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なんだかいけないことをしているような気がして、翼の緊張が止まらなかった。
「翼、何ビビってんのさ! 受験当日じゃなくて、説明会だぞ?」
仲の良い友人に背中を叩かれ、翼は曖昧に笑う。
翼が緊張している原因は友人が言ったようなことではない。別の理由からきている。
「いや、知り合いの学校だから、なんか変な感じになって……」
そう、ここは詩音が通っている高校。翼は詩音の高校の学校説明会に参加していた。
もとから詩音の通う高校は視野にはいれていたが、別の目的で訪れることになるとは思っていなかった。
『学校説明会で詩音を見つけるか、詩音をよく知る人を見つけてきて!』
翼は、姉が自身に言ってきた言葉を思い出す。ただ説明会に参加するのではない。詩音を見つけるか、見つける手がかりを探さなければいけないのだ。
見ると、誘導係や受付を在校生たちがやっている。もしかしたらこの中に詩音がいる可能性だってある。
しかし、初めての場所で、たった一人のいるかいないかも分からない知人を見つけるのは骨が折れる。誰かに聞くのが手っ取り早いだろう。
詩音は中学からの在校生だから顔も広いはず。
「すぐに見つけるから、待ってて詩音ちゃん」
……そう思っていたのだが、翼の予想以上に詩音探しは難航した。
純粋に学校説明会に参加してきた友人に合わせながらだと行動範囲が大幅に狭まり、思うように動けない。
友人の目を盗んで、やっと校内を歩く在校生に話しかけることができたかと思えば、見事に全員が詩音を知らないと口を揃えて言う。
校内案内も終わり、あとは自由行動。一通り見終わった友人は飽きてきたようで、もう限界だった。
「や〜っと電話通じたと思ったら、詩音体調崩してたの!? 最近、根詰めすぎ! 塾でも言ったけど、勉強もほどほどにね!」
しかし、偶然、天が翼に味方したのか、帰ろうと下駄箱で靴に履き替えていた時、聞き慣れた人物の名前が裏から聞こえた。
「ごめん、ちょっと先行ってて。トイレ行ってくる」
「あっ、おい。一ノ瀬!?」
これが最後の頼みの綱だった。翼は適当な理由を言って、声がした方へと向かう。
聞き間違いではないと信じたい。人違いではないと信じたい。
翼は下駄箱から入ってすぐの廊下で、一人歩いていた女子生徒に話しかけた。きっと先程の声はこの人のはず。
「あのっ! すみません!」
「ん? どうしたの? 迷子になっちゃったのかな……?」
「……いや、そうじゃなくて。先輩」
まだ入学も決まったわけでも、受験に合格したわけでもないのに、先輩と呼ぶのは違和感がある。ましてや相手はたぶん自分が高校生になった時にはもうこの学校を卒業している相手なのだから。だけど、そんな些細なことを気にしている余裕は翼にはなかった。
「今、シオンって言っていましたよね……? もしかして、詩音ちゃん……野原詩音さんを知っていますか?」
「おっ? なになに? 詩音に年下の彼氏~? あっ、アタシ詩音の親友の橘真樹! よろしくね〜!」
「えっ……!? よ、よろしくお願いします。てか、いやっ、詩音ちゃんの彼氏とか、そうじゃなくて、あのっ……おれ、一ノ瀬翼っていうんですけど……」
「一ノ瀬翼?」
真樹の「詩音の年下の彼氏」という発言で翼は狼狽えてしまうが、どうにか沸騰して混乱している脳を無理やり動かして話しを進めるために自分の名前を告げる。
しかし、翼が自身の名前を名乗った瞬間、冗談めいた口調でおどけていた真樹の様子が変わる。
「ねえ、あんたって詩音とヒーロー活動してたっていう一ノ瀬翼?」
とげとげしい口調、目を細めて翼を睨む。その豹変ぶりに翼は思わず一歩後ずさる。
「は、はい」
「……もう、関わらないで」
「……えっ?」
「もう、詩音に関わらないであげて。これ以上、詩音に過去を思い出させないで」
真樹が翼に向ける瞳には敵意が宿っていた。後悔と悲しさが混ざった明確な怒りは翼に噛み付く。
「ど、どういうことですか!? ちゃんと理由を言ってくれないとおれだって困ります」
「じゃあ、理由を言えばいいの?」
「それは……」
「詩音はずっと苦しんでるの」
震える声が翼と真樹の沈黙に響く。
「苦しんでるって……。もしかして、詩音ちゃんのお母さんのこと……?」
「そこまで知ってんなら言わなくても分かるでしょ?」
分かると言えば分かる。でも、翼は全てを知っているわけではない。翼は自身の母を亡くしたばかりの詩音を、それからどうなってしまったのかを知らない。だからきっと真樹と翼の「分かる」は違う。
