◇1◇
突然走り出して夜に消えた詩音を、翼は探していた。
人の波に逆らって詩音が消えた方へと向かう。せっかく花火が上がっても一緒に見る人がいなければ意味がない。
ああ、そう言えば六年前の夏祭りも詩音ちゃんと花火を見れなかったな……。
夜空に咲く大輪の花を横目に翼は昔を思い出す。
あの時も詩音は他の人の元に向かって翼の前からいなくなった。今回こそは一緒に見れると思ったのに。鼻の奥がツンとして無性に泣きたくなった。だけど、この年にもなって泣くのも、泣いた姿を誰かに見られるのも嫌で、翼は歯を食いしばって耐える。
それにしても詩音はどこに行ってしまったのだろうか? 一通り露店が立ち並んでいるエリアを探す。
「まさか、帰っちゃったとか……!?」
それはないと信じたい。仮に帰ってしまったとしても、翼は詩音に会えない。何故なら家がどこにあるかも知らないから。
昔から詩音と会う時は決まって秘密基地の神社だった。たまに家で遊ぶとしても詩音は家にお兄ちゃんがいるからやだといって、いつも空と翼の家で遊んでいた。
幼い頃から当たり前だと思って気にしていなかったが、もしかして自分は詩音のことをあまり知らないのではないだろうか?
翼は駆けていた足を止める。汗が頬をつたってアスファルトに落ちた。
「おれは……」
そういえばごくたまに話題にでる詩音の兄とはどういった人物なのだろうか?
詩音が話すのを嫌がって何も知らない。
そういえば親の話は?
母親の話をよくしていたが、それも小学校高学年になってからは一切しなくなり、代わりに一華という少女の話をするようになった。
クラスメイトは? 習い事は? 塾には行ってる? 放課後に遊ぶ時以外は何をしていたの?
「詩音ちゃんの何を知ってたんだ?」
放課後一緒に遊んでた時はおしゃべりすることはあったけど、大抵は空と翼、姉弟の家での話だった。たまに違うことが話題に上がっても、学年が違う翼は分からないことだらけでいつも不貞腐れているだけ。
翼は、放課後に姉と一緒に遊ぶ詩音しか知らない。
だから、詩音が小学校卒業と同時に消えてしまうまで、翼は詩音が中学受験をしてたなんて気づけなかったのだろうか?
そして、それは再会した後も変わらない。きっと前と同じように知らないままでいたら詩音はまた翼の前から消えてしまうかもしれない。昔は知らないままで良かったのかもしれないが、今は違う。翼は詩音と離れたくない。一緒にいたい。だからもっと詩音のことを知らなくちゃいけない。
いつの間にか花火を咲かせなくなった夜空を睨みながら翼は頭をかく。
その時だ。
「にゃー」
どこかで馴染みのある鳴き声が翼の耳に届く。祭りの喧騒でかき消されてしまうはずなのにしっかりと翼はその声を捉えた。
「ハナ!?」
鳴き声が聞こえた方、祭りとは正反対の静かな人影のない路地裏に黒くて小さな影が揺れていた。
影は翼に背を向ける。今から詩音がいるところまで案内してくるとでも言うかのように。
翼は見慣れぬ路地裏だったが、迷わず飛び込む。薄暗く足元もはっきり見えない。点滅する電灯とかろうじて見える小さな影を頼りに進んでいく。
「……って、あれ?」
狭い路地を通り抜け視界が広がる。いつの間にかハナだと思っていた影は消え失せ、翼は見覚えのある道路にたどり着く。
そして、見つけた。視界の端に詩音を捉える。
電柱に寄りかかり、息を荒げ、俯いている少女がいる。詩音に間違いない。
なんだか先ほどよりも様子がおかしいように見える。
「詩音ちゃん! どこいってたの!?」
翼は駆け寄り詩音に声をかける。そして、息を呑んだ。
「つーくん……?」
目の前にいる詩音は今にも消えてしまいそうなくらい危うさがあったから。
「……っ! 大丈夫? 何があったの?」
「つーくんは心配しなくていいよ。おねーさん、ちょっと疲れただけだから……」
