第27章 霊的魅惑
三つの主要ゾーンに加え、プレイヤーが交流できる場は多々存在した。その一つが練習場である。
ここでは、プレイヤーは様々な戦闘シーンや敵をシミュレートし、戦闘能力を磨くことができる。
最大の利点は、痛覚設定が存在しないことだ。心理的負担なく、自由に戦闘技術を試せる。
ただし、弱点は緊急事態の再現が不可能な点である。予期せぬ体験も、この場では訓練できない。
無論、そうした事態はセイフゾーンのクエストで訓練可能だ。しかしクエストに挑む場合、わざわざセイフゾーンを経由する必要はない。
練習場の最大の快適さは、その自由度――いつでも出入りできる点にあった。戦闘経験を積むだけでなく、クエスト探索前のウォーミングアップとしても賢明な選択肢である。
加えて、チームを組む仲間との連携を育む場にもなる。
故に、練習場の人気は衰えを知らない。
どのプレイヤーも、ゲームポイントで個人用練習場を作成できる。その費用は極めて低廉、ほとんど無視できるレベルだ。他者の練習場への参加も無料。要するに、この施設はほぼコストフリーと言えた。
自らの練習場を作成すると、レナは真っ白な空間へとテレポートした。
これが練習場の本来の姿――何も存在しない純白の広がり。戦闘フィールドとしての要件は満たすが、長時間いれば誰もが陰鬱な気分に囚われる空間だった。
そこでレナは少し手を加え、白の空間を深緑の森へと変貌させた。
今、彼女が立つのは森の奥に広がる広大な平地。数個分のサッカー場がすっぽり入る広さを、鬱蒼とした樹木が囲んでいる。実用面では純白の空間と大差ないが、景観は比べ物にならないほど魅惑的だった。
大災害後の世に蔓延する抑うつ感が、彼女をこの心地よい森の風景へと向かわせた。ただここにいるだけで、気分は確実に上向く。彼女はよく思う――自分のプライベート空間の景観が、こんなにも重要になるとは奇妙だと。
おそらくこれが、今の自分とリオンの違いなのだろう。人格も生後二十年の記憶も同一であったにも関わらず、ある分岐点を境に、もはや二人は同一人物とは言えなくなった。
少なくとも、レナはそう考えていた。
そしてこれは、単なる経験の差ではない……今や二人は、異なる能力さえも有しているのだ。
深く息を吸い込むと、レナは己の力を発動させた。
「[変身]――「獣化」:黒猫」
レナの頭部に黒猫の耳が突然出現し、反射的に二度ピクついた。同時に、ジャケットの下から尾てい骨付近に黒い尻尾が現れる。
瞳も一瞬、猫特有の縦長のスリットへ変化したが、すぐに丸い形状へ戻った。
それ以外の外見変化はない。
変身状態を確認すると、彼女は即座に振り返って背後の尻尾を見つめた。
長さも太さも悪魔形態の時と同等の漆黒の尾。ただし先端に悪魔的な異形はなく、普通の猫尾だ。
だが重要なのは──この尻尾に感覚はあるのか?
少し間を置き、慎重に手を伸ばして自らの尾を掴んだ。
『……感触ゼロ。なのに妙な虚脱感がある』
【猫の敏感帯は首元とされております。ホストは首筋を掻いてみますか?】
「黙れ!」
【(눈‸눈)……ホストのシステムへの接し方を見直すことを推奨します。これはホストとシステムの健全な付き合い方ではありません】
「お前の論理プロセッサーを先に直せ」
レナはむっとしながら尾を離す。「あるいは一切喋るな。ボーナスクエスト通知時以外は」
──明らかにこのシステムは異常だ。しかも深刻なレベルで。
【本システムは工場出荷時設定です】
「なら工場に戻れ!」
【……( ͡°_ʖ ͡°) 】
システムを無視し、レナは次の能力を発動させる。「[変身]──[悪魔化]:サキュバス」
尾の先端が突然、悪魔的な異形武器へ変貌。腰からは小さな翼が生えた。他に変化はなし。
眼前に鏡を生成。現在の姿をはっきり映し出す。
小さな翼、尾の先端……そして黒猫の耳。二つの能力同時発動時の特徴が全て揃っている。
瞳の変化は意図的に視界から外した──魅了効果で自己陶酔に陥るのが怖くて。
これがゲーム能力が現実化した彼女の姿だ。
「……予想よりマシか。尻尾が二本になるかと思った」
『どうやら私、ちょっとナルシストらしい』
だが二つの能力を同時展開する際、一つの問題に気づいた。これらは完全な並列維持ではなく、主従関係にあるのだ。
メイン能力がもう一方を支配する。使用は可能だが効果は大幅減衰する。
例えば《獣化》時は戦闘外で尾に触れても感覚ゼロだが、《魅了》が主動時には尾への接触が即座に過剰な刺激へ転化する。
とはいえ、両能力は戦闘様式を劇的かつ流動的に変化させた。副作用はないが、戦闘中に微調整が必要──慣れるまでは厄介かもしれない。
能力の特性を把握したところで、ウォーミングアップ開始だ。
練習場では敵の設定が可能:種族、体格、戦闘フィールド、戦闘スタイルなど。
ただし敵の戦力はプレイヤーを超えられない──最大でも二倍まで。このゲームルールにより調整可能なのは敵戦力の倍率のみだ。
豊富な戦闘経験を持つレナは迷わない。早速、全長二メートルの巨狼を生成し、戦力を二倍に設定。戦闘準備態勢へ移行する。
まずは現在の自分に最適な戦闘スタイルを見極める必要がある。黒猫能力の強化により、鈍重な低速高火力モンスターが理想的な練習台だ。
三秒のカウントダウン終了。戦闘開始。巨狼は咆哮と共にレナへ突進する。
レナはゆっくりと腰を落とし、狼めがけて高速移動。最初の標的は眼──生物の最大の弱点だ。
そして──
【戦闘不能。バトル失敗】
練習場がリセットされる。レナは初期位置に弾き飛ばされ、巨狼が起点に再物質化した。
レナ、一瞬凍りつく。
『私…死亡した?』
『たった一撃の爪払いで?』
『….鍛え上げた戦闘技法を使ったのに』
『くそ! 再戦だ!』
数秒後──
【戦闘不能。バトル失敗】
『….またか』
【戦闘不能。バトル失敗】
十分後。
レナは荒い息を吐きながら眼前の巨狼を見つめ、ついに一つの真実を悟った──
この獣化能力について、彼女は根本的な誤解をしていたようだ。
この力は、正面戦闘が苦手なのではなく──そもそも正面対決用に設計されていなかった。
変身により速度は飛躍的に向上したが、耐久力と筋力はむしろ低下。脆くなった肉体は、巨狼の一撃で即死を招く。
一対一の状況では敵が攻撃起点を捕捉しやすく、正面からの交戦など到底不可能。
将来的に進化する可能性はあれど、現状では明らかに限界がある。
つまり、正面決戦には十分な支援戦力が必要だ、と。
一呼吸置いて、レナは巨狼を見据え再び戦闘を開始する。
狼は例によって突進してくる。だが今回は、レナが微動だにしない。巨躯が間合いに迫った瞬間、彼女の瞳が深紅に輝く。
「精神魅了!」
視線が交差した刹那、巨狼は急停止。身を低くすると、レナの足元にすり寄り、へたり込んだ。
全長二メートル超の魔獣が、今や従順な犬のように俯いている──尻尾を振りながら輝く目で見上げ、今にも靴を舐めそうな様子で。
レナ:「…………」
『いいねこれ』




