ハギスと女王と元女王 第一話 メアリーの憂鬱(前編)
1567年、スコットランド女王・メアリー=スチュアートは王位を逐われ、隣国イングランドに亡命した。
この厄介者を、イングランド女王・エリザベス=テューダーは、十数年に渡って緩やかな軟禁状態に置いてきた。
しかし、カトリックとプロテスタントの対立が深まる中、メアリーを女王に担ぎ上げようと目論むカトリック勢力が暗躍。そして、彼女を危険視して処刑を望むプロテスタント勢力の声が、日に日に高まりつつあった。
そんなある日、メアリーの許をエリザベスがお忍びで訪れる。
●一五八五年秋 イングランド中部スタッドフォードシャー、チャートリー城
スコットランドを逐われ、ここイングランドにやって来てから、もう十七、いや八年になるだろうか。
夫のヘンリーが何者かに殺され、その混乱も収まらぬうちに、私はボスウェル伯に誘拐され、無理やり結婚させられた。
そして、何故か私がボスウェル伯と共謀してヘンリーを暗殺したことにされてしまい、挙句に貴族たちから糾弾されて王位を逐われることとなったのだ。
ヘンリーは確かにどうしようもないクズ男だったけれど、あんな男でも我が子ジェームズにとってはたった一人の父親だ。さすがに死んでしまえとまでは願わなかったし、殺すだなんてとんでもない。
それに、私がボスウェル伯のような野蛮な男を愛していたなどと決めつけられるのも、心外極まりない。
ただ、ボスウェル伯が下手人だったのかどうかは、正直わからない。
あなたが殺ったのかと単刀直入に尋ねたこともあったが、俺ならもっと上手く殺るさ、などと言ってはぐらかされた。
そんな彼も、スコットランドを逃れた後、デンマークで囚われの身となり獄死したと聞いている。ざまあ見ろだ。
一方私は、イングランドに亡命した。
最初はエリザベスに助力を請い、スコットランドに返り咲くつもりだったのだけれど、あの辛気臭い女はのらりくらりと言を左右した挙句、私を半ば虜囚のような立場に置いた。
それで腹が立ったので、私にイングランド女王になってほしいなどと言って近付いてきた者たちがいたのをこれ幸い、陰謀に乗っかったのだが、結局露見して失敗に終わった。
正直、私もあの時は断頭台を覚悟したし、実際イングランド宮廷にも、私の処刑を叫ぶ者たちは少なくなかったという。
が、あの女は私を赦した。
それが慈悲によるものなどではないことは、私にもわかる。
ただでさえプロテスタントとしてローマの教皇様にも破門されているあの女は、私を処刑してこれ以上カトリック諸国の反感を買うことを危惧したのだ。
その後十数年。イングランドのカトリック貴族や、周辺のカトリック諸国は、何度もあの女の暗殺を試みたが、ことごとく失敗に終わった。
そして、その度に、私の関与が取りざたされ、プロテスタント貴族の間からは、さっさと処刑してしまえ、という声が上がっているようだ。
それでも、あの女は私を庇い続けた。
感謝しているか――と聞かれれば、正直微妙だ。ある程度の行動の自由は許されているとはいえ、事実上の軟禁状態に置かれ、イングランド内の各地を転々とさせられてきたし、昨年にはとうとう一切の私信を禁じられてしまった。
しかし、あの女の辛抱強さには、ちょっとばかり感心している。
逆の立場だったら、私ならとっくにあの女の首を刎ねていただろう。
そして、近隣諸国を怒らせた挙句――。いや、あまり楽しくない想像はよそう。
ああ、そう言えば、あの女が即位して間もない頃、大叔父――私のお祖母様の弟であの女の父親であるヘンリー八世がばら撒いた劣悪な金貨を残らず回収し、質の高い金貨と交換するという気の遠くなるような事業をやってのけたのだっけ。
正直、あの女からは才気走ったところは感じないのだけれど、辛抱強さというのはきっと君主にとって得難い資質なのだと思うし、私にそれが欠けていたことは認めざるを得ない。
えー、何故さっきから辛気臭い女の話ばかりしているのかというと、今、本人が目の前にいるからだ。
「レディ・メアリー。色々ご不自由をかけてしまって申し訳なく思っています。今日はせめてもの慰めとして、食事をご一緒しようと思いましてね」
申し訳ないなどと本気で思っているわけはないが、一応はしおらしい表情で、エリザベスは言った。
「何を仰います、陛下。格別のご慈悲を賜り、感謝の言葉もございません」
言っていて舌を噛みたい気分になるのをぐっと堪え、私は恭しく一礼して見せる。
それにしても、エリザベスという女は、他人と会食することを好まず、家臣たちと食事を共にすることもまず無いと聞いている。
