3:疑惑の影
官房長官、西条一馬は、首相官邸の一室で、提出された報告書に目を通しながら、眉間に深い皺を刻んでいた。報告書は、あるクラウドファンディングプロジェクトに関するものだった。「次世代型コミュニティ創設プロジェクト~ITと共生で描く、持続可能な未来の里山~」という、いかにも耳障りの良いタイトルが踊る。しかし、その報告書の裏には、西条が嗅ぎ慣れた、かすかな違和感がまとわりついていた。
「……高校生が主導するプロジェクト、ね」
西条は独りごちた。彼が手にする報告書は、内閣情報調査室から上がってきたばかりのもので、慎重を期して彼の元に届いたものだった。通常、これほどの規模のクラウドファンディングであっても、高校生が関わる地域活性化プロジェクトなど、彼の手元にまで届くことはない。しかし、このプロジェクトの資金調達の規模と、その裏にある、どこか不自然なまでの熱気が、西条の警戒心を刺激していた。
隣に座る内閣情報調査室の室長、藤原啓介が口を開いた。
「はい、西条長官。当初は単なる学生の自主活動として静観しておりましたが、調達額が予想をはるかに上回り、さらにその資金の使途に不明瞭な点が見られるため、念のためご報告に上がりました」
藤原の声は、常に冷静で、感情を一切表に出さない。それが、西条が彼を信頼する所以でもあった。
「不明瞭な点とは?」
西条は報告書から顔を上げ、藤原の目を見た。
「まず、ターゲットとしている土地です。南房総の、かなり人里離れた山林が候補に挙がっているとのことですが、その広大さに比べて、プロジェクトで謳われている『ITと共生で描く、持続可能な未来の里山』という目的とは、どうにも齟齬があるように見受けられます。もっと小規模で、既存のインフラが整った場所でも事足りるはずです」
藤原は淡々と説明した。
「それに、このプロジェクトのPR動画やSNSでの発信内容です。言葉は非常に巧みで、少子高齢化や経済停滞といった、国民が抱える漠然とした不安を煽るような表現が散見されます。まるで、既存の国家体制に対する不満を、巧みに利用しているかのようです」
西条の眉間の皺が、さらに深くなった。彼らが最も恐れるのは、国民の間に広がる、国家への不信感だった。近年、政治の腐敗、経済の低迷、そして未来への閉塞感が蔓延し、国民の間に鬱積した不満が充満していることは、西条も肌で感じていた。
「背後に誰かいるのか?」
西条は鋭く問い詰めた。高校生が、これほど巧妙な手口で資金を集め、さらに社会の不満を煽るようなメッセージを発信できるとは、到底思えなかった。
「現時点では不明です。しかし、プロジェクトの中心人物とされる渡辺慎二、篠塚彩、佐倉聡の三名は、帝都高校の生徒会長、情報処理部員といった、それぞれの分野で非常に優秀な生徒であることが確認されています。特に、佐倉聡は、過去に複数の難解なプログラミングコンテストの世界大会で優勝経験があり、その技術力は尋常ではありません」
藤原は続けた。
「彼ら三人の個人情報を洗い出しましたが、特段、政治活動への関与や、特定の過激派組織との繋がりは見当たりませんでした。しかし、彼らがオンライン上で形成しているコミュニティは、非常に閉鎖的で、慎重な監視が必要だと判断しております」
西条は、報告書に添付された三人の顔写真に目をやった。どの顔も、まだあどけなさを残している。しかし、その瞳の奥には、彼らの年齢に似合わないほどの、強い意志と、ある種の狂気のようなものが宿っているように見えた。
「クラウドファンディングの目標額は?」
「驚くべきことに、その山林を購入するのに十分な金額を、既に突破する勢いです。しかも、寄付者層は、学生から高齢者まで幅広く、特に既存の社会に不満や閉塞感を感じている層からの支持が厚いようです」
藤原の言葉に、西条は舌打ちをした。国民の不満が、このような形で具現化し始めていることに、彼は危機感を覚えた。もし、このプロジェクトが、本当に彼らの謳うような「地域活性化」で終わるなら、それはそれで喜ばしいことだろう。しかし、西条の長年の勘が、そうではないと囁いていた。
「資金の流れは追っているのか?」
「はい。複数のダミー法人を介した、非常に複雑なスキームが組まれております。おそらく、彼らが独自に構築したものではなく、外部の専門家が関与している可能性が高いと見ています。資金洗浄の疑いも視野に入れ、金融庁とも連携して追跡調査を進めております」
藤原の言葉に、西条はさらに疑念を深めた。高校生が、このような高度な金融知識を持っているとは考えにくい。やはり、彼らの背後には、何か隠された意図を持つ存在がいるのだろうか。
「現時点では、彼らが日本の法律に抵触するような具体的な行為は確認されていません。しかし、このまま放置すれば、彼らの影響力はさらに拡大し、不測の事態を招く可能性も否定できません。特に、彼らが掲げる『既存の国家の枠組みを超えた新しい社会』という理念は、看過できません」
藤原の言葉は、西条の核心を突いた。彼らは、国民の不満を巧みに利用し、国家の秩序を揺るがしかねない思想を広めようとしている。それは、西条にとって、最も危険な兆候だった。
「法務省にも情報共有し、彼らの活動を監視させろ。特に、土地の購入に関しては、売買契約の透明性を徹底的に洗い出せ。少しでも不審な点があれば、すぐに介入できるよう準備しておけ」
西条は藤原に指示を出した。彼の声には、決然とした響きがあった。
「承知いたしました。しかし、彼らは現状、合法的な範囲で活動しているため、安易な介入は、世論の反発を招く可能性があります。特に、彼らが『若者の夢を摘み取る』と喧伝すれば、政府への批判は避けられないでしょう」
藤原は懸念を表明した。
「それは承知している。だからこそ、慎重に、しかし周到に動く必要がある。彼らの本当の目的が何なのか、それが明確になるまでは、表立った動きは避ける。だが、水面下では、彼らのあらゆる動きを監視し、いつでも対応できるよう準備しておくのだ」
西条は、窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。煌々と輝くネオンは、日本の繁栄を象徴しているかに見えたが、その根底には、見えない亀裂が走り始めている。彼の目の前には、まだ幼い、しかし、確実にその存在感を増していく、不気味な影がちらついていた。その影が、日本の未来に何をもたらすのか。西条には、まだその全貌は見えていなかった。しかし、確かなことは、彼らはこの影を、決して見過ごすことはできないということだった。