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女王様に乾杯 ~女王様短編集~  作者: 平井敦史
エカチェリーナ二世/ロシア
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女帝のお茶会 第一話 お茶会の開幕

<登場人物紹介>

・大黒屋光太夫(1751生)40歳 日本からの漂着者。女帝に謁見し、帰国の許可を願い出る。


・キリル=グスタヴォヴィチ=ラクスマン(1737生)54歳 博物学者で光太夫の保護者。光太夫に女帝への直訴を提案し、実現させた。マジ聖人。


・アダム=キリロヴィチ=ラクスマン(1766生)25歳 キリルの次男で辺境の町の守備隊長。光太夫の帰国実現のために奔走する父に協力する。


・エカチェリーナ二世(1729生)62歳 ポーランドを分割し、オスマン帝国を打ち破って、ロシアの版図を押し広げた大帝。男漁りが玉に瑕。


・ダーシュコワ夫人(1744生)47歳 女帝が夫に対して起こしたクーデターの影の立役者だが、根は善良でいい人。女帝とは決別と和解を繰り返してきた。


・プラトン=アレクサンドロヴィチ=ズーボフ(1767生)24歳 女帝最晩年の愛人。政治軍事の能力があるわけではないが、見た目だけはめっぽう良い。

 緑に包まれた洋式庭園で、男はこちこちに緊張していた。

 ここは、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルク南郊、王侯貴族の別荘地となっているツァールスコエ・セロー。皇帝が夏の間過ごすエカテリーナ宮殿の庭園。ロシアの短い夏を惜しむかのように、草木が緑の葉を茂らせ、色とりどりの花を咲きほこらせている。


 ここを日本人が訪れるのは、彼が史上初めてだ。

 男の名は大黒屋だいこくや光太夫こうだゆう伊勢いせの国(現在の三重県)の廻船かいせん問屋どんやの船頭だったが、江戸に向かう船が嵐のため漂流し、船の仲間たちとともにアリューシャン列島に漂着した。

 それが八年前――西洋の暦で一七八三年のこと。その後、カムチャッカを経て、バイカル湖のほとりの町イルクーツクに辿り着く。


 そこで出会ったのが、今、彼の一つ空けた隣に座っている男。フィンランド出身の博物学者キリル=ラクスマンだった。

 彼は光太夫たちの境遇にいたく同情し、彼らが帰国できるよう全力で取り計らってくれた。

 しかし、イルクーツクの総督府は光太夫たちを帰化させる方針を曲げず、帰国の願いは握り潰され続けた。


 業を煮やしたキリルは、ついに皇帝――女帝エカチェリーナ二世への直訴を提案する。

 キリルの親切心には心から感謝しつつも、実現は到底不可能だろうと思いながら帝都サンクトペテルブルクまでついてきた光太夫に奇跡が起きる。

 女帝の即位記念日でもある六月二八日、ここエカテリーナ宮殿で、女帝への謁見が(かな)ったのだ。


 女帝も光太夫の境遇にいたく同情し、外務参事院議長(外務大臣)のベズボロドコ公爵に、光太夫らの送還についてはかってくれた。


 光太夫にとっては、夢にまで見た日本への帰国が実現する一歩手前まで辿り着いた、といったところだが、しかし、万一にも女帝の気が変わってしまったら、その望みも断ち切られる。

 謁見から一月ひとつきあまり経った今日、光太夫とキリルは、女帝主催の茶会に招かれた。ここで女帝の心証をより良くしなければならない。

 光太夫が緊張するのも無理からぬことだった。


「そう固くなるなよ、コウダユウ。心配しなくてもきっと上手くいくさ」


 光太夫の斜め向かいの席の若者が、軽い調子でそう声を掛ける。

 キリルの次男のアダム=ラクスマンというこの若者は、ロシア陸軍の中尉で、カムチャッカ半島の根元にあるギジガという小さな町の守備隊長の任にあったが、父と光太夫をサポートするためサンクトペテルブルクにやってきて、今回父らとともに茶会に招かれていた。


「あまり調子のいいことを言うな、アダム。陛下のご慈悲を疑うわけではないが、まだまだ状況は予断を許さない」


 キリルが息子をたしなめ、アダムは軽く首をすくめる。

 そんなやりとりをしていたラクスマン親子だったが、不意に立ち上がり、直立不動の姿勢を取った。それにつられるように、光太夫も同じ姿勢を取る。

 茶会の主人――女帝エカチェリーナ二世が姿を見せたのだ。



 女帝はそれほど大柄な女性ではなかったが、その身には大帝国のあるじとしての威厳を纏っており、確かな存在感を放っていた。そして、よわい六十を超えているとは思えないほど、肌艶はだつやが良い。

