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「電話はもう大丈夫なのか?」
アンティーク家具で装飾され、喧騒から切り離されたかのような落ち着きのあるカフェ。客層は紳士淑女という言葉が似合う成人男性、成人女性と、年齢層が高めではあるが、一華は浮かぶことなく馴染んでいた。
「うん、大丈夫だよ。待たせちゃってごめんなさい、お父さん」
というのも、目の前に座っている父に一華は幼い頃からよく連れて来られていたからだ。
「詩音と言っていたが、もしかして野原さん家の娘さんか……?」
目の前で話しをしていたから嫌でも耳に入るだろう。しかも、直前まで話していた話題ならなおさら。
一華は今日、二つの用事があって父と会う約束をした。その一つが詩音のこと。
「そう、野原詩音について話してたの。ねえ、さっきも言ったけど、どうして詩音のお母さんが亡くなったこと教えてくれなかったの……?」
詩音の母は、一華の父の病院で診ていて、そして亡くなった。
一華は何も知らなかった。知らされてなかった。
というより、詩音がよく病院に訪れるのは詩音自身が大きな病を患っているのだと勘違いしていた。今思うとあれは母親のお見舞いに来ていたのだろう。
「患者の個人情報……特に病名や生死などは話すべきものではないだろう。それに、野原さんが亡くなった時……一華は、君たちはもう家にいなかったから話す機会なんてなかった」
中学に入学してすぐの頃、一華の親は離婚し、一華も病院に行くことはなくなった。
たしかに知る機会はなかった。
だが、事実を述べられたからと言って納得できるわけではない。
一華の表情を見て不服なのに気づいたのだろう。父は意識を逸らすために話題を少しずらす。
「それで、一ノ瀬と言っていたが、もしかして電話の相手は一ノ瀬さんところのお孫さんか? お姉さんの方は一華と詩音さんと同い年で、同じ小学校だっただろう?」
「お孫さん……? 一ノ瀬空っていう子だけどお父さん、知っているの?」
「ああ、やっぱりそうか。その子の祖母がうちの病院に通っていたんだ」
「おばあちゃんが通ってただけで、その孫も覚えているってこと?」
「もちろん。自分が今まで診た患者さんのことは全部覚えているさ。一華だって話したことあるだろう?」
そんなの覚えていない。当たり前のように言う父の姿に一華は少し胸が痛くなった。この人と自分の頭の出来の違いをあらためて思い知らされる。一華が努力してやっとできるものも、父にとっては普通のことなのだ。
「……ああ、すまない。どうやら今のは私の基準だったみたいだね。でも、うん。一華が全ての患者さんを覚えていなくても、一ノ瀬さんは流石に知っていると思うな」
ただ、父は自分が他と比べて突出しているという自覚はあるらしく、気づいたらフォローするようにはしている。そのフォローが、優しさが、より相手を惨めにさせているという自覚がないようだが。
凡才の気持ちが分からない天才。故に、最初から期待というものをもっていない。
それが家庭を歪ませた要因の一つだろう。
母親の期待という重圧から解放された今だからこそ、一華は気づく。
母は、きっとこの人に期待されたかったのだ。一華を育てて、一華を優秀な子に育てて、一華を通して、自分も褒めて、期待されたかったのだ。
「そんなに有名な人だったの?」
「有名もなにも、中学受験を拒否していた一華を母さんが無理やり受けさせようとしていたことがあっただろう。あの時、強制するのはやめろっていきなり怒鳴りこんできたおばあさんがいたろ?」
「……あっ、あの人だったんだ」
一華は思わぬ出来事と繋がって驚く。一華の両親が離婚するきっかけの一つにもなった中学受験。病院によく一華と母が来ていたから噂にもなっていたのだろう。噂を聞きつけた空の祖母……一華にとっては名前も知らない老人が突然、自分の母に向かって「受験なんかさせないでもっと自由に遊ばせろ」と叫んでいたのを覚えている。
自分の気持ちを代弁してくれて嬉しいとか、突然怒鳴って怖いというより、何が起きたのか分からずただただ混乱していた記憶がある。
「思い出しただろ?」
「うん」
なるほど、一ノ瀬空も破天荒で奇行が目に付く少女ではあったが、あれは祖母譲りだったのか。一華は一人で納得する。
珍しく一華の反応も、話の食いつきも良かったからだろう。一華の父は口元をほころばせながら話を続ける。
「これも院内では話題になっていたから話して大丈夫だろう。一ノ瀬さんは野原さんとも交流があったらしく、ひと騒動起こしたことがあるんだ」
「詩音のお母さんと、一ノ瀬さんのおばあさんが?」
「ああ……。といってもこれは過程はどうであれ、良い話でもあるけどな」
ことの始まりは一ノ瀬祖母が行方不明になったことから始まった。
いつもは病院での検査が終わったら夕方ごろまでには帰ってくるはずなのに帰る気配が一向になくて、家族が心配になり、病院に電話をかけたらしい。
しかし、病院にも一ノ瀬祖母は見当たらず、一同総出で捜索することになったようだ。
手当たり次第、思い当たる場所は探したが、発見されず、警察に捜索届をだすと決まった時、現れたのだ。
『なに、あんたたち、こんな夜遅くまでうろついてんだい』
泥だらけになった一ノ瀬祖母が病院の受付待合所に来たのだ。
「それが詩音のお母さんとどう繋がっているの……?」
「どうやら、一ノ瀬さんは野原さんに花を見せるために山に行ってたらしいんだ」
「花を、見せるため?」
「そう。野原さんがもう病院から出るのも難しくなってきた時、一ノ瀬さんに山で見かけた花畑をもう一度見たかったことを話したんだ」
「それで、山に?」
一華が聞くと、父は苦笑いをしながら頷いた。
「山から花を運んで病院近くの公園に植えようとしたんだよ」
公園までなら詩音の母も見に行けるだろうとスコップ片手に運んできたのだ。
結局は花畑のような花々を見せることは叶わなかったが、詩音の母は嬉しそうに笑っていたらしい。
「きっと、来年、再来年……いつになるか分からないけど、自分の子どもたちがその景色を見れるならこんなに嬉しいことはない。……って」
一華は記憶の中の詩音の母を思い出す。確かにあの優しい人なら、たとえ自分がその時にはいなくても、嬉しいと微笑むことができる気がした。
「……っと、すまない。かなり話が逸れたな。それで、もう一つ大切な話があるんだろ?」
話しがひと段落ついて、一華の父は本題に入る。
空気が少しぴりついた気がして、一華も自然と背筋が伸びた。
「うん。そのことなんだけど―」
そうだ。ここからが勝負所。父の目をしっかりと見て、緊張で声が多少上ずりながらも一華は話しを進めた。




