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秘匿の島  作者: loveclock
江古島編
9/28

「場所を間違えるんじゃあねぇぞ」

 通話中も語気が荒かった結城君も、会話を重ねるうちに元の調子に戻っていた。熱しやすく冷めやすい性格なのかもしれない。

 スマートフォンの地図アプリを開いて待ち合わせ場所を確認すると、昨日、お祖父さんの生家のある西端の町に行く途中で見かけた「江古島第二海水浴場」の駐車場だった。そのまま地図アプリ上で江古島の北端と『ラ・メイルの』との道筋を結ぶ。榎田さんの言う通り自転車で三十分ほどの距離だった。明日の朝一番に向かってみよう。

 商店街を南下して正面の港にぶつかってから、昨日と同じように内陸の道を行く。少し時間が経って、「江古島第二海水浴場」の青い看板が現れた。単純なもので、さっき高梨さんに感じていた複雑な感情も、海水浴場の看板を見ただけで小さくなってどこかへ消えていった。

 駐車場には既に何台か車が駐車場に停まっていて、自転車も並んでいた。歩いて数秒の距離に見える砂浜で、水着姿の人達が遊んでいる。

「おーい、下野君」

 駐車場と砂浜の間に立つ箱型の建物のそばで、有田さんたちが手を振っていた。駐輪場に自転車を停めて三人に駆け寄ると、有田さんと石橋君は満面の笑みで迎えてくれて、結城君も頬が緩んでしまっては、取り繕うようにそっぽを向く。

「遅えぞ」

 腕を組んで構える結城君よりも、有田さんに視線が吸い寄せられていく。薄手のパーカーにデニムのショートパンツを履いていた。結城君と石橋君はTシャツに短パンだった。

「そんなに見られると、ちょっと恥ずかしいかな」

「ご、ごめん」

 照れる有田さんに、しどろもどろになってしまう。昨日会った時と同じようなラフな格好なのに落ち着かないのはきっと、この先の事に期待しているからだ。

「早く着替えて来いよ」

 結城君が箱の形をした建物を指し示した。どうやら海水浴場に併設された更衣室らしい。石橋君から手荷物を受け取って開くと、中には水着が入っていた。

「探したらさ、去年買ったまま一度も着なかった水着があったんだ。もう着ないと思うし、良かったらあげるよ」

 手提げ袋から防虫剤か埃かの臭いが鼻を突いた。海に入れば臭いはすぐに消えるだろう。

「ありがとう」

「いいからさ、それよりも早く着替えておいでよ」

「三人はもう着替え終わってたの?」

「もちろん。急がないと泳ぐ時間なくなっちゃうよ」

 三人に背中を押されて更衣室に押し込まれる。更衣室内は驚くほどに清潔感が溢れていて、でも海が綺麗なこと江古島の名所の一つでもあるのだから、それは当たり前のことのように思えた。着替え終えて更衣室を出ると、待ちきれないのか結城君はすでに膨らんだ浮き輪と、ビーチボールを両脇に抱えていた。石橋君はシュノーケルを頭に巻いて、パラソルを肩に担いでいる。

「ここからは歩きだ。自分の荷物は自分で持つこと」

「ここじゃないの?」

 まさに目の前で果てにまで広がるコバルトブルー色の海も、砂浜の底がずっと遠くまで見える程に透き通っている。この先で東京湾と繋がっているとは、決して思えない美しい海は今すぐにでも飛び込んでおいでよと誘ってくるようだ。