口元に笑みを浮かべるが、震える彼女の手は大丈夫ではないと言っている。
ずるい。翼は唇を噛み締める。
こういう時に限って子供扱いしてくる詩音が、自分をおねーさんと言ってくる詩音が、ずるい。
でも、今は昔と違う。翼は詩音との関係に一歩踏み出すことを決意する。
翼は詩音の両肩に手を置き、まっすぐと見つめる。
「詩音ちゃん、おれ、もう、詩音ちゃんが思うような子供のつーくんじゃないんだよ」
今こんな状態の彼女にいうのは不謹慎かもしれない。けれど、詩音を想う気持ちは抑えられなかった。
「おれ、詩音ちゃんが好きなんだ。一人の男として見てほしいんだ。だから、心配しなくていいなんて言わないで。もっと……おれを、頼ってよ」
ただの子供だった翼ではない。過去の関係を振り切って翼は新しい関係を求める。今の自分をこれからの自分を見てほしいと切に願う。詩音の服の袖を引いて見上げる翼ではない、同じ視点に立って見つめ合う翼を。
街灯が静かに二人を照らす。揺れる影は曖昧で夏の夜に今にも消えてしまいそう。
翼の言葉で詩音は目を大きく開いた。そして、フッと何かが抜け落ちたかのように、どこか安心したかのように、綺麗に笑う。
「ああ、良かった。つーくんだって未来を、これからを、大事にしたいよね」
「う、うん。おれだってこのままでいるのは嫌なんだ」
照れもせずあまりにも完璧な笑みを浮かべて告白を肯定する詩音に翼は面食らう。むしろ今になって自分が言ったくさい言葉を思い出して赤面する。
「そっかぁ、そうだよね……。あのさ、つーくん……このまま二人で一緒に『大人』になろうよ」
詩音は両腕を翼の首にまわし、自分よりも少しだけ高い位置にある翼の顔を引き寄せる。
「詩音ちゃん……?」
詩音の熱い吐息が翼の頬を撫でる。詩音が何をしようとしているか翼でも分かる。分かってしまう。
心臓が早く大きく暴れ始める。セミの鳴き声も、遠くで聞こえるはずの祭りの喧騒も、塗りつぶされる。そして、うるさい鼓動を抑えて翼も自身の顔を近づける。
だけど、翼は見てしまった。光の灯っていない詩音の虚な瞳を。
彼女の瞳に翼は映っていない。このまま彼女を求めてはだめだ。きっと後悔する。大人になってはいけない。彼女を大人にさせてはいけない。
「……っ! だ、だめ、だよ……! 詩音ちゃん」
翼は詩音の両肩に手を置き、無理やり引き剥がした。
「どうして? つーくんは大人になりたくないの?」
「なりたいよ! 早く大人になりたいよ! でも、これはだめだよ! だめなんだ!」
翼は叫ぶ。詩音の願いを拒絶する。
「それに、おれ、気づいちゃったんだ。おれはまだ詩音ちゃんについて知らないことが沢山ある。今も、過去も……だから、ねえ、教えてよ」
翼が知ろうとしなかった過去を、空白の時間を、まだ詩音が見せていない今を、求める。
もう一度翼は詩音に向けて手を伸ばす。伸ばして、求めて、願って、そして――届かない。
「後ろを振り返っちゃだめだよ……。つーくんは知らないままでいいよ」
詩音は一歩下がり、手を後ろに組んで静かに笑う。街灯の照らす光から外れた彼女は暗闇に落ちる。
「つーくん、さようなら」
一瞬だけ姿を現した詩音の手に翼は肩を強く押されて、よろめき、尻を地面に打ち付ける。
暗闇にいるのに、光なんてないのに、あまりにも綺麗に言うものだからその言葉を遮ることも、急に伸びてきた手を躱すことも、掴むこともできなかった。言わせてはいけない、聞いてはいけないはずの言葉を翼は許してしまう。
「っ! まって!」
闇に、路地裏に消えてく詩音を翼は追いかける。だけど、もう、そこには詩音の姿はどこにもいない。
「何やってんだよ……おれはっ!」
何も掴めることができなかった手を翼は強く壁にたたきつけ、自分を恨んだ。