scene(2,Ⅲ);
職員の男・ヴァンテは、陰気な人物だった。声に覇気がなく、顔が疲れきっている。鮮やかな青髪に甘めの顔立ちをしているのに、暗い雰囲気の方が際立って目立たないほどだ。ただその瞳は、何か強いものを背負って突き動かされているような、強い使命感を帯びて見えた。
「ヴァンテ、ここはどこで、お前達が何をしているか聞いてもいいか? あの中央の怪しいプールも気になるしよ……」
クロエが尋ねると、ヴァンテは若干思案してから口を開いた。
「さっき言ったとおり、ここは廃墟層だ。地表からの煙霧の影響で100年前に廃棄されたが、その後も秘密裏に研究施設として使用されている。僕はその研究員のひとりだ」
「廃墟層か。じゃあオレ達は上層階・下層階しか人は住めないと思い込んでいたけど、実際は違ったんだな。誰かしらの思惑で研究がされていて、そのために利用されていると……」
ヴァンテはこくり、と首肯する。【塔】は老朽化などの理由で、数十年ごとに階層を増築する。最上部に増築された住居層へと、住民たちは上へスライドするように移動する。最上部が新たな上層階、その下が下層階となる。そうして住民が去って、使われなくなった住居層は廃墟層と呼ばれる。
「あと、あのプールは資源分解槽といってね、上層下層の住民たちが落とした廃棄物や資材を分解して、エルドリウムを回収しているんだ」
「廃棄口に棄てたものは、地表に落としてるんじゃなかったのか?」
「落としてしまうと、エルドリウムを廃棄する事になってしまうからね。再利用だよ」
ニヒルな笑みを向けられる。上層階と下層階から棄てたものが、先ほど見たプールに落ちて分解回収されている、という事らしい。クロエも初めて知る事実ばかりだ。なぜ住民にわざわざ隠されているのだろうか。
「それから、僕たちがここに居る意味について説明したいところだが……」
話しの途中で、ヴァンテがあちこちに視線を泳がせた。考え事とも違って見え、奇妙な仕草を見せられてやや面食らった。
「そろそろ、この研究室へも兵士達がやって来るようだ。ひとまず脱出しよう。私の車を使うといい、自動運転で自宅まで戻る設定になっている。あちらだ」
ヴァンテはこれまでと打って変わって早口に要件を述べた。研究室の奥へ進むと、シャッターで区切られた一角を手早く操作して開いた。そこには彼の言う通りに車が一台停まっており、既に主人を待つようにして運転席の扉を空けていた。
ヴァンテの態度から、残されている時間が少ないと察したクロエは、いまだ座りこんだままのヘレンを引っ張って無理やり乗せてから、自分は運転席に乗り込んだ。しかし、当の持ち主たるヴァンテは一向に乗り込もうとしない。
「何やってんだ? 早く乗れよ」
「ああ、私は大丈夫だ。まだ今日分の仕事を終えられていなくてな。なに、兵士達が来たら適当に誤魔化しておくから」
「誤魔化しておくって、あんたがいなけりゃ話が、っておいっ」
クロエがヴァンテを乗り込ませる為に車から出ようとしたが、運転席の扉はすでにロックされていて、ガチャガチャと音を立てただけだった。エンジンが勝手にかかり、車は駆動を始めた。
『──本日は、自動運転サービス〝アドス〟をご利用いただき、誠にありがとうございます。ベルトをお締めになり、安全な姿勢で──』
車内に機械音声が響く。慌てるクロエを尻目に、車は後進してから切り返して、何処へとも知れず走り出した。
「アイツ……」
不安と戸惑いが入り混じった声が出た。あのヴァンテという男、自分達を庇ってくれた。兵士に不審にでも思われたら無事では済まないだろう。車の方はそんな事はつゆ知らず、組まれた指示系統に従って淡々と運転を続けている。
『……あー。あー。聞こえるかい』
