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◆私の、大丈夫な世界◆


 最近、また意味もなく外を眺めたりすることが増えた気がする。


 詩音(しおん)は洗濯物をベランダに干している途中、ふとそこから見える田園風景に目をやった。

 随分と伸びた稲は風が吹くたび緑の波が揺れる。いつも見ている景色のはずなのに、時折懐かしさを感じてしまうのだ。


 足元をくすぐる稲の感触、水を含んだ緑の匂い、鳴り響く蛙やひぐらしの合唱。

 身体に染み付いた記憶は鮮明に詩音をあの頃へと引き戻す。

 しかし、振り返るといるはずの誰かがいない。そこに誰かいたのだ。いた気がするのだ。なのに、記憶からごっそり抜け落ちたかのように違和感だけが残る。


「うっ……」


 途端に記憶に霧がかかり、ノイズが頭の中で響き渡る。

 詩音は思わず頭を抱えてしゃがみ込む。胸が苦しい。息がうまくできない。

 ここ数日、詩音の身に起きている現象。原因は分からない。


 それだけではない。物忘れも激しくなっている。

 真樹と話した時、どこか会話に齟齬が生じていて、真樹は明らかに詩音に身に覚えのない過去の話をしていた。

 幸い忘れているのは日常生活の一部。生活に影響が出るほどのものや、受験勉強で覚えたものを忘れたわけではない。


 だから、大丈夫。問題は、ない。こんな些細なことで人に迷惑をかけたくない。


 詩音は立ち上がり、家事を再開する。

 洗濯物を干し終えたら今度は部屋の掃除。詩音は一階へと階段を下りる。

 そういえば、と、詩音はリビング前のキッチンで足を止める。

 気づいたら起きていた変化は自分だけではなく、周りにも起きていた。

 流し台の横には乱雑にお皿が積み重なっている。詩音の兄、彩夢が洗ったのだ。


 家事を手伝うことがほとんどなかった兄が積極的にやってくれるようになったことは詩音からしてみれば大きな変化だった。

 詩音が受験生になったということをやっと理解して負担を減らすために手伝ってくれているのか、それとも詩音が物忘れした記憶の中に理由があるのか……どちらにせよ、詩音にとっては喜ばしいことだった。


 ……ただ、兄の雑なところは相変わらずではあるが。

 詩音は洗い残しであろう泡のついた皿を再度洗い流す。


「今日はお庭も掃除しよ……」


 皿洗いを終えた詩音は思い出したかのように呟く。

 ずっとほったらかしにしていたため、庭は雑草が生え散らかった目も当てられない惨状になっている。塾に行くまで少し時間があるから進めなければ。

 できれば数日後までには外を含め、家をきれいにしたかった。

 なぜなら詩音が心待ちしていた人が帰ってくるのだから。


「お父さん、早く帰って来ないかな?」


 詩音は微笑みながら父の帰還を心待ちにする。

 少しでも綺麗な状態で父との時間を過ごしたいし、褒めてもらいたい。


 毎年、誕生日のときは家族で過ごすため、出張で忙しい父は時間の合間を縫って帰ってくる。今年は彩夢がサークルの仲間たちに祝ってもらうからと拒否をしたため、彩夢の誕生日のときは父も帰ってこず、詩音は心底兄を恨んだが、自分の誕生日は違う。


 何を父に話そうか。学校のこと塾のこと家のこと。

 あと、報告はしたけれど、父が家にいない間、飼い始めたハナにも会わせてあげたい。

 最初は兄の我儘で猫の面倒を見る羽目になっていたので乗り気でなかったが、今はもう愛着も湧いてしまい、ハナとの生活が当たり前になっている。父も「新しい家族に会うのを楽しみにしているよ」とチャットで言っていた。


「あれ、そういえばハナは……?」


 さっきまでリビングで寝転がっていた気がするが今はいない。でも、詩音に名前を呼ばれたのは聞こえたようで、どこからか鳴き声が聞こえてくる。

 近くではないからリビング内にはいない。聞こえてくる方向的に和室だろうか?

 和室に向かうといた。いつものように積み上げられた洗濯物の中……ではなく、その奥。


 仏壇の前にハナがいた。


「ああ、そうだ。こっちの準備もしなくちゃだね」


 ヒヤリと温度のない声が詩音から零れた。


 父がこの時期に帰ってくるのには詩音の誕生日以外にも、もう一つ理由がある。

 九月は詩音の生まれた月だけでなく、彩夢と詩音の母の亡くなった月でもある。

 こちらも毎年家族でお参りをしている。


「夏休みなんて一生終わらなければいいのに」


 早く九月になって父に会いたかったはずなのに、気づけば詩音は矛盾を口にしていた。




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