猫とネコ
この街には、猫とネコがいる。
猫は古い。毛並みは粗く、目は濁り、歩き方はよろめいている。
時折、誰にも見られていない角で何かを見つめて動かなくなる。
ネコは新しい。体はいつも清潔で、目は大きく潤み、歩くたびに首輪がきらりと光る。
子どもたちはネコに触れることを許されているが、猫に触れてはいけない。
「ネコは人に飼われるために作られたの」
教師はそう言う。「猫は昔のもの。感情が不安定で、噛みつくこともあるから、避けましょう」と。
だがある日、私は猫に出会った。
それは夕暮れのゴミ捨て場で、箱の影にうずくまっていた。
「おまえ、ネコか?」と聞くと、猫はゆっくりと顔を上げた。
その目は、私をまっすぐに見つめ返した。
「‥‥いいや。私は“まだ”猫だよ」
「まだ?」と聞くと、猫は尻尾をゆっくりと揺らした。
「この街では、猫はネコになるよう訓練されるんだ。
毛を整え、声を変え、誰にも逆らわないようにする。それができれば、首輪が与えられる」
「じゃあ、ネコは‥‥全部、元は猫だったの?」
猫は答えなかった。
ただ、静かに身を起こし、こちらへと歩いてきた。
その毛並みは確かに乱れていたが、目の奥にあった何かが、
今まで見たどのネコよりも、ずっと澄んでいた。
「君が見てる“ネコ”たちは、本当に自由に鳴いてると思うか?」
「‥‥わからない」
「なら、よく見てごらん。
彼らの鳴き声には、いつも同じ“長さ”と“高さ”がある。
それは訓練された“鳴き方”だ。人に喜ばれるように設計された音なんだよ」
私はその日から、街のネコを観察しはじめた。
たしかに、鳴き声はどれもどこか同じだった。
目も、光ってはいるが、何かをじっと見つめ返すことはない。
数日後、猫は姿を消した。
代わりに現れたのは、新しいネコだった。
首輪は銀色で、毛並みは見違えるほど整っていた。
私はそのネコに近づき、そっと尋ねた。
「‥‥君は、猫だった?」
ネコは何も答えなかった。
ただ、丁寧に用意された鳴き声で、「ニャァ」と鳴いた。
その音は、どこまでも滑らかで、どこまでも空虚だった。
私は知っていた。
その目の奥にいた猫は、もう何も言わない。
だけど私は、あの猫の言葉を、まだ覚えている。
「猫は“ネコになる”ことで、生き残れる。
でもそのとき、本当に自分でいられるかは、誰も保証してくれないよ」
だから私は今日も、猫を探している。
本当は、私自身が猫なのか、それとも最初からネコだったのかを確かめたくて。
この街では、猫は消えていく。
でも猫の声だけは、どこかでまだ、誰かの心にひっそりと鳴いているのかもしれない。
──それが「猫」であることの、最後の証なのだから。