◇13◇
「詩音ちゃん、起きて」
名前を呼ばれて詩音は瞼を上げた、目に映るのは翼の背中だ。
「寝てたでしょ?」
「……ばれた?」
「うん、ばれてるよ」
思わず詩音は盛大なため息をついた。寝るつもりはなかった。
それに、だ。寝て疲れが取れた冷静な頭であらためて自分の行いを振り返ると、羞恥でいっぱいになり、身悶えるようにぐりぐりと自身の頭を翼の背中に押し付ける。
「あーあ、今日一日でつーくんにギャン泣きしてるところ見られるし、おんぶされるし、そのまま寝ちゃうしで、面目丸つぶれだよ……」
「おれは珍しい詩音ちゃんをたくさん見れてよかったけどな」
「それ、逆の立場だったら言える?」
「……言えないね」
詩音は翼におんぶされる形で山を下っていた。滑り落ちて気絶した時に足をひねっていたらしく、その状態で歩くのは時間がかかる上に危険だということで今に至る。
しかし、だ。まさか翼におんぶされる日が来るとは思ってなかった。幼い頃は詩音が翼をおんぶしていたこともあったからなおさら。
あらためて翼はもう詩音にとって小っちゃい弟ではなくなったのだと思い知らされる。
「……はぁ、つーくんも男の子だったんだね。というか、身長伸びた?」
「何言ってんの。おれは昔から男だよ。あと、身長も伸びたよ。そろそろ姉ちゃんも追い越すかも」
「え、空ちゃんも!?」
「成長期の男子中学生を甘く見ないでもらえますか~? っと、着いたから詩音ちゃん、自転車、ここに座って」
山の麓に着き、翼は詩音を降ろして、近くに止めていた自転車を引いてくる。
「あれ、ハナ?」
「んにゃあ~」
自転車には先客がいた。バスケットから黒猫が顔をひょっこり覗かせる。
「ハナは最初から一緒に山を降りてたよ。詩音ちゃんがおれの背中で寝てるから静かにしててくれてたんだよ」
「そうだったんだ、ありがとね、ハナ」
詩音はハナを撫で、翼が自転車に乗ったのを確認した後、荷台に座る。
「それじゃあ、公園にいくよ」
「はーい、おねがいします」
翼が地面を蹴り、ペダルをこぐと夜風が詩音たちを包んだ。
田んぼの稲が風で波打つ音、鈴虫の夜をこだまする音、自転車をこぐ息遣いの音。
夜は真っ暗で、照らすものは空からの小さな光たちと心もとない自転車のライトだけなのに、怖くはない。静かに、でも、たしかに優しい音が夜が寂しくならないように奏でている。
忘れない。もう忘れてしまうものか。と、詩音は思った。
この特別な夜を、苦しくて愛おしかったこの時間は誰にも、自分にさえも奪わせない。
「つーくん、私、今日のこと忘れないよ」
「うん、おれだって忘れない」
「何度も、何度も、これからの未来で思い出すよ」
「ほんと、また忘れちゃったりしない?」
「忘れない。お母さんと過ごした思い出も、お兄ちゃんに手を握ってもらった思い出も、つーくんと空ちゃんと一緒に遊んだ思い出も、一華と約束した思い出も、全部」
詩音は自分に言い聞かせるように呟く。無意識のうちに翼の腰にまわしていた腕の力を強めた。
「そっか、それなら安心だ」
だんだんと公園に近づいて来ているのだろう。周りの景色が見覚えあるものに変わってきた。
「というか、詩音ちゃん。山の花畑を見ないで帰ってきちゃったけど、大丈夫だった……?」
結局、父と母の思い出の場所にはたどり着くことはなくここまで来てしまった。母が見たかった景色を見てはいない。
何かが変わるかも、詩音の壊れそうな心を繋いでくれるかもしれない。そんな想いで向かっていた。
でも、もう、大丈夫だった。
「うん」
大切な思い出の場所は詩音にだってある。
「私の花畑はここだから」
自転車が止まり、公園につく。東屋を中心に秋の花々が咲き始めていた。
ハナはバスケットから抜け出して、秋の花々に飛び込んでいく。
そういえば、と、自転車から降りた詩音は翼に声をかける。
「つーくんの告白の返事、結局まだちゃんとしてなかったね」
ガシャン!
