scene.(1,Ⅰ) getFilesByName("腐泥を翔ける乙女");
錆びた鉄板により空は遮られている。半球状に広がる巨大なドーム空間内。光の射さない密閉された世界は、鉄と埃、それから汗の臭いが滞留している。太陽の代わりと主張するように、ガスを用いた硝子管電球が爛々と輝き、色鮮やかな光明を灯す。埃っぽい地下街・ロストラの端で、人々はある競技に見入って熱狂の声を上げていた。
『…………最終コーナーを回ってくるのは、1番、アンドレ! 前評判通りの伸び脚を見せるのか!』
『そして2番手が熾烈になるが……ここで食い込んでくる! 外から外から、5番、クロエが差し込んでくる! 強い‼︎ 1位はクロエ! クロエです!』
ゴールを知らせる実況が響くとともに、掛け金と宙券が空を舞った。観客たちは悲喜こもごもといった様子で、肩を組んで喜びを噛みしめる者も、怒りのまま叫ぶ者もいる。口々にレースの感想や批判を言い立てる。
レースを走る選手の身体は、空中に浮いている。選手たちは浮力をもたらす特殊な靴を使用して、空中にあるトラックを駆け、ゴールまでの順位を争う。エアライナーレース。別名、空中のスピードスケートレースとも呼ばれている。
先頭を走り終えてゴールゲートをくぐった選手が、氷面を滑るようなしなやかさで飛んでいく。両脚に装着しているブーツが鮮やかな光を灯している。宝石を透かすように赤から緑へ、緑から青へと色味が変化していく。1位の選手がくるりと振り向いて、観客席に手を振っている。接吻を送る動作を交えると、観客は大いに湧いた。ある程度応対を終えたところで切り上げ、1位選手はバックヤード入り口へと向かった。
「かぁーっ、流石の差しっぷりだな。やられたぜ〜」
後からゴールしてきた選手が、後ろから肩を叩いてきた。
「はは、ありがと。たまたま運が良かっただけさ、たまたまね」
1位の選手はそう言いながらヘルメットを外す。現れたのは金髪で短く丸みがある髪型と青い瞳。少し焼けて小麦色の肌をしている女性が、含みを持たせて笑った。
ふたりで話しているところに、走り終えた他の選手たちが次々と合流してくる。
金髪の女性選手の話ぶりや所作は男勝りだ。いや、男性そのものと言って差し支えない。愛らしい顔立に反して口調はたいへん粗雑で、がはは、という荒い笑い声を上げている。周囲のレーサー達も彼女に対して肘で小突いたり、揶揄ったりして接していた。
「クロエ、ご感想は?」
クロエ、と呼ばれた金髪の女性選手は、自分より背が高くがっしりした選手仲間たちを見上げながら、にっかり笑った。
「お陰様で。いい走りできたぜ」
選手仲間たちと別れ、表彰式までの準備のためにレース場内を移動するクロエ。関係者だけが立ち入れるバックヤードに立ち、憎々しいという形相で睨んでいる者がいる。観客とは明らかに違う、粗暴な様相の者たち。彼らはつまり、レースを開催している側の人間だ。
「〝アウリス〟のお犬ちゃんがよ……」
通り過ぎる間際、ぼそりと罵られた。敢えて並んで歩いてくれている選手仲間が睨み返すが、クロエにはもう慣れたものだ。おおかた、賞金を搔っ攫われて気に入らないのだろう。鼻で笑って、ひらひら、と片腕を上げて応えてやった。
この日のレースがひと通り終わった。クロエはネオンで照らされる寂れた道なりを歩き、自宅へと向かっていた。地下街ロストラの人気賭博競技・エアライナーの選手であるクロエはそこそこの有名人だ。通りがかりに住民から声を掛けられる事もある。選手たちは本来、護身も兼ねてセキュリティ設備があるロストラ一等地に住む。
だがクロエが暮らすのは高級感のない賃貸物件だ。さすがにスラム街からは距離を置いているが、ほとんど家に居ないので安さで選んだ。住居に近付くにつれ騒音が漏れて聞こえる。壁が薄いのが持ち味だ。クロエは誰かが聞いているらしい音楽に合わせて、上機嫌に鼻歌を歌った。
集合住宅の入口付近には、住人専用の郵便受けが壁沿いに並んでいる。クロエは自身の郵便受けを開いて、粗雑に詰められた封筒や手紙を引き出すと、その中のひとつにじっと目をとめた。
「父さん……」
封を開かないまま、ぼそりと呟く。しばし考え込んでから、集合住宅の入口を逆戻りして外に戻った。うーん、と声をあげながら天を仰いでも、もちろん視界に入るのは、巨大な鉄板の錆び色だけだ。
「しばらく戻ってないもんなあ。行くか、上層階……」
握る手につい力が入って、手紙がくしゃ、と曲がった。
【用語解説】
・エアライナー:空中にあるトラックを周回して速さを競う競技。
・宙券:エアライナーレースの投票掛け券。
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