◇12◇
そうだ。思い出した。八月十五日の夏祭り。あの時も一華に声をかけて最初は断られたんだ。
でも、本当はこっそり一華は花火を見に行こうとしてて、私はみんなから抜け出して、一華に会いに行ったんだ。
私は走り出す。一華がいるかもしれない場所に。
人波をかき分け、一秒でも早くあの場所へ向かう。
揺れる提灯。屋台から漂う芳ばしい香り。カランカランと鳴る下駄の音。
記憶の中の君が姿を現す。
零れてしまった思い出たちが、捨ててしまった思い出たちが、詩音の前に現れる。
蛍のように朧げに光る月。
いつもより不気味で静かな住宅街。
カエルの鳴き声が木霊する田んぼ。
ここではないどこかと繋がっていそうな踏切の向こう側。
あの頃の夏の夜の匂いが頬を撫でる。
知ってる場所の知らない景色に見惚れたり、恐怖したり、その一つ一つの感情が蘇る。
あの子との大切な思い出たちを拾い集め終わったとき、詩音は病院に来ていた。
いや、正確には病院近くの公園。
色とりどりの花に囲まれた東屋。
沢山の人の思い出が詰まった場所。
空にとって、彩夢と未来を夢見た場所。
彩夢にとって、母の面影を感じてしまう場所。
たぶん、知らない内に、覚えていないだけで、詩音にとってもここは色んな思い出が散りばめられている場所なのかもしれない。
だけど、今、強い光を宿して詩音の記憶を独占するのはあの子との思い出だった。
あの子と出会った場所。
あの子と遊んだ場所。
あの子と約束した場所。
大切な約束。忘れてしまった約束。
だから、思い出さなきゃ。
だから、会わなきゃ。
きっとこの場所で最後に残った思い出のカケラを持ったあの子がいる。
「見つけた」
自分にしか聞こえない小さな声で詩音は呟いた。
公園の中央、花々に囲まれた東屋。
そこには膝を抱えた少女と寄り添う猫の影があった。
「ねぇ、あなたも独り?」
「にゃあ」
影たちは夜に紛れて内緒話をする。
「今日ね、わたしにとって特別な日なの」
とっておきを話すように囁くように。
「……だからなのかな? お母さんがサプライズしてきたの」
でも、それは少女にとって苦しいサプライズだった。
「新しいお父さんだって。お母さん、再婚するんだって」
特別な日をまともに祝ってくれなかった親の、初めてのサプライズは、少女の心を抉るナイフになった。
「もう、一番を目指さなくてもいいんだって」
今までずっと頑張っていた少女に全てを否定する言葉を贈った。
「自分がどうすればいいか、分かんないよ……!」
絞り出して出た感情は空虚だった。
だから、少女は思い出に縋った。
「……ここはね、わたしにとって特別な場所なの」
胸元を強く握りしめ、特別な日の特別な思い出を語る。
「あの子と出会った場所、あの子と遊んだ場所、あの子とおしゃべりした場所……あの子と約束した場所なの」
思い出を一つ一つ思い出すたび瞳から静かに涙が流れる。
その思い出の中に一つ、親友が大切に語った猫のおとぎ話を思い出す。
塞いでいた本当の想いを黒猫に託す優しいおとぎ話。
「……頑張れないよ。独りは嫌だよ、寂しいよ」
何年も抱えていた吐き出してはいけない本音が零れ落ちた。
「詩音と別れたくなかったよ……! お父さんと別れたくなかったよ……!」
手遅れだけど、言葉にせずにはいられなかった。
「お母さん、ちゃんとわたしを見てよ……!」
願わずにはいられなかった。
「もう、独りになりたくないよ。誰か、一緒にいてよ……!」
泣き虫で独りぼっちの女の子は絆を求めた。誰かと繋がれる確かな絆を。独りにはならない温かな絆を。
「一華」
気づいたら詩音は名前を呼んでいた。
夏の夜のどこか涼しさが混ざった風が吹き、雑木林が揺れる。詩音を隠していた雑木林の影は月明りによって消えていく。
「詩音……?」
まるで夏の夜の幻影を、幽霊を、見ているかのように一華は呆然とする。
だけど、幻影でも、幽霊でもない。詩音は、今、確かに一華の目の前にいる。
詩音は両手で一華の頬に触れた。触れる肌の温もりから一華は会いたかった親友がここにいるのを実感する。
「本当に詩音がいる……」
もっとちゃんと見たいはずなのに視界が歪んで、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
そんな一華をあやすように詩音は自身の額と一華の額を重ねる。それは、詩音がよく泣いていた幼い頃に母親が必ずやってくれたおまじない。
かける言葉はどうしよう?
大丈夫? ううん、違う。
会いたかった? ううん、それも違う。
ああ、そうだ。今日、彼女に会ったら何を言えばいいかなんて初めから決まってた。
六年前の夏祭りと同じ。何年経っても変わらない祝福の言葉。
「一華、誕生日、おめでとう」