ちょうど降りる途中だった翼は不意の言葉に動揺し盛大に自転車と一緒にバランスを崩して倒れる。
「しっ、詩音ちゃん!? えっ、今このタイミングで言うの!?」
「うん、そうだよ」
この際痛みなど気にしている余裕は翼にはなかった。顔をりんごのように赤くし、目を白黒させる。
そんな翼の様子を愉快そうに詩音はくすりと笑みを零し、少しでも倒れた翼の視線に合わせるように腰を下ろした。そして、目を閉じ深呼吸。
「あのね、つーくん、」
瞼を上げ、翼を見つめる。
……まさに詩音が返事の言葉を口にするその時だった。
「詩音……!」
「わっ、一華」
翼が起き上がるよりも先に、一華が詩音に飛びついた。
「よかった……。よかった、詩音……詩音」
もう離さないとばかりに詩音を強く抱きしめ、一華は何度も詩音の名前を呼ぶ。
名前を呼ばれる度、詩音は応えるように頷く。
そんな目の前で繰り広げられる光景を取り残されたように見る翼。なんとも絶妙なタイミングで詩音を奪われ、どうにかして取り返せないものかと頭をひねるが、今までずっと詩音との時間を占領していたのと、今この瞬間この二人に割って入ったら一華に一生恨まれそうな気がして肩を落としながら諦めた。後から来た姉が優しく肩を叩いてくるのがより一層切ない。
自転車で少し冷えた詩音の体に、一華の体温はちょうどよかった。詩音が見えて思わず駆けながら来たのだろう。ドクドクドクと、心臓の脈打つ音が早いのが伝わってくる。詩音が抱きしめ返すと今度は一華は自身の額を詩音の額に付けた。
それは詩音の母が泣き虫だった詩音にやってくれた大丈夫のおまじない。
「詩音、大丈夫?」
「大丈夫。大丈夫じゃなかったら、一華が一緒にいてくれるんでしょ? なら、平気」
額を離し、詩音は公園を見渡した。
「にしても、すごいね。夏とはまた違う花が一面咲いてる」
特に目を引くのは薄紫の花だ。どの花よりも多く咲き誇っている。
「山に行かなくったって、ここには詩音の花があるよ。だから詩音、これからは山に行くんじゃなくてここに来ればいいのよ」
「私の花?」
「そう、詩音と同じ名前の花。一ノ瀬さんのおばあさんが昔、山から持ってきたの」
「おばあちゃんが山からもってきた時は少しだけだったけど、年々時間をかけて増やしていったみたい。もしかしたら、今はもう詩音のお母さんが見たかった花畑と同じくらい咲いているんじゃない?」
詩音と一華が会話をしていたら空も加わってきた。
紫苑の花。自分の名前の由来にもなっていると昔、親から聞いたことがあったが、こうして一面咲いているのを見るのは初めてで不思議な気持ちだった。
「公園のすぐ横にある川では俺の名前の由来になった花も初夏に咲くらしいぞ」
「あ、お兄ちゃん」
空の後ろから彩夢も姿を現した。少し気まずげに目を逸らし、後ろに何かを隠したのを詩音は見逃さなかった。
「ねえ、今、何隠したの?」
「えっと……、ごめん。これ、先に読んだ。たぶんほんとは一緒に読むべきものだったと思う」
兄の目をよく見ると赤くなっていた。声も鼻声になっているし、泣いたのだろうか?
詩音も人のことを言えないくらい目元も赤いし鼻声ではあるが、兄をそうさせたものには興味があった。
彩夢が詩音に差し出したもの、彼の手に握られているものに視線を向けると詩音は驚きで目を見開いた。
絵本だ。
詩音が幼い頃、何度も何度も読んだ大切な思い出の絵本。
でも、その絵本は記憶のものとどこか違う。違うのだ。
「これは……?」
「母さんが最後に俺らに残したもの。言花の猫の続きだ」
「なんで、今になって……?」
「絵本を入れていた箱が今までずっと鍵かかってたんだ。それがさっき開いたんだ。まあ、また今度詳しく話すから、とりあえず、今は読んでほしい」
彩夢にお願いされ、詩音は絵本を開く。
懐かしい文字、懐かしい絵。一つ一つの母の影が残っていて、もういないのに記憶の中の母が優しい声で絵本を読み始めた。