それなのに、わざわざロンドンからこんなところまでお忍びで足を運び、料理人まで連れて来て、私と食事をしようだなんて、一体どういうつもりなのだろう。
私が内心で首を傾げているうちに、料理が運ばれてきた。
まん丸い茶色の塊。動物の肉、いや内臓を、茹でたもののようだ。
女主人であるエリザベス――別に私が招いたわけではないし、彼女が主催する立場だからね――が、作法に従い自らナイフを入れる。
どうやら羊の胃袋らしいそれを切り開くと、中から細かく刻まれたミンチが出てきた。
「今日は、スコットランドを懐かしんでもらおうと思って。ハギスというのですか? お国の料理を用意させました」
ああ、これがハギスというものか。確かに、スコットランドでよく食されている料理ではある。主に身分の低い者たちの間で、だが。
元々は、狩人が傷みやすい獣の内臓を手早く食するための調理法であったらしい。
貴族の中にも好む者がいないではないが、基本的には庶民の料理だ。
一瞬、馬鹿にされているのかとも思ったが、エリザベスは大真面目な様子だ。
どうやら本気で、私が喜ぶと思っているらしい。
それにしても――。私がスコットランドに郷愁を感じているなどと思っているのだろうか。
幼い頃にフランスに渡り、ずっと向こうで暮らしてきて、最初の夫と死別した後に帰って来た「祖国」は、垢抜けないド田舎で、カトリックとプロテスタントがいがみ合う魔境だった。
あんなところに郷愁や未練など感じるものか。
スコットランド王位を奪還しようと思ったのだって、単に奪われたのが悔しかったからというだけだ。
目の前のエリザベスの顔をじっと見つめる。
この女も、幼い頃に母親を喪い、非嫡出子扱いされて、随分と苦労はしてきたらしいが、ずっとイングランドで生まれ育って、人は皆祖国を恋い慕うものだと素朴に信じているのだろう。
「ハギスはお嫌いかしら?」
エリザベスが小首を傾げて言う。
「いえ、詰め物料理は好きですよ」
昔フランスで食べたような、洗練されたものなら、ね。
もっとも、フランスの料理だって、ほんのしばらく前までは酷いものだったらしい。
元姑であるカトリーヌ様が、イタリアのメディチ家から嫁いで来た際に、多くの料理人を連れて来て、料理、そしてテーブルマナーの、一大改革をやってのけたのだとか。
よく自慢話を聞かされたっけ。
私もその流儀をスコットランドに持ち込もうとしたら、貴族たちから総スカンを食らった。死ねばいいのに。
一方、イングランドも、フランスに負けるなとばかりにテーブルマナーの改革を行い、こちらは順調に進展しているらしい。
目の前の皿に、ミンチが盛り付けられた。
いや、これは肉ではなく、羊の内臓をみじん切りにしたものだ。それに、玉葱のみじん切りとオート麦も混ぜてある。
贅沢にスパイスを使用しているようで、これはクミンの香りだろうか。ふんわりと匂ってくる。
そしてその隣に、なにやら白いものがどっさり盛り付けられる。小麦の麬かと思ったが、違うようだ。
私が訝しんでいると、エリザベスがしたり顔で解説を始めた。
「これはポテトという新大陸から持ち帰った根菜を茹でてつぶしたものですよ。サー・ウィリアム=セシルのところの庭園管理人にジョン=ジェラードという者がいましてね。その者が栽培の許可を求めて、私のところに献上してきたのです」
「はあ。新大陸の……」
「ええ。荒れた土地でも栽培が出来るということで、是非普及を図りたいと意気込んでいましたよ」
なるほど。新大陸伝来のものか。珍しいものを食べさせてもらえるのなら、辛気臭い女との会食も悪くない。
私たちはそれぞれの流儀で神に祈りを捧げた後、料理に匙をつけた。
ポテトとやらは、ホクホクした食感で、それ自体には自己主張の強い味はないが、ハギスと混ぜると、スパイスの刺激や羊の内臓のクセをやさしく包み込んでくれる。
思ったより悪くない。
本来はもっと素朴でワイルドな料理なのだろうけれど、スパイスを贅沢に、しかし度が過ぎない程度に巧みに効かせ、塩加減も絶妙だ。
さすがイングランド女王のお抱え料理人、良い腕をしている。
それにしても――。女主人はあまり会食が好きではないというだけあって、話で場を盛り上げる気はないようだ。
私も辛気臭い女相手にベラベラしゃべる気にはなれず、しばし黙々と料理を口に運んでいたが、不意にエリザベスが語り掛けてきた。
おそらく、その話題が今回の会食の真の目的――。直感的にそう感じ取って、私はごくりと唾を飲み込んだ。




