていってしまったのが彼女だ。
お仕事も一緒に持って行ってもらおう。
まさみ「それで、こっちはなんですか?」
合格証が入っていたクラフト封筒の下には、もう一つ、別の封筒が置かれていた。
同じA4サイズのクラフト紙の封筒で、大きさも同じくらいだが、先ほどのに比べると厚みは少しだけ薄い。
ゆい「こっちも一緒に見ようと思って。こっちは自身、半々ぐらいだけど」
同じようにぺりぺりと、糊付けが綺麗に剥がされてゆく。
取り出された紙の束は裏向きで、文字は薄く透けていた。
ゆい「いい、裏返すよ?」
ひらり、と左から右に紙の束が裏返されると、
真っ先に、星空と地球、それも地層や核の様子が描かれた断面図が目に飛び込んできた。
“地学検定 地球科学2級 合格証”
ゆい「いぇーい、こっちもごうかーく!」
先ほどより嬉しそうにしている彼女とは裏腹に、思いもしなかったものを目にした私の思考は、しばらく止まったままでいた。
まさみ「・・・これは?」
ゆい「地学検定だよ、2級。天文を除いて、高校範囲までの地学を学んだっていう証明」
まさみ「し、知りませんでした。いつの間に・・・」
度々、机に向かう姿は目にしていたが、まさかこんな勉強までしているとは思いもしなかった。
確かに、取ろうとしている資格にしては長い勉強時間だなぁ、とは思っていたのだが・・・。
まさみ「あれ、ゆいさんって、文系選択じゃありませんでしたっけ」
確か、以前聞いた話では、大学では歴史学を専攻していたはずだ。
ゆい「そうそう、だから一から勉強しなきゃいけなくて、大変だったよ。意外と数式とかも出てきてさ、まあ天文分野は別になってるから、その分マシにはなってたんだけど」
数学苦手でさ、と呟く彼女は、紙の束を手に、隙間から落ちたパンフレットに気づかないまま資料に目を通し始める。
ゆい「前に、一緒に石の研磨やったじゃん?あれから、そういえばこの石って・・・、って気になってどんどん調べてるうちにね。本格的に勉強してみようって」
視線が、部屋の逆の隅に置かれた彼女の机の本立てに向けられる。
ゆい「私、高校では物理基礎と化学基礎選択だったし、ちょうどよかったかも。ほら、なんか欠けたパズルみたいで、むずむずしない?・・・あ、でも、それなら生物基礎と天文のところもやり直さなきゃなのか。それに、基礎の範囲だけじゃないから・・・、やっぱ今のなしで」
“師匠にも見せてくるね”と言い残し、彼女は部屋から出ていった。
残された私は、まだ固まったままだった。
あまりにも衝撃的だったのだ。
考えてみれば、確かに、取り立てて言うほどのことではないのだが、”習わなかった範囲の学校の勉強を、一から独学で”という考えが、今までの私の頭になく、雷でも落とされたかのように、驚いてしまっていた。
しかも、地学。地学基礎じゃなくて、地学。
自分と同じ文系選択だった彼女が、理系の範囲とされている分野を独学で、というのも驚きに拍車をかけていた。
しかも、今後、自身や仕事にとっては、何かの役に立つかもわからない分野だというのだから、なおさらだ。
しばらくの間、思考を整理し、ある程度、落ち着つかせたところで、
ギギッ、と軋む椅子を離れ、彼女の机へと歩み寄る。
まじまじと見たことなんてなかったが、確かに、端の方に、背の高い本に隠れるようにして、”基礎からわかる地学”や、”地学検定--地球科学2級公式テキスト”など、関係する本が複数置かれている。
意外と厚くはない公式テキストの方を手に取って、適当に開いてみる。
開かれたページは、どうやら地震に関する分野の章末ページらしく、左のページにはコラム、右のページには章末問題が載せられていた。
章末問題の方には、鉛筆で答えと思わしき計算や単語、文章が書き込まれていて、赤で添削もされている。
間違えた計算には赤で正しい答えが書かれていて、走り書きのような”?マーク”が斜め上に残されていた。
答えを見てもわからなくて書いたのかな、と思って少しだけ頬が緩む。
テキストを元の位置に戻す。
改めて本立てに目をやると、歴史や倫理、政治経済など、いくつか学生時代のであろう教科書類も立てられていて、そこはなんとも彼女らしいように思うと同時に、その姿勢に感心させられるようでもあった。
彼女の机から離れ、こちらに顔を向けていた椅子に座り直す。
背もたれに深く腰を預け、虚空を見つめる。
大人になっても、役に立つかわからないことでも、勉強していいんだ・・・。
当たり前のことに今更になって気づいた私の胸は、少しだけ早く音を立て始める。
先ほどまで読んでいた本、”月と六ペンス”を自身の本立てに戻し、
机の奥の方に置かれた卓上サイズの地球儀に人差し指を当てる。
くるくると、自転の向きに合わせるようにして地球儀を回すと、地球儀は数回転して、アイスランドのあたりをこちらに向け、すっと、止まった。
・・・この光の当たり方だと、北極の氷はすぐに溶けちゃうな。
LEDスタンドに照らされる地球儀を眺めながら、そんなことを考える。
アイスランド、確か首都はレイキャビクで、オーロラがよく見えるんだったかな・・・。
この前の、太陽フレアで電子機器がどうの、っていうニュースの終わりあたりでそんな話を聞いたような気がする。
オーロラとは一体何なのか、高緯度の地域で発生するのはなぜなのか、緑だったり紫だったり、色が違うのは・・・。
地軸のように一度傾いた思考は決して戻らず、自転のように回り続ける。
しばらく回り続けていたそれを止めたのは、部屋に戻ってきた彼女だった。
ゆい「いや〜、すっごい褒めてもらった。ぎゅっと抱きしめてもらっちゃったよ」
乱れた髪を整えながら部屋に戻ってきた彼女は、私に問いかける。
ゆい「で、どうだった?」
まさみ「・・・衝撃でした。私にも・・・、私にもできるでしょうか」
ゆい「うん、まーちゃんなら絶対大丈夫だよ。力になれること、あるかわからないけど、なんでも言ってよ」
まさみ「はい、ありがとうございます。それと、改めて、おめでとうございます」
ゆい「うん、ありがと」
私は、足元に落ちていたパンフレットを拾い上げ、天文分野の検定の要項に目を通す。
検定、資格自体が目的なのではない。それはわかっている。
ただ、目標はあったほうがいいと思うし、それに・・・、私も彼女と肩を並べたい。
仕事の資格も一つずつだし、趣味?の資格も一つずつだ。
すっかり冷めてしまったココアに口をつけ、すこしだけ熱くなってしまっていた頭を冷やすことにした。