ヴァンテの無事を祈ったタイミングで、その本人の声が車に響いたので、クロエは座席上ですっ転びそうになった。気を取り直して、音声が鳴った車内上部を確認する。小ぶりなスピーカーが設置されていた。
「ヴァンテか? お前どうやって話してんだ?」
『あ、聞こえてるみたいだね。警報音と同じ仕組みだよ。霊粒子を使って僕が望む場所へ思考を鳴らす事くらいは、わけないさ』
「はーん、なるほどね」
スピーカーに向かって話せば、ヴァンテの声が返ってきた。どうやらあのヴァンテという男、エルドリウムに関してかなり融通が利くらしい。
彼らがやり取りをしている間、後部座席に乗っているヘレンはひたすら無言だった。研究所内でのように泣いているわけではなく、窓の外を眺めているようだった。
『……車の行き先は言ったとおり、私の自宅だ。私の代わりに三次視像が居るから、疑問点は彼に聞いてくれるかい。すまないが、兵士の聞き取りが煩わしくて、こっちを一旦切るよ』
「分かった。あんがとな」
礼を言ったあとすぐ、ぶつり、という音が鳴ってヴァンテの音声が途切れた。
クロエは車内を軽く見まわしてから、運転席の椅子を倒すと狭い車内を移動し、後方座席へと移った。ヘレンは相変わらず、外景をぼうっと見ている。クロエは何と声をかけようか迷い、ふと窓の外へ視線を巡らせて、そこで止まった。
「……こいつは、一体……」
車の外には予想だにしない光景が広がっていた。廃墟層はクロエ達の暮らす下層階と同様に、階層の天井部が塞がれていて薄暗いはずだ。ところが窓の外の様子は、そう感じさせないほどに明るい。廃墟層内を一定間隔に沿って灯る街灯が、決して過剰にならない程度に配置されている。それも最新の調光設備だ。恐らく人間の体内時計に合わせて、昼夜を再現できるものだろう。今まさに、この車が走行している道路もよく整備されている。無理な曲がり道がなく効率的に走れる様になっており、あらかじめ道路計画が敷かれたものと分かる。
廃墟層を利用しているとは聞いていたが、これはもう利用という話の次元ではない。再開発だ。下層階や地下街ロストラと比べ物にならない、工数と資金のかけられた新興住宅地が眼前に広がっていた。
「……アンタ、クロエっていうんでしょ」
外の状況に動揺していたところへ、ヘレンに話し掛けられる。彼女の視線は依然、窓を向いたままだ。
「おう。そうだぜ」
「ここへ落ちるまで、下層階? だっけ。〝もう一人〟が世話になったらしいわね。でも、もういいわよ。放っておいて」
「あ、そうだそれ。そういえばアンタ、何で急に性格が変わったんだ? 〝もう一人〟ってのが、下層階の方か?」
突き放すようにと告げられても気にも留めないクロエに、ヘレンは大きく溜息をつく。観念したように、ぽつりぽつりと話し出した。
「……そうよ。私にもよく分からない。ただ、ここへ落ちてきて急に意識がはっきりして……。上での出来事、見た事も大体、思い出した。〝もう一人〟が何であんなに呆けているか知らないけど、腹立つわ」
振り返るように語った後、苛立ちのまま手を組んでぼきりぼきりと音を立てる。クロエはその態度に若干おののくが、疑問への興味の方が大きかった。
「んーと、つまりお前が本当のヘレンって事か?」
「私の知る限りは、こっちが本来のヘレンね。よく厄介だとか、手に負えないって言われるから、アンタも気を付けた方がいいんじゃない? 味方さん」
ヘレンは楽し気に言って、ようやくこちらへと顔を向けたが、嘲笑をしていた。人を信用していない、壁を隔てたような笑みだった。
【用語解説】
・資源分解槽:廃墟層の中心に設置された貯水槽。上層下層の住民たちが落とした廃棄物や資材を分解して、エルドリウムを回収している。