「江古の人だけが知っている秘密の場所があるの。下野くんにだけ教えてあげる」

 自慢げに有田さんは、ぼくの鼻先に人差し指を向ける。「楽しみにしてね」

「うん。楽しみにしてる」

「まだ陽が沈むまでは時間があるから、へとへとになるまで泳ごうぜ」

 駐車場を出て海岸沿いの歩道を進む三人の足取りは、ぼくに負けず劣らずに軽やかだ。

「結城君たちも、なんだか楽しみにしてる?」

「そりゃあな。何だかんだ久しぶりだし、それにお客さんもいるからさ」結城君はぼくに浮き輪を押し付けながら言う。「ちょっと優越感もあるぜ」

「久しぶり?でも―」振り向けばすぐに海だ。「―毎日だって泳ぎたいと思うけど」

「わたし達だって高校生だから海で遊ぶだけじゃなくて、しなきゃいけないことも沢山あるんだよ。下野君だって、東京に住んでても、あまりスカイツリーには行かないでしょ」

「そういえば、一度も行ったことが無い」

「えっマジかよ、勿体ねえ」「下野君、贅沢だなあ」結城君と石橋君は、揃って恨めしそうに声を上げる。

「簡単に行ける距離にあると意外と行かないもんだよ。そっか―」

「そうそう。それと同じだよ。だからね、わたし達も楽しみなんだ」

 突然、びゅうっと風が吹いた。ちらりと有田さんのパーカーがめくれ、隙間から胸元が覗けて慌てて視線を逸らす。気付かれていなかったのか、有田さんは首を傾げた。

「何?」

「えっいや、何も見えてないよ!」

 途端に顔が熱くなる。旭さんは丸い目を瞬いていたけど、口元がわずかに弧を描いているように見えるのは、ぼくの気のせいだろうか。

「おーい、こっちだよ」

 先を行く結城君と石橋君は歩道の柵の途切れた所から、腰丈ほどの高さの茂みへと足を踏み入れた。茂みの遠く背後に海は見えるけれど、二人の行く先には木々が生い茂っている。

「行こう?」

 戸惑っていると有田さんに背中を押されて、結城君たちに続いた。よく見れば足下は散々踏みしめられているのか、草木は禿げて道になっている。なだらかに降って行く、けもの道の空は木々から伸びた枝葉に覆われていた。その隙間から木漏れ日が降り注ぎ、海からの潮風と相まって心地が良い。

 潮風を感じていると、するっと先に回った有田さんに手を引かれた。細くて柔らかい指に緊張しながら歩くと、茂みが引いて視界が一気に開けた。

「わああ」

 三日月のような形と輝きで広がる砂浜から続く、海の透明度はさっきの海水浴場とはまるで違う。ほとんど色が着いていないと思わせる程に明るい水色の下で、小魚が泳いでいる様子すら見える。ぼくらの他には誰もいない海岸は、聞くだけにとどまっていたプライベートビーチという単語を実感させてくれる。

「すごい、綺麗だ」言葉が勝手に出てくる。

「でしょう」隣に立つ有田さんも誇らしげだ。

 荷物を投げ出した結城君と石橋君はTシャツを脱ぎ捨てると「いやっほおー」と奇声を上げて海にむかって走り出し、その勢いのまま飛び込んだ。二人の体が真っ白な飛沫に包まれて、海中に消える。

 いても立ってもいられない。気持ちは昂って足踏みを繰り返す。そのせいでTシャツとズボンが中々脱げずに、半ば投げ出すように脱ぎ捨てた。石橋君の譲ってくれた水着は思いのほか小さくて、太ももにぴったりと張り付くサイズだった。

「有田さんも早く行こう」

 振り返ると、有田さんは茂みから顔をだけを出していた。体はすっかり隠れている。

「何してるの?」

「先に行ってて、後から行くから」有田さんの顔が赤いのは、日焼けをしているせいだろうか。

「分かったけど―」

「おーい、早くこいよぉ」

 結城君が海から呼ぶ。受け取った浮き輪を抱えて、たまらず砂浜を走り出した。熱さのある砂に足を取られてバランスを崩すと、海から笑い声があがった。浮き輪を投げ捨てて、海面に浮かんで爆笑する二人に向かって、勢いよく跳ぶと尻から海に叩きつけられて飛沫が二人に跳ねてかかる。冷たい江古の海に包みこまれる。最高に気持ちがいい。

 深く潜ると、差し込む光に照らされた海の中は透き通っていて、文字通りどこまでも見通せた。あまりの透明感に海の冷たさがなければ、まるで浮遊しているような錯覚すらも覚える。小魚が岩陰から興味があるのか顔を覗かせるのに、手を振って返すと素早く身を隠した。

 再び海面に上昇すると、四方から飛沫が顔にかかった。

「やるじゃねえか!」

 結城君が両手で水を跳ねさせ、飛沫が顔にかかる。負けじとかけ返す。石橋君も参戦し三人で互いに水をかけ合った。「小学生かよ!」と笑い合う。

 また水をかけようとして、今度は後頭部に軽い衝撃を受けた。辺りを見回せば、海面にビーチボーㇽが浮いて漂っている。海岸に到着するまで結城君が大事そうに抱えていたやつだ。ビーチボールに手を伸ばして仕返しだといわんばかりに、結城君にむかって構えるけど二人は揃ってぽっかりと口を開けて、こっちを見ている。

