◇8◇
学校から帰宅した一華は思いつめた顔で立っていた。
ドアの先、リビングからは母と男性が談笑し、穏やかな時間を過ごしている声が聞こえてくる。
男性は一華の父親ではない。母の再婚相手。
明日から休日。それに合わせて、再婚相手の男性がこの家に住む準備を終わらせるのだ。もう、ここにいるということはたぶん今日からこの家の住人になるのだろう。
良い人だとは思う。この人のおかげでいつもピリピリとしていた母が憑き物が取れたように落ち着いたから。あんな温かい表情をする母を見るのは久しぶりだった。
「あら、一華、お帰りなさい」
「一華ちゃん、お帰り」
ドアを開けると二人は笑顔で一華に声をかけてくる。
絵に描いたような温かい家庭だとは思う。
「ふふっ、この人ったら、明日からなのに我慢できなくて仕事が終わってからそのままこっちに来たみたいなの」
「こら、一華ちゃんの前でばらすのはやめてくれよ。恥ずかしいじゃないか」
たぶん、一華がずっと望んでいた空間なのかもしれない。
……だけど、やっぱり違うのだ。
「ねぇ、話したいことがあるの」
一華は目を合わせないようにしていた母の瞳を見つめて言った。
これから一華が言おうとするのはこの温かな空間を壊してしまうものだろう。ごめんなさいの気持ちでいっぱいになる。でも、これは一華にとっては必要なことなのだ。
「その人がお母さんと結婚するは別に構わない。だけど、その人がわたしのお父さんになるのは、ごめん、無理です。だって、わたしのお父さんは一人だけだから」
声が震える。目頭が痛い。息をする度、言葉にする度、怖いという気持ちが心臓で叫ぶ。
これはたぶん付けが回ってきたのだ。自分の気持ちを飲み込んで、言葉にしないで、ただ従っていたぶんの付けが。
「お母さん、わたし、お父さんのところに行くね」
自分の言葉を受け取ってもらえないかもしれない。理解してもらえないかもしれない。
「お母さんはもちろんお母さんだよ。でも、わたしはお母さんの新しい家族にはきっとなれない」
こんなことを言ったら失望されてしまう。見捨てられてしまう。ダメな子だと思われてしまう。
怖い。怖くて仕方がない。
「お母さんはお母さんの道を進んで。わたしは今度は自分の意思でわたしの道を選ばせて」
でも、どうしてだろう? 心が少しずつ軽くなっていく。
「大丈夫。お別れじゃないから。わたしがお母さんの子供であることは変わらないから。親子の絆はなくならないから」
自分自身の言葉を口にする度、一華を縛っていた言葉たちが解けていく。
「だから、だからね、お母さん」
一華は母の目を見て、自身の気持ちを、想いを、言葉にする。
「ありがとう。またね」
母に背中を向けて、一華はリビングを出る。最後の言葉を口にし終わった時、母は泣き崩れたように見えたが、振り返るわけにもいかなかった。振り返ったら、母の顔を見たら、決意が揺らいでしまう。
スクールバッグを肩にかけてスリッパからローファーに履き替える。
荷物は他にない。喫茶店で父と話した時から準備はしていた。
「一華ちゃん!」
玄関のドアノブに手をかけたところで声をかけられた。
「母のことはよろしくお願いします」
一華は振り返り、母の夫になる男性に頭を下げる。
「一華ちゃんは僕と家族になるのが嫌だったのかな……?」
「そういう聞き方はずるいと思いますよ。……でも、そうですね。さっきも言ったようにわたしの父と母は世界で一人だけです。新しい家族の一員になることはできません。そこにはわたしの居場所はないです」
顔を上げて男性の問いに答える。同時になぜだか分からないが父を思い出して泣きそうになった。喫茶店で疲れた目をしながら、でも僅かに嬉しそうに口元をほころばせ、一華と話す父を。
「それに、最近気づいたんです。母だけじゃなくて、父も案外寂しがりやってことに」
泣きそうになりながらも一華は笑顔で言った。
「ああ、君たち家族はみんな寂しがりやだったんだね……」
男性は一華の顔を見て、頭を搔きながら、諦めたような困ったような笑みを浮かべた。
もう、彼は一華を止めることはしないだろう。
「それじゃあ、行ってきます」
そうして一華は玄関を出た。外は茜色に染まっていて、帰る時間だよと知らせてくれる。
でも、帰る場所はもうここではない。
自分の家だった場所から出た時、一華は不思議と心が落ち着いていた。
だけど、ここでゆっくりしている暇なんてない。
胸元を握りしめて、次のやるべきことに意識を向ける。
「詩音、わたし向き合ったよ。詩音がいたからできたんだよ。だから今度はわたしが――」
詩音の隣に行くね。




