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壱与は何もする事が出来ない。
ほんの数秒、卑弥呼が落ちて行く時間が鮮明に彼女の瞼にはりついた。
やがて人々の絶叫がする。
行き場のない怒り、動揺、恐怖、哀しみ、すべての負の感情が押し寄せて来る。
狗呼はうつむき、悲しみを堪えようとする。
が、夜邪狗は見逃さなかった。
彼の瞳に怪しい光が灯ったのを。
難升米は騒然とする民に、落ち着くようにようにと大声で言い放つ。
壱与は地に叩きつけられて横たわる卑弥呼へ駆け寄った。
呆然とするしかない現実。
受け入れがたい事実。
卑弥呼は今にも消え入りそうな意識の中、壱与に手を差し伸べた。
壱与は大粒の涙を流しながら、女王の手を握った。
「・・・壱与、しっかり生きるのですよ」
その一言の後、卑弥呼は斃れた。
大いなる女王の最後であった。
クニを揺るがす一夜の惨劇に、民達の嘆き、悲しみ、怒りは絶頂に達していた。
そういう人々の様々な感情が大きなうねりと化す。
「聞け!邪馬台国の民よ!」
大音声が闇夜にこだまする。
声の主は弟王、狗呼である。
先程まで卑弥呼がいた魂座に上がり、自らの剣を天へと掲げた。
「敵国、狗奴国の手により、我らが女王は討たれた!」
一斉にどよめきの声があがる。
次に、怒り、怒り、怒、怒の感情が民達に込み上げる。
狗呼は剣先を斃れた卑弥呼へ指す。
その場へ狗呼配下の兵士が、取り押さえた一人の男を引きずり連れて来る。
手には弓が握られていた。
「敵国の刺客により、女王は斃れた!」
民達の怒号が辺りを揺らす。
狗呼は剣を振りかざし、怒天の勢いでおろした。
兵士の一人が刺客を袈裟懸けに一刀両断し絶命する。
幾人かの民が溜飲を下げ、狂喜する。
狗呼は拳を固める。
「今こそ、この時から!狗奴国を打ち滅ぼす時!」
その言葉に邪馬台国の民は歓声をもって同意した。
クニの女王、太陽を凶矢によって失ったのである。
怒りの矛先は、明確に憎むべき狗奴国へとむけられる。
狗呼は民達の反応に大きく頷く。
「我こそは、唯一無二の女王卑弥呼の後継者!必ずや先の女王の無念を晴らす!!」
異様な熱狂は新しい男王の誕生へと湧きあがる。
一つの太陽が沈み、また新しい太陽が昇る。
民達の、怒り、悲しみ、嘆き等の負の感情は、新しい王の誕生によって昇華された。
壱与はいつまでも、母、卑弥呼の手を握り、哀しみ、祈りを捧げていた。