「なんだよ、二人とも。何かついてるのかよ」

 二人はすっかり固まっていた。よく見れば視線は背後に向けられていた。振り返って視線を追った。

 ビキニを着た有田さんが立っていた。

 白と藍色の花柄のビキニは有田さんの小麦色の肌に映えて、とても似合っていた。細身の体がもっとすらりとして見える。控えめな胸元に、どうしたって視線がいってしまうのは有田さんが魅力的すぎるせいだ。

「どうかな。似合う?」

 顔を真っ赤にして有田さんは、はにかんでいたけど、ぼくらの視線にすぐに体を隠すように腕を組んだ。「何か言ってよ」

「似合う。ものすごくかわいい」

 ぼくは言い切った。心のそこからそう思った。誰よりも早く言わなければならないとすら思っていた。

「おっおう。俺も意外と似合うと思うぜ」結城君の声は上ずっている。

「うん、素直に可愛いよ」石橋君はのんびりと言う。

「あっありがと。でも、恥ずかしいからパーカー取ってくるね」

 ぼくらの脱ぎ捨てた衣服は持ってきた荷物と一緒に、木陰の下にまとめられていて―有田さんが気を利かせてくれたのだと思う―有田さんは砂浜に足を取られながらも、そこへと駆け出した。ぼくの視線は彼女の大きく開けた背中だけを追っていた。

「僕、旭のあんな姿初めてみた」

「俺も」

 結城君と石橋君は見惚れたように海に揺られていた。ぼくも同じようにビーチボールを抱えたまま揺られている。頭がぼうっとしているのは決して夏の暑さのせいではなく、海の冷たさだってちっとも伝わってこなかった。

「有田さんのパーカーが濡れるからさ、砂浜で遊ぼうよ」

 結城君たちに声をかけて、海から上がった。こっちに向かって走る有田さんはパーカーを羽織っていたけど前は空いていて、むしろさっきの姿よりも刺激的に映る。

「よっしゃ、いくぜ!」

 結城君は受け取ったビーチボールを空高く弾いた。風の影響を受けてボールふわりと石橋君の頭上に落ちていく。石橋君は「ほい!」と言って上手に組んだ腕で受け止め、ビーチボールは相手を気遣うような勢いで有田さんの方へと跳んだ。

「はいっ!」と楽しそうな声を上げて、有田さんは両手でトスした。有田さんのトスは絶妙でボールは上げやすい角度で落ちてきた。ぼくも同じようにトスをして、結城君に返す。

 すると、急に強く風が吹いた。ビーチボールは回転しながら流れて、結城君は反射的に足を伸ばすけれど、爪先はボールに蹴るように当たって、海へと跳ねていく。

「あっ、やっちまった!」

 楽しくなりすぎていて、追いかけないという選択肢はなかった。ぼくは夢中になってボールに目がけて飛び込む。ボールを両手で掴むと、その姿勢のまま体が飛沫と入れ替わって海に飲みこまれた。

「下野君!」

 海から顔を覗かせると、三人が駆け寄ってきているのが見えた。海中からボールを掲げて見せる。

「平気か?悪かった」

「全然、大丈夫!」

 結城君が差し伸べてくれた手にボールを渡すふりをして、手を掴み海に引っ張り込んだ。

「うおあっ」

 悲鳴と共に結城君が海に消える。すぐに顔を上げた結城君も笑顔だった。「下野、お前なかなかやるなあ」

 石橋君は何も言わなくとも、また海に飛び込んでいて、叩きつけられた飛沫が顔に振りかかった。

「旭も恥ずかしがってないで、来いよ!」

 もじもじとしていた有田さんだったけれど、迷わず海に飛び込んだ石橋君を見て、するりとパーカーを脱ぎ捨てた。再び露わになった、すらりとした細身に泳ぐことを忘れて、目が吸い寄せられてしまう。

 そろり、そろりと有田さんは足を海に着ける。泳ぎながら石橋君が有田さんの手を取って、そのままゆっくりと腰まで沈む。息を吸って、潜った。ぼくも潜ると、海の中で有田さんと目が合う。笑うと息がこぼれる。手を振ると、有田さんは先に浮かび上がった。

