④
喋り終えた頃には、大皿に山盛りの焼きそばは麺の切れ端を残していただけだった。三人のお椀のあら汁も海老の殻だけが残っていて、結城君はいじらしく箸で殻に残った海老の身をほじくっている。
「素敵な思い出だね」有田さんは静かに微笑む。
「ありがとう」
「話に出てきたお祖父さんがスプーンとアイスを触れずに動かしたっていうのはさ、サイコキネシスだよね」石橋君は饒舌だった。この手の話題が好きなのかもしれない。
「俺はそうだと思ってる」
「てことは、下野はおじいさんが超能力を使えたかもと踏んでいるんだな」結城君は諦めたのか、箸を置いて海老の殻をお椀に戻した。
「お祖父さんが江古島で育ったなら、何か秘密がないかなって思ったんだ。でも今のところは聞けずじまいで」
集会所で聞ければよかったのだけど、最後にはきっかけすら掴ませてもらえなさそうだった。まさか、あんな雰囲気になるとは予想もしなかった。
「普通に聞いても相手にされないよね」石橋君はしきりにうなずいている。
「だから、お祖父さんの親友に当たろうかなって。慶次さんって人なんだけど」言ってから、お祖父さんと同じように苗字が分かっていないことに気付いた。役所に行けば教えてもらえるだろうか。
「けいじさん?」
有田さんは知らないらしい。石橋君はどこか遠くを見つめ、思い出したように手を叩いた。「あー、あの人か」
「なんだよ、和秀。知ってんのかよ」
「あの人だよ。島の外れに一人で住んでいる、あの爺さん」
「あいつかぁ。―悪いことは言わねえ、下野。あの爺さんはやめとけ」
「有名な人なんだ」
「悪い意味でな。江古の大人は皆近づくなって言ってる」
「何か悪いことをしたのか?」
「さあな。俺は知らない。ただずっと言い聞かされているからな」言って結城君はふんぞり返った。有田さんに膝を叩かれて、姿勢を正す。
「でも、そんな人と下野君のおじいさんがどうして親友だったのかな。だって江古中の人に嫌われているんだよ。話を聞くとまるで正反対にいる二人だよね」
「下野君のおじいさんが、やさしい人だったとかかな」
有田さんと石橋君の推測に考え込んでしまう。島で人気者だった祖父は、親友を捨ててまで何も言わずに島を去った。それだけの理由があったのか。どうして誰にも相談しなかったのか。もしかしたら親友に相談した上での決行だったのか。
「そろそろ出ようぜ。下野もまだ予定が詰まっているみたいだしよ」
皆で使ったお皿をまとめて座席を立つ。定食屋のおばちゃんがレジで表示した焼きそばの値段は驚くほどに良心的で、四人で割ると小銭を数枚出すだけで足りた。
「ねえ、下野君。水着は持ってきてる?」
定食屋を出ると、先に出ていた有田さんが微笑んで振り返った。
「いや、持ってきてないけど」
鞄に詰め込んだのは数日分の着替えと薬、それに貴重品だけだった。江古島の海には惹かれるものがあったけど、この旅行の目的はお祖父さんのことを知るためで、観光は残りの空いた時間だけするつもりだった。それでも鞄は膨れ上がり、姉さんはあくせくするぼくを鼻で笑っていた。
「じゃあさ、和秀に水着を借りて皆で泳ごうよ。お祖父さんの昔を知るだけじゃなくてさ、江古島で下野君と私達の思い出もつくろうよ」
「いや、旭。下野はこの後も予定があるって」
「私は下野君に聞いているの」
有田さんが唇を尖らせる。石橋君は困ったように笑っていた。「旭は結構、頑固なところがあるんだ。でも下野君、僕が履いた水着なんて嫌だよね」
有田さんと結城君の