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第1話 伯爵令嬢とは名ばかり


 ここはオベール王国、トーマ伯爵家の屋敷。

 かつては豪華な装飾品が品よく配置されていたエントランスホールだが、金目の物は売り払われ、さびれた空気が漂う空間となっている。

 そこで、まだ幼さの残る華奢な少女が一人、床に雑巾をかけていた。

 紫がかった桃色の長い髪は無造作にくくられ、背中に流れている。

 そこにずかずかと歩み寄って来た中年の女。

 少女のすぐ脇に立ち、意地悪そうに唇の片側をニッと上げた。


「まだ床を磨いているのですか?はぁ~、これだからお嬢様は使えない。ノロマ!」


 嫌味を言うに飽き足らず、少女の体を蹴飛ばしたのは女中のアガタ。

 蹴られた勢いでしこたま腰を打ち、黙って痛みに耐えている少女の名はクララベル。

 れっきとしたトーマ伯爵家直系の娘だ。

 本来なら女中に蹴飛ばされながら床を磨くことなどありえないのだが。

 両親を3年前に海難事故で失ってから、伯爵令嬢とは名ばかりで女中に小突かれながら下働きをさせられる日々である。


 クララベルの両親、前トーマ伯爵マクソンスとその妻カミラが、他国との商談のために乗った船が行方知れずとなった。

 周辺の海域から船の残骸が発見され、難破したらしいことがわかった。

 乗客は誰一人として発見されず、全員が死亡したと推定された。

 伯爵家後継ぎのクララベルはまだ6歳と幼かったので、遠い異国に住む叔父のアーチュウが爵位を継ぐこととなった。

 彼が身を置くスコルト国までは、陸路、航路を休みなく進んでもひと月以上かかる。

 兄の海難事故の知らせをアーチュウのもとに送ってから、数か月の間、アーチュウからの音沙汰はなかった。

 そこでアーチュウの帰国を待たずして家令のクレモンが代行し、兄夫婦の葬儀や、爵位継承の手続きを済ませた。


『領地経営や諸々は、クレモン・フルニエに任せる』


 そんな、ごく簡単な書簡がようやく届き、領地経営はクレモンが代行することになった。

 アーチュウは若くして異国に留学したきりで、兄夫婦にも伯爵家にも、さしたる興味を抱いていなかった。

 だから知らなかったのかもしれない。

 亡くなった兄夫婦に娘がいることを。

 そのためクララベルの処遇に関して、一切の指示がなされなかった。


「こんなに幼くして両親を亡くすなんて、気の毒だよ」

「アーチュウ坊ちゃんはどうして戻って来ないんだい?子供を一人にしておくなんて、ひどいだろう」


 古くからいる使用人は、家族の代わりにクララベルをかわいがってくれた。

 真夜中、両親の夢を見て泣きながら目が覚めると、メイドの誰かがクララベルを抱きしめて、再び眠るまで背中をとんとんと、叩いてくれたりもした。

 クララベルはだんだん口数が少なくなり、暗い表情を見せるようになっていったが、まだこのころは良かったのだ。

 アーチュウが爵位を継いで1年もしないうちに、領地の経営状況はみるみる悪化した。

 家令のクレモンはトーマ家に忠実ではあったが、有能ではなかった。

 給与の支払いが滞るようになると、使用人たちは見切りをつけて次々と辞めていった。


「お嬢様、すみません。お側にいられなくて」


 みな、申し訳なさそうにクララベルに挨拶をして出て行ってしまった。

 今や残されたのは家令のクレモン、女中のアガタ、その夫の料理人ユーゴの三人だけである。

 広い屋敷をたった三人で管理することは難しく、クララベルにも仕事が与えられるようになった。


「お嬢様にまで手伝ってもらって申し訳ありません」


 そう言って恐縮する姿もはじめの頃は見られたのだが、いつしかぞんざいに扱われるようになった。


「まただんまりですか?この程度の仕事もできないようじゃ、今日も夕飯は抜きですよ、お嬢様」


 アガタはニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべながら、何度もクララベルの背中を蹴った。

 クララベルはいつものように、うずくまって体を丸めた。

 貝のように固く心を閉じると、もう何も怖くないから。

 殻に閉じこもって耐えていると、いつの間にか時間は過ぎ去る。


「ふんっ、気味の悪い子どもだよ」


 アガタはピクリとも動かなくなったクララベルを不快そうに見下ろすと、悪態をつきながら屋敷の奥へと消えて行った。

 アガタの姿が見えなくなって、もう戻ってくる気配がなくなったころ、クララベルはのそりと体を動かした。


「あいたたた。またあざになっちゃうわ。アガタのやつ!思いきっり蹴りやがって。はぁ~、それにしてもおなかすいた。今日も夕飯抜きって言っていたわね。やれやれ。クララが寝ているうちに何か食べ物を手に入れなくちゃ」


 そう言って起き上がったのは、クララベルであってクララベルでない。

 先ほどまでの怯え切った様子はまったくない。

 どこか達観したような大人びた雰囲気、それでいて生気に満ちた表情である。

 彼女はぼろ布のようなスカートの埃を叩いて立ち上がった。

 辺りを窺い、アガタの姿がないことを確認すると、慣れた様子で屋敷から抜け出す。

 向かったのは下町である。

 うす暗くなった中、商店街を足早に抜ける。

 目指していたのは、町はずれに建つ古びた孤児院だった。

 錆びてきしむ門扉を力いっぱい押して開け、建物の入り口の扉に付いている呼び鈴を大きく鳴らした。

 少し待っていると、内側からそろりと扉が開かれ、チビでそばかすの少年が顔を出す。


「やぁ、なんだ。マリアベルか!」

「マルク、こんにちは」


 マルクは扉を大きく開くと、にかっと歯を見せて笑った。


「おう、また腹減ってるんだろ?入れよ。せんせーい!マリアベルが来たよー!」


 マルクが奥に向かって大声で呼びかけると、他の子どもたちも口々にマリアベルの名を呼びながら迎え入れた。

 ここではクララベルは、マリアベルと呼ばれているようだ。


「マリアベル、いらっしゃい。ちょうど夕食ができたところなのよ。ここに座っておあがりなさい」


 この孤児院で子供たちの世話をしているイリスが優しく促す。

 マリアベルが来たと知って、イリスは皿を1枚増やし、皆のスープから少しずつ分けてマリアベルの分を用意する。

 パンはイリス自身の分を半分に切って分けた。


「イリス先生、こんばんは。いつもすみません」

「いいのよ。お腹がすいている子どもにはご飯を食べさせるのが大人の仕事だもの。さあ、召し上がれ」


 大きなダイニングテーブルに孤児院の子どもたちが全員集まっている。

 テーブルには野菜を小さく切って煮込んだスープと、黒い硬いパンの他に、孤児院の庭に実をつけた柑橘系の果物が並んだ。

 質素だが、腹ペコのマリアベルにはたまらないごちそうである。

 子どもたちは今日の食事に感謝を捧げ、祈りの言葉を口にしてから食べ始めた。

 普段はなんやかやと騒がしい子どもたちも、食べているときばかりは静かである。

 せっせと食事を口に運んでいる。


「はぁ~おいしかったわ」


 息もつかず食べきったマリアベルが、思わず幸せなため息をつくと、イリスがにっこりとほほ笑んだ。


「それはよかったわ。今日もクララさんにパンを持って行くでしょう?本当は一緒にここに来られればいいのだけれど」

「クララは外に出られないから…」

「ええ、わかっているわ。この果物も持って行ってあげて」

「ありがとう、先生」


 食事を終えた子どもたちが遊び始めると、マリアベルも誘われて小さな女の子たちに絵本を読んであげた。

 男の子たちは床を転げまわったり、力比べを始めたりと騒がしい。

 イリスは食器を片付けながら、マリアベルの様子をそっと見守った。


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