 海中から顔を出すと、先に上がっていた有田さんの背中は濡れていて、肌は太陽の光を受けて艶めいていた。息を―ではなく水を―飲んでしまいそうになるほどに、見惚れてしまう。

「なんか、視線がやらしいんだけどー?」振り返った有田さんが意地悪く笑う。

「そんな訳ねえ!」結城君は自分の事を言われたと思ったのか、有田さんに水をかけた。

「ちょっと、哲平、冷たいよ!」

 言って有田さんも反撃する。流れ弾を受けたぼくと石橋君も一緒になってかけ合って、時々、潜って海の綺麗さを堪能しては、息継ぎのために浮上する度にまたかけ合った。

「ちょっと、疲れたね」

 有田さんの提案で、みんなで砂浜に上がった。太陽の温かさを実感しながらとぼとぼ歩いて、荷物のある日陰に戻った。日陰の下で休んでいると、結城君は何かを思いついたように茂みに屈んで、それなりの太さの枝を拾い上げた。

「どっちが速いか、勝負だぜ!」

「ビーチフラッグ?」

「その通り!」

「私もやりたーい」有田さんは高く手を上げる。

「じゃあ、トーナメントだな。決勝で俺と下野が当たるように―」

「ちょっと、八百長じゃん」

「勝てばいいんだよ。俺と旭が勝負な。それで、下野と和秀が勝負だ」

「僕が下野君に勝てるわないよ」

「でもさ、俺は砂浜では上手くは走れないと思うし、充分勝ち目はあるよ」

「そうかなあ」

「よし、早くやろうぜ」

 結城君が駆け足で距離を作ってからせっせ作った砂山に枝を突き刺さした。

「恨みっこなしだからね」と言う石橋君と並んで、うつ伏せになる。ぼくらに見えないように立った有田さんの合図を待つ。

「よーい―」

 遊びであっても緊張している。体が今か今かとうずく。全神経を有田さんの声に集中させる。

「―ドンッ!」

 瞬間、両手で地面を押して立ち上がった。石橋君よりも速いスタートダッシュを切れた。けれど、威勢がいいのはそこまでだった。

 踏ん張った足が砂に取られては滑る。体重を移動させられずに重心を崩し、手を突きそうになった。自分では進んでいるつもりでも、ちらりと振り返れば石橋君との距離はほとんどない。石橋君は無駄のない足の運びで、遅れを取り戻し、ぼくらは並んで枝に向かって走る。けれど、それも束の間の事で、石橋君は器用に素早く足を着いて、どんどん前に進む。顎が上がり必死に走って石橋君とほとんど同時に、こんもりとした山に突き刺さった木の枝に飛んだ。

 衝撃を受けて綺麗に消し飛んだ砂山の跡地で、仰向けに寝転がる。ぼくの手に枝の感触はない。石橋君はまだ自分を信じられないという顔で枝を持っていたけど、すぐに枝を点に突き出した。

「和秀の勝ち!」近くで判定員をしていた結城君が叫んだ。

「やったね!」

「まけたあ!」

 まだ悔しくて起き上がれない。石橋君もぼくのそばで腰を落として休んでいた。ふうふう言っている。

「おーい、早く準備しろよお」

 もう待ちきれずにいるのか、さっきまで近くにいたはずの結城君は有田さんと並んで立っていた。石橋君と顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。

「けっこう、疲れるね」「だね、すごく緊張したよ」「下野君との健闘を称えて」

 石橋君の握手に引っ張り上げられる。競争を経て、距離が縮まったことを確かに感じている。

「俺が審判をしてくるから、石橋君は木の枝を埋めて判定員をしてよ。その方が休めると思うからさ」

「ありがとう」石橋君は心底、ありがたそうに言う。のんびりと砂をかき集めて山を作る石橋君を置いて、二人の下に走り出した。

「俺は手加減しないからな、旭」

「哲平なんか、置いてきぼりにしちゃうからね」

 石橋君から合図があって、二人はうつ伏せになった。二人からは見えない所に立ち、さざ波の音を聞きながら、声を出した。「よーい、ドン!」

「うおりゃああ!」

 結城君は容赦がなかった。飛ぶように立ち上がると、後ろを走る有田さんに砂をかける様に走る。さながら集めた泥を吐き出す重機のようだ。結局、結城君は悠々と木の枝を手にした。途中で諦めてむくれる有田さんに舌をベッと出して、揶揄う。

