4:努力の証
南房総の山林が、ついに渡辺慎二たちの手中に収まった。広大な土地の所有権移転が完了したその日、特別棟の薄暗い教室には、勝利の興奮と、これから始まる壮大な道のりへの緊張感が入り混じっていた。
「これで、俺たちの『国家』の領土が確定したわけだ」
佐倉聡が、ディスプレイに映し出された航空写真を見つめながら、満足げに言った。
彼は、複雑なダミー法人を介した土地購入のスキームを完璧に成功させた。
複数の法人がそれぞれ異なる小規模な土地を買い取り、最終的にそれらを慎二たちが実質的に支配する別の法人に集約させるという、まさに法制度の穴を突いた巧妙な手口だった。
「法務局も、まさか高校生がこんな大それたことを企んでいるとは夢にも思わないでしょうね」
篠塚彩が、ふっと笑った。しかし、その笑みには、安堵とは異なる、どこか寂しげな響きがあった。
「ここからが本番だ。次は、山林の開発に着手する。まずは、最低限のインフラ整備からだ」
慎二は、興奮を抑えながら言った。彼の頭の中には、すでに具体的な開発計画が描かれている。
彼らは、クラウドファンディングで集めた資金の一部を、開発費に充てることにした。そして、この「次世代型コミュニティ創設プロジェクト」の建前をさらに強化するため、オンライン上で賛同者を募り、「地域再生ボランティア」という名目で、開発作業への参加を呼びかけた。
「予想通り、多くのボランティアが集まった。特に、若者や、定年後の生活に物足りなさを感じている人々だ。彼らは、単に人手としてだけでなく、俺たちの理念を理解し、共感してくれる貴重な仲間だ」
聡が、集まったボランティアのリストを見ながら報告した。その中には小型重機の免許を持つ者、DIYの達人、かつて大手ゼネコンで働いていた経験者まで様々だ。
「彼らに、私たちの真の目的を伝えるのは、まだ時期尚早ね。まずは、彼らの力を借りて、この土地を『未来の里山』として形作っていく」
彩が冷静に指示を出した。彼女は、集まったボランティアとのコミュニケーション担当だった。彼らの熱意を引き出し、共通の目標に向かって協力させる。それは、彩の得意とするところだった。
夏休みに入ると同時に、最初の開発作業が始まった。慎二が選定した南房総の奥深い山林――そこは、まさに手つかずの自然そのものだった。
人影など皆無で、木々は好き放題に枝を伸ばし、地面は落ち葉や枯れ枝に覆い尽くされている。
彼らは、その広大な自然の中に、文字通り「基地」を築き始めた。
「うわ、蚊が多い! それに、道もないじゃないか!」
現場に足を踏み入れたばかりのボランティアの一人が、思わず悲鳴を上げた。首筋を叩き、腕をさする彼の表情には、早くも後悔の色が浮かんでいる。
当然の反応だった。
目の前に広がるのは、都会の喧騒とはかけ離れた、野生の息吹に満ちた世界。彼らが購入した土地は、まさに秘境と呼ぶに相応しい場所だったのだ。
熱気を帯びた空気が、草木の生い茂る匂いと混じり合い、むせ返るように鼻腔を刺激する。
「最初は大変なのは当然です。ですが、ここを私たちの手で、新しい『未来の里山』に変えるんです。協力をお願いします!」
彩は、疲れた表情を一切見せず、ボランティアたちを鼓舞した。彼女自身も、重い資材を運び、汗を流しながら作業に加わった。普段の生徒会長としての姿からは想像できないほどの、泥にまみれた姿だった。
慎二は、指揮官として、全体を見渡した。小型の太陽光パネルを設置し、通信環境を確保する。簡易的なトイレやシャワー施設を設ける。そして、何よりも重要なのは、この未開の地で生命を繋ぐための水源の確保だ。
「地下水脈の調査は進んでいるか?」
慎二は、地質調査の経験があるというボランティアの男性に尋ねた。
「はい、慎二君。この辺りの地層は、地下水脈が豊富に流れています。ここに井戸を掘れば、飲料水も確保できますよ」
男性は、慣れた手つきで地層図を広げながら答えた。彼らは、慎二たち高校生に、単なる「若者たち」としてではなく、真剣なリーダーとして接していた。それは、慎二たちの熱意と、具体的なビジョンが、彼らに伝わっていた証拠だった。
聡は、現場にはほとんど姿を見せず、帝都高校の特別棟で、情報戦に徹していた。彼は、オンラインで集まった技術者たちと連携し、彼らの「国家」で利用する独自の通信システムや、電力網の構築に着手していた。
「地元の回線は脆弱だし、国に監視されるリスクもある。だから、俺たちは独自の通信網を構築する。まずは衛星通信と、独自の無線ネットワークからだ。将来的には、光ファイバー網の敷設も視野に入れる」
聡の声が、クリアな音声で各技術者のヘッドセットに届く。その声には、若々しさの中に、確固たる意志と未来を見通す知性が宿っていた。
画面越しに、彼らは一様に頷く。
そこにいるのは、聡のビジョンに共感し、その実現のために自らの知識と技術を惜しみなく提供する者たちだ。彼らは、聡の指示に従い、まるでSF映画のような技術を、現実の世界で実現しようとしていた。
数ヶ月の歳月が流れた南房総の山林は、もはや手つかずの自然ではなかった。鬱蒼としていた木々は整然と間伐され、小道が縦横に走り、光が差し込むようになった。
かつて足を踏み入れることさえ困難だった場所に、人間が生活を営むための基盤が築かれている。
まず目に飛び込んでくるのは、木材と防水シートでできた簡易的な宿泊施設だ。素朴ながらも、夜間の冷気を凌ぎ、雨風から身を守るには十分な構造である。
その隣には、薪の燃える匂いが漂う共同キッチンがあり、ボランティアたちが談笑しながら食事の準備をしている。
そして、ひときわ目を引くのは、陽光をいっぱいに浴びて輝くソーラーパネル群だ。それらは、電線を介してバッテリーに繋がり、夜間の照明や最低限の電力供給を可能にしていた。
どれもまだ原始的なものだが、確かにここには「コミュニティ」としての温かい息吹が宿り始めていた。
ある日の午後、慎二が、開墾されたばかりの畑の脇で、将来的な水の供給システムについて思案していると、興奮した声が響いた。
「見てくれ、慎二。この土地で、初めて収穫できた作物だ!」
声の主は、汗で泥だらけになった顔に満面の笑みを浮かべたボランティアの一人だった。
彼は、手のひらに載せられた、まだ小ぶりだが鮮やかな赤色をしたトマトを、まるで宝物のように慎二に見せた。
「すごい!俺たちの『未来の里山』は少しずつ、だが確実に前に進んでいる!これはその汗と努力の結晶だ!」
慎二は、その小さなトマトを両手で受け取ると、ずしりとした重みと、土の香りが混じった瑞々しい匂いを感じた。
この小さなトマトは、単なる野菜ではない。それは、彼らがこの地で「未来の里山」を築き始めている、確かな証だった。