「……教えてください。おれは小学生の頃の詩音ちゃんしか、知らない。あなたの知ってる詩音ちゃんはどんな人だったんですか?」
翼の知る詩音はお姉さんぶって自分を子供扱いしてくるけど、隣で一緒に笑ってくれる優しい女の子。だけど、真樹の知る詩音は全然知らない人なのかもしれない。翼には見せてくれなかった姿を真樹は知っているのかもしれない。
知りたい。知らなくちゃいけない。
翼の眼差しは真樹を貫く。
「……マイペースで、でも、ちゃっかりしているところもあるよく笑う子」
ぽつりと真樹は呟いた。
「アタシ、詩音とは同じクラスだったけど、席は離れていて、入学したばかりのときはお互いのこと知ってすらいなかったと思う」
話すのは翼の知らない出会いの話。
「だから、アタシが詩音を知ったのは……友だちになったのは部活の時」
バドミントン部に入部した詩音と真樹は同じクラスだからという理由だけで、ペアを組まされた。
「同じクラスって言っても親しいわけでもなかったから正直、最初は気まずくて嫌だったんだ。ほら、詩音って大人しいから何を喋っていいか分からなかったの」
でも……と、真樹はあの頃を思い出して笑う。
「詩音、すっごいキラキラした笑顔でバドミントンをやっていたの。楽しくてしょうがないって感じで」
ああ、この子は本当に好きなんだな。その姿を見ているうちに自然と真樹は詩音に心を開いていた。
「アタシ、詩音とならどこまでも強くなれる、強くなりたいって思ったりしてたんだ」
そう、思っていたのだ。
「だけど、詩音は部活をやめたの」
夏が終わるころ、詩音は真樹と一緒に立っていたコートから去ってしまった。
きっかけは、理由は、その時初めて聞いた。
「……ねぇ、あんたは詩音が泣いたことを見たことある?」
なんでペアなのに、相棒なのに、教えてくれなかったの? 詩音は本当にそれでいいの? 自分にできることはないのか?
言いたいことは沢山あった。沢山あったはずなのに。
「アタシは、ないの。一番辛かったはずなのに、あの子は笑ってたの」
真樹は何も言えなかった。
無邪気な眩い笑顔ではない。歪な今にも崩れそうな笑顔を真樹に向けていたのだ。
「苦しそうに笑ってたの」
いっそのこと、泣いてほしかった。それなら涙を拭うことぐらいならできた。少しでも辛い気持ちを背負うことができた。
「だけど、アタシは何もできなかった」
その歪さを前にして、真樹は何をすればいいのか分からず、見なかったことにした。大丈夫ではない詩音を見なかったことにした。
ごめんと笑って部活をやめる詩音に何も言えなかった。
「アタシは詩音の苦しみを取り除くことはできない。けど、遠ざけることはできるから」
逃げ出してしまった真樹ができることは大丈夫だと振る舞う詩音を肯定することだ。振る舞えるように害あるものは遠ざけるだけだ。
「大丈夫じゃないのに、無理して大丈夫なフリをする詩音をアタシはもう見たくないの」
もうこれ以上、彼女が壊れていくのを見たくない。
「だから、お願い。もう、詩音に関わらないで。詩音に過去を思い出させないで」
真樹は涙ながらに翼に言った。
年上なのに、とか。初対面なのに、とか。関係なかった。
真樹は泣かない親友の代わりに、不甲斐ない自分を恨み、泣いた。
もし、少し前の翼だったら、目の前の少女の想いの強さに、涙に動揺して、首を縦に振っていただろう。
だけど、今は違う。
「ごめんなさい。それは無理なお願いです」
翼にも譲れないものができた。譲れないものを譲れないと言葉にできるようになった。
「おれは詩音ちゃんが好きです。詩音ちゃんと過ごした時間をなかったことにはしたくない」
二人しかいない静かな廊下に翼の声が響く。
同時に微かに真樹の息をのむ音も翼は聞こえた。
翼の真正面からの断りに怒っているのか、悲しんでいるのか、迷っているのか分からない。
ただ真樹は瞳から涙を零したまま表情を変えずに翼を見つめる。
こんな時、姉だったら、あのヒーローなら、なんて言うだろうか?
「橘先輩、もう一度キラキラした笑顔の詩音ちゃんを見たくはないですか?」
姉を思い浮かべていたら自然と言葉が出ていた。
「……え?」
真樹の瞳が揺れた。表情が崩れた。
ああ、そうだ。方法は違っていたのかもしれないけど、きっとお互い願っていることは同じ。
翼は姉である空と同じように、屈託ない笑顔を浮かべて言った。
「一緒に詩音ちゃんを笑顔にしましょう」