「じゃあ、今度は和秀と勝負だな」

「えーっ!もう?休ませてよ」

「しょうがねえなあ」

 有田さんはとぼとぼと、ぼくの方に帰って来ていた。あんまり気にしている風には見えない。「敗けた者同士で下野君は私と勝負だね」

「流石に有田さんには負けないよ」

 ふふん、と有田さんは意味ありげに笑う。

「うし、じゃあ決勝の前の前座試合をやるぞ!」

 石橋君が木の枝を突き刺したのを見て、有田さんと並んでうつ伏せになって合図を待つ。

「よーい!」と結城君は高らかに言った。

「ねえ、下野君」

 呼ばれて視線を有田さんに向けた。目と唇を細めた有田さんは、どことなく妖艶で―それは見えている肌が多いせいでもある―どきりとさせられる。

「勝った方が負けた方に何でも命令できるっていうのは?」

「いいけど、有田さんはいいの?」すぐによからぬ妄想がよぎった。

「平気。だってね―」

 有田さんはそっと胸の水着に指を掛けた。日に焼けていない部分がほんのわずかにだけど露わになった。それでもぼくの目はそこに釘付けになる。股間に位置が気になって―ばれないように―腰を動かした。

「ドン!」

 旭さんの反応は早かった。まるで結城君とあらかじめ企んでいたかのように、ほとんど掛け声と同時に立ち上がり、走り出した。ぼくは腰を浮かしていたせいで、完全に出遅れた。といよりもまだ、立てない。

「腰浮かせて、ナニしてんだよ。下野」結城君が下品に笑う。

 慌てて振り返ると、有田さんの背中はまだ遠くなかった。低い姿勢から駆け出し、段々と有田さんに追いつくかと言う所で、突然、有田さんが走路をずれて、ぼくの前を走る。

 このまま行けば、有田さんにぶつかる。どさくさに紛れて何かが起きるかもしれないけど、その度胸は―残念なことに―ぼくにはなかった。思いもしない妨害に横に逸れて、足を滑らせ―砂を巻き上げて―派手に転んだ。

 視線の先では枝を手に入れた有田さんぴょんぴょんと跳ねていた。

「私の勝ち!」

「反則だ!」

 少し離れた所で結城くんと石橋君がやいのやいのと騒いでいた。「下野、だせー」とも聞こえる。

「妨害は無しって聞いてないけど?さーて、何をしてもらおうかな」

 有田さんは満面の笑みで枝を振った後で、小走りに二人の所に戻っては高々と自慢していた。悔しさはないとは言えないけど、でもはしゃぐ有田さんの姿は可愛くて、それもいいかなと思っている。砂に足を取られながら、三人の所に戻った。

「よおし、じゃあ江古島最速を決めるとするかあ」

 有田さんが枝を埋めたのを見てから、結城君は準備万端と言わんばかりにぐるぐると腕を回す。石橋君は静かに砂浜に伏せた。意外と集中しているのかもしれない。

「よーい、ドン!」

 勝負は火を見るよりも明らかだった。結城君はやっぱり容赦がない。猛烈な勢いで砂浜を駆け抜け、結城君は無事に最速の称号を手に入れた。石橋君は途中で勝負を諦めてしまった。

「もう、疲れたあ」

 ふらふらとした足取りで数歩進むと、石橋君は砂浜に仰向けになった。ビーチフラッグは意外と足にきて、ぼくも結城君と一緒に腰を落とした。旭さんは「水筒、取ってくるね」と荷物をまとめた所にぱたぱたと走っていった。走る度に揺れる旭さんのお尻をついつい目で追ってしまう。

「お前、そんなこと言ってると埋めちまうぞ」

「海が見えるところで死ぬなら本望だあー」石橋君は大の字になったままだ。

「なら、お前の望みを叶えてやろう!」

 結城君は両手で砂をかき集め始めた。「下野も見てないで手伝え!」と綻ぶ顔で石橋君の体を覆っていく。

「ご無体なー」と変わらない調子で言う石橋君が、瞬く間に頭だけを残して砂に埋まっても、結城君は手を止めない。

「まだまだ、だぜ」

 汗を垂らしながらも結城君は一生懸命に、石橋君の砂の体を何か目的があるように模る。腰のあたりが妙に細くてお尻が大きい。ピンと来るものがあって、石橋君の体にS字のように右腕と左腕を作って盛った。結城君も「わかってんじゃねえの」と嬉しそうだ。

