◇10◇
「詩音ちゃん、体調大丈夫?」
日が暮れて提灯が夜を彩り始める頃、翼は役場の休憩室で休んでいた詩音に水が入ったペットボトルを渡していた。
「うん、大丈夫。それよりこの時間まで寝ちゃってごめんね……。空ちゃんは、ちゃんと家に戻った?」
「気にしないで、俺は平気だから。あと姉ちゃんは詩音ちゃんを心配してて、家に帰るの渋ってたけど、無理矢理帰らせたよ。たぶん、間に合った」
昼の園児たちによる演劇発表の時、詩音は体調を崩し、そのまま役場の休憩室に行き、体を横にしていた。空と翼にも連絡していたため騒ぎになることはなかったが、せっかくの時間を無駄にしてしまった。
彩夢とまわる予定があった空は準備のため渋々帰宅。翼は詩音が体調を回復するまで付き添っていた。仕方ないとはいえ二人には気を使わせてしまったと詩音は罪悪感で胸を痛める。
「そっか、間に合ったみたいなんだね、良かった」
空の邪魔をしなかったのがせめてもの救いだ。彩夢にまで迷惑をかけてしまったらそれこそ申し訳なくて、頭が上がらない。翼から受け取ったペットボトルの水を飲み干し、ぼんやりとしていた脳を覚まさせる。
頭ももう、だるくない。
「じゃあ、行こっか」
立ち上がって背伸びをし、窓から見える祭りの賑わいに目を向ける。神輿を担いでぶつかり合う大の大人たち。その傍らではりんご飴やかき氷などを片手にはしゃぐ子どもたち。異国情緒溢れる食べ物や、花屋さんの出張露店など、普段は見かけない変わった出店まで立ち並んでいる。クーラーのきいた部屋にいるというのに熱気が伝わってくる。
「え? 行くって?」
もちろん中には詩音と同い年くらいの学生もいる。屋台の食べ物を口いっぱいに頬張る少年たちや、着飾って華やかな景色を思い出に残そうと自撮りする少女たち、まだぎこちなくとも次第に祭りの熱に浮かされてお互いの手をしっかりと握り始めるカップル。
「行くって、お祭りデートだよ」
「なっ……!」
祭りの熱が移ってしまったのか、詩音もいつもはあまり自分からは口にしない冗談で翼をいじる。
「ははっ、つーくんの片想いの子に見られないといいね〜」
「だからっ、片思いの相手なんてっ……!」
「はいはい、おねーさんは分かってるよ~。その時は何とかするから、とりあえず行こっか」
詩音は翼の腕を引っ張り、外へと向かう。小学生の頃は幼い翼を迷子にさせるわけにもいかずしっかりと手を握っていたが、さすがにこの年では抵抗がある。いくら自分が姉のような存在でも、本当の家族でもない、好きな子がいる思春期の男の子の手を握るのはちょっと違う。罪悪感と言葉にするのが正しいだろう。でも、露骨に距離を置くのも相手を傷つけるだけ。だから、連れまわす時は手ではなく腕を引っ張るようにしよう。
役場の自動ドアが開き、熱風と一緒にソースの香りや、和太鼓の轟きが翼と詩音を襲う。幼い頃に見た夏祭りの景色と重なった。
霧のようにぼやけていた思い出がまた一つ、ビー玉のように確かな形をもって光る。
まだ髪の毛がショートで少年のようだった空を先頭に駆け出すあの頃の自分たち。足が遅くて今にも泣きそうな翼の手を握って人の波をかき分ける。
昔の映像がフラッシュバックし、思わず詩音は握っていた翼の腕を離し、呆然と立ち尽くす。
たぶん、今のは初めて三人で、子どもだけで祭りを楽しんだ小学四年生の頃の夏祭りの記憶。たしか当時はまだ翼が小学生になったばかりで、身長も小さくて、途中から空と交代でおんぶしていた気がする。
「詩音ちゃん! 行こ!」
今度は翼に腕を引っ張られて詩音は追憶の旅から強制帰還する。
自分とあまり変わらない背丈。女子の割には背の高い姉がいるからきっと彼はまだまだこれからも伸びるだろう。さすがに今はおんぶはできないなと感傷に浸るが、逆にまだ今の彼にはおんぶに近いこと、つまり自分を抱えて運ぶようなことはできないだろうと苦笑いを浮かべる。
うん、この距離感がちょうどいい。詩音は姉離れし始めていた翼との距離を再度把握し、満足した。




