scene(1,Ⅱ);
次のオフの日、クロエは遷移エレベータの中に立っていた。上層階へ移動する手段はごく限られている。遷移エレベータは利用料金が高いので、下層階の住人はそうそう手が届く物ではない。一生で一度も上層階に上がったことのない住人も大勢いる。だが表沙汰に出来ない金も渦巻くエアライナー競技、その選手たるクロエには大した問題ではなかった。
透明な合金硝子張りとなっているエレベータに乗っていると、半分がスラムで雑然とした下層階と、美しく無菌に整備された上層階の違いがありありと見える。上層下層の超格差社会。そんな現実が眼前に表れる景色を不愉快に思う者もいるだろうが、クロエ自身はただ寂しく感じていた。
遷移エレベータから降りて上層階に出ると、久々に吸った独特な匂いが鼻を突いた。三次視像という名の三次元映像によって汚いもの、不都合なものは覆い隠される。匂いすら感じ取られないように、人間にとって居心地の良い香料で覆われた高級住居地帯。
空を見上げれば、手のひら大の天体が陽光を差し伸べている。かつてこの世界に存在した空模様を三次視像で再現しただけだ。本当の空は、天候兵器や汚染された黒雲が入り混じって、見るに堪えないような暗晦が広がっていると言われている。
世界は有史以来3800年という年月を経ており、途方もない数の戦争を経験している。傷跡は深く、地表も空も兵器によって汚染されてしまった。人間たちは行き場を失ったが、大地と天上の間を取り、宙に浮くという手段で生き残った。以降は自分たちが及ぼした世界への罪を隠して隠して、素知らぬ顔で生きているという訳だ。
過去築かれた地上の建物の上にそのまま増築されて、空中に伸びるよう造られた住居空間。
空中都市世界【塔】のひとつ──エルゼノア。
上層階には全人口の3割だけが居住している。エルゼノアの支配者である軍部に所属する者と、重税を支払うことができる富裕層だけが住まう土地だ。クロエは遷移エレベータを降りて、上層階へと足を踏み出す。人目に付かないように少しだけ首を縮める。ここには苦い思い出があった。
──『この偏愛性主義者!』
クロエの背がぶるりと震える。頭の中に響くのは、この上層階で過去に浴びた批判の声だ。平常心平常心。心の中でそう唱え、首をぶんぶんと横に振り、嫌な記憶を振り払おうとする。
首を振った拍子に、クロエの瞳が偶然、ある対象を映して留まった。長い黒髪を風が攫うに任せている、赤瞳の女。吸い込まれるような深紅の瞳がとても虚ろで、何の感情も灯しているように見えない。まるで人形のようでゾッとする。
女性が立って居るのはデッキ部だった。【塔】は円柱形で、上層に行くにつれ細くなっていく形状をしている。外周をぐるりと囲うように併設されているのは、食物や機械・ロボット等を生産するエリアだ。デッキ部は、その生産エリアと住居エリアを繋いでいる部分である。つまり住民が無許可で立ち入れる場所としては、最も外側に位置する。
彼女の存在は、周囲を通りすぎる住民たちには、まだ気づかれていないらしい。人々は手元の電子端末や、三次視像の広告に気を取られている。上層階は苛烈な競争社会でもあり、他人に気を割く余裕はない者ばかりだ。
赤瞳の女性はデッキから乗り出すようにして、【塔】の外を眺めている。空でも見ているのだろうか。青々として美しい空の風景もまた、三次視像によってコーティングされた偽物だが。空虚な瞳が何を映すのか、場所が場所だけに不穏だった。その姿を見ていて、ふと頭に浮かんだ言葉があった。
(あれ……? もしかして、『自殺病』じゃね?)
『自殺病』は、ここ数年エルゼノア内で流行っている精神疾患だ。原因不明、対処法不明の難病。罹患すると意識が有耶無耶になり、とにかく【塔】の端へと向かうらしい。最後には身を乗り出して、飛び降りる。
「……やばい!」
クロエは事態に気付いて駆け出した。人混みを掻い潜ってデッキ部を目指す。いくら『自殺病』が流行っているとはいえ、目の前で死なれるのは流石に嫌だ。広壮な住宅エリアを横切り、非常用階段を駆け上がっていく。
どうにかデッキ部に辿り着いたとき、赤眼の女性はまだ無事だった。展望台の手摺に手を置いたまま、ぼうっと地表方向を見ているようだ。クロエは胸を撫でおろした。走り続けて息が上がり、肩を上下させている。
ところが次の瞬間、女性は身体を持ち上げ、手摺部分に乗り上げた。両足が浮いた状態になる。あの上半身のバランスが前のめりに傾けば、落ちてしまうだろう。安心したのも束の間。問題は全く解決していない事に気付いてクロエは戦慄した。
「おい、やめろって!」
女性がいる位置まで少し距離がある。急いで駆け寄って叫んでも、女性は意に介さずに地表方向を見ている。何も聞こえていないのか。クロエが必死の想いで伸ばした手は虚をかすめ、女性の身体がするりと抜けて空中へと投げ出された。
「馬鹿野郎!」
クロエはエアブーツを腰の装着具から取り外す。電源を起動してデッキから空へと投げた。するとブーツは瞬く光り、ぐいん、という電子音の後に、起動時の反重力噴射を行ってけたたましい音を立てる。
クロエ自身もデッキを跨いで飛び降りると、空中でブーツを装着して内燃機関を噴かせる。その勢いのまま加速して急降下し、落下していく女性に向かって飛んだ。
人間の落下速度よりエアブーツの飛行速度の方が速い。クロエは容易に追い付き、落下経路の下まで降下して先回りする。腕を広げてすぽ、と女性の身体を受け止めた。赤眼の女性はおとなしくクロエの腕の中に収まり静かだった。どうやら気を失っているらしい。
「っ……ああ、もう仕方ねえな」
一発ガツンと言ってやろうという勢いで飛んできたクロエは、タイミングを失ってまごまごと口を動かした。女性を抱きかかえたまま旋回し、ゆっくり上昇する。
デッキ部まで戻ってくると、エアブーツの射出を止めてデッキの中に降り立ち、跪くような体制で女性の身体を横たえてやった。
【用語解説】
・三次視像:三次元映像。俗にいうホログラム。
・【塔】:地表の建築物のうえに増築を繰り返して造られた住居空間。
・エルゼノア:クロエ達が暮らしている【塔】の名称。上下2層に分かたれた超格差社会。