 段々と体が出来上がってきて、結城君と目が合うと口角を持ち上げた。「下野、左側はお前に譲るぜ」

 結城君は石橋君の砂の胴の右胸に、ぼくは左胸に同じ大きさの山を作った。我ながらなかなかの出来栄えに、結城君と掲げた手を叩きあった。

「これで完成だ!裸の女だ!」

「あはーん」と石橋君が気の抜けた返事をするので、思わず三人でゲラゲラ笑いあった。それでも、まだまだ笑いが抑えきれなくて、お腹を抱えて転がる。

「なになに、何してるの?」

 水筒を持って戻って来た有田さんが少しの間、横たわる石橋君の美体を眺めて口をあんぐりと開けた後に、呆れたように笑った。

「三人ともバカじゃないの?」

 有田さんに言われてまた笑う。有田さんも一緒に笑っていた。

「ねえ、みんな。一つ言ってもいい?」石橋君は至極、真面目な顔で言う。

「なに?」聞きつつも、笑いが止まらない。

「あっついんだ!」

 石橋君は自身を覆っていた砂の女体をあらん限りの力で吹き飛ばす。立ち上がった石橋君の体から砂が舞い上がり、全速力で後ろに砂を巻き上げながらも海へと飛び込んだ。海から「気持ちぃー!」と心からの叫び声が轟く。

「あっ待てよ!」

「和秀だけ、ずるい!」

「三人とも、待ってよ!」

 石橋君の後を追ってぼくらも駆け出し次々に海へと飛び込んだ。


「楽しかったね」

 海に沈む夕日を眺める隣で有田さんが目を細める。頬に砂がついていて、自然とぼくの指は彼女の頬に伸びていき、砂を払った。有田さんは驚いたように目を丸くし、顔をそむける。ぼくも自分のしたことにすぐに気付き、有田さんをまともに見ることも出来なくなる。

「ありがと」有田さんは俯いたまま呟く。

「ふっ、二人とも遅いね」

 結城君と石橋君の二人が飲み物を買いに行ってからしばらく経っていた。

「すげー喉が渇いた」と結城君が何ともなしに言うと、合わせたように石橋君が立ち上がった。「僕たちで飲み物を買ってくるよ」

 二人に着いていこうとするとやんわりと止められた。「お前、場所知らねえだろ」

「一緒にいくだけじゃないか」

「いいから、待ってろよ。腕は四本あれば足りるんだしよ」

「そうそう」

 言い残して結城君と石橋君はプライベートビーチから去っていった。 

 砂浜にはぼくと有田さんの他に人影はない。潮のさざめきだけが遊び切った体を静かに包みこむ。半分顔を覗かせる夕日に照らされて海が輝いていた。

「あー、楽しかった」有田さんは足を伸ばしていた。

「そう言えばさ、ビーチフラッグの時の約束、どうしようか」

「冗談だよ。下野君の気を引くために行ったの」

「戦略だったの?」

「そう。それとも、本当に命令されたい?」

 それも悪くはないかもしれない。ブランド物のバッグを買わされるかもしれないと考えるのは、すこし俗過ぎるだろうか。

「ねっ、最後にもう一回、泳ごう?」

 有田さんに手を引かれて立ち上がり、波打ち際を連れ立って歩く。有田さんの柔らかな指から体温が伝わってくる。

「さすがにちょっと冷たいかな」

 脛の辺りまで来た海水を有田さんは元気に蹴り上げ、跳ねた海水はぼくの顔にかかる。驚いたふりをしてわざと尻餅をついた。乾きかけた水着を、やや冷えた海水が濡らす。

「ごめんなさい!下野君、大丈夫?」

 俯いたままの視界に有田さんの―細くて綺麗な―足が映った時、両手で水を掻き上げた。そんなに量はなかったけど、ぼくの手で跳ねた海水は有田さんの体に綺麗に降りかかった。

「ちょっと、何するの?」言いつつも有田さんの声は明るい。

「さっきのお返し!」

「もう!」

 有田さんは笑顔を弾けさせて、ぼくに水をかける。ぼくも水をかけ返す。冷たさなんて気にならなくなっていた。夢中になってじゃれ合った。

 有田さんの笑顔は太陽よりも、ひと際に眩しかった。ぼくの心のほとんどはもう旭さんに奪われていた。

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