 その傍らには二人の男女。

 女性の方は、女帝よりも十歳ほど若い、穏やかそうな婦人。光太夫たちを見てにこやかに微笑んでいる。

 男性の方は、若かった。二六歳のアダムと同年配か、あるいは少し年下だろうか。やたらと顔立ちは整っていたが、その眼差しはひどく冷ややかだった。


 光太夫は、ロシアに漂着してから、多くの人々の世話になってきた。キリルの親切さはその中でも突出しているが、異国からの招かれざる客人に温かい手を差し伸べてくれた人間は、一人や二人ではない。

 しかしその一方で、光太夫たちに対して胡散臭うさんくさげな――もっと言うなら、同じ人間に対して向けるものとは到底思えないような眼差しを投げかけてきた者たちも、決して少なくない。

 この顔だけはやたら良い若者も、そうしたたぐいのようだった。


「陛下、本日はこのような席にお招きいただき、光栄の極みにございます」


 キリルが恭しく頭を下げつつ、女帝に礼を述べ、光太夫とアダムもそれにならう。


「ああ、本日は堅苦しいのは抜きにしましょう。コウダユウ殿、我がロシアにようこそ」


 女帝は光太夫に微笑みかけ、朗らかにそう告げた。


 そして、女帝から出席者たちを紹介された。と言っても、女性の方はすでに光太夫とも面識があった。

 名は女帝と同じエカチェリーナ。エカチェリーナ=ダーシュコワ。ロシア科学アカデミーの総裁を務める才女で、アカデミー会員であるキリルの上司に当たる。

 現在、アカデミーでは辞典の編纂へんさん事業を進めており、光太夫も日本および日本語に関する項目の校訂に協力しているのだ。


 彼女は、皇后だったエカチェリーナが夫である皇帝ピョートル三世に対してクーデターを起こした際、若手将校たちを味方に付けるなど、陰で暗躍した策士であるが、自身が権勢を得るために血眼ちまなこになるようなタイプではなく、いささか潔癖症なきらいもあって、権力の毒を食らうことを躊躇わない女帝とは、決別と和解を繰り返してきた。


 男性の方は、名をプラトン=ズーボフという。爵位は伯爵。見た目だけはやたらと良いこの若者は、現在女帝の寵愛を一身に受けている愛人だ。

 そういう人物がいる、ということは、光太夫も以前キリルから聞いてはいた。

 が、正直なところ、日本人である光太夫には、女性が君主であるということ自体ピンと来ないし、ましてやその女帝が堂々と愛人を囲っている、というのも理解しがたいことだった。


 とはいうものの、女帝に対して悪い印象をいだいているわけではない。

 一月ひとつきあまり前に謁見した時には、緊張のあまりまともにお顔を拝むこともできなかったが、今こうして直に見てみると、オスマン帝国やスウェーデンと戦ってロシアの領土を押し広げた「大帝」とはにわかに信じがたいほど、穏やかそうな印象だ。

 謁見の場で、女帝が光太夫たちの境遇を憐れみ、死んでいった仲間たちを悼む言葉をかけてくれたことは、彼の心に深く刻み込まれている。


 そして、お茶会が始まった。

※日本紅茶協会様の㏋には、「(大黒屋光太夫は)1791年の11月には女帝エカテリーナ2世にも接見の栄に浴し、茶会にも招かれたと考えられている」と書かれていますが、実際あり得ない話ではないものの、記録が残っているわけではなく、本作は完全に作者の想像です。

 光太夫のロシアでの見聞を聞き書きした『北槎聞略』には娼館に招かれた話まで書いてあるのに、女帝にお茶会に招かれたのならそのことを書き残してないはずがないだろう、とかいうツッコミは無しの方向で(笑)。

 時期は、6月28日に女帝に謁見して1ヶ月あまり後、8月頃との設定です。


※ロシアの人名は、名と姓の間に「父称ふしょう」といって父親の名を表す呼称が入り、これを敬称として用います。アダム=ラクスマンの父親はキリルなので、「キリロヴィチ」といった具合です。いささか煩雑に思われるかもしれませんが、雰囲気を出すために、「アダム」に「キリロヴィチ」のルビを振る、といった表記を用いています。ご了承ください。

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