◆大丈夫の綻び◆
苦しくて、息が止まりそう。
水の中にいるみたいで、見えるのに、聞こえるのにどこか世界がぼんやりとしてる。
「お母さん……?」
ぼやける視界の先、ひどく懐かしい姿が見えた。
病院の一室。その部屋にいるのはもう会えない大好きな人。
おかしい。この人は詩音の思い出たちと一緒に遠ざけたはずなのに。
『だめね……。彩夢にあんな苦しそうな思いをさせちゃうなんて』
なんで? お母さんは悪くない。悪いのは酷いことを言うお兄ちゃん。
『詩音、あなたまで苦しそうな顔をしないで』
だって、お兄ちゃんがお母さんを傷つけたんだよ? お母さん、もうすでにぼろぼろなのに、傷つけたんだよ?
『ほら、お母さんは大丈夫よ、詩音。ね、笑顔になって?』
お母さん、知ってる? 私、もう中学生なんだよ? お母さんが思うほど子供じゃない。お母さんが大丈夫じゃないことぐらい知ってるし、分かるよ。
『……もう、彩夢も詩音も大事なところは黙っちゃって。あの人に似ちゃったのかしら?』
お父さんに似てないよ。私はちゃんとお母さんに伝えるべきことは言葉にしてるよ。
『プロポーズの時も大変だったのよ。ずーっとあの人黙っちゃって』
ほら、やっぱり似てない。大切なことは私、ちゃんと言うもん。
『似ているわ。少しでも罪悪感や後ろめたさがある大事なことは言えないところ』
…………。
『でも、あの場所があの人に勇気を与えてくれたのかしら? 最後はちゃんと、想いを伝えてくれたわ。プロポーズの場所、幼い頃は二人でよく遊んでいた場所だったの。土砂崩れで今は立ち入り禁止になっちゃったけど』
もう、そこには行けないの?
『ええ。……だけど、ほんとに、できるのなら、またあの景色を見に行きたかったわ』
お母さんが見に行きたかった、けど、見に行けなかった場所。
もう、叶うことはできない一方通行なお願い事。
そうだ。それなら行かなくちゃ。
水の中に沈んでいた意識が少しずつ浮かんでくる。
瞼を開けるとオレンジの光が目に入ってきた。自習中に寝てしまっていたのだろう。夕日が世界を紅に染めていた。教室には誰もいない。
なぜ、あんな夢を見ていたのだろうか?
「真樹があんなこと言ったからだ」
詩音が拒絶していたものを真っ向から突きつけてきたからだろう。
そのせいで少しずつ、少しずつ気にしないようにしていた綻びが目につき始めてきた。
ハナと出会ってから起きたこと、幼なじみ、兄の変化、夏休み……。
最近のことであったり、もっとずっと前のことであったり、いつの時のか分からないものも、断片的な映像として突然脳裏で再生される。
胸が苦しくなって、頭も痛くなる。だけど、もう止まらない。
よろつきながら机の物を片付けて、詩音は家に帰ろうとする。
……いや、違う。
行き先は家ではない。
『またあの景色を見に行きたかったわ』
父と母の思い出の場所。
行かなきゃいけない気がする。思い出さなきゃいけない気がする。
どうしてそう思うのか、詩音は自分でもよく分かっていない。だけど、突き動かされるように、勝手に体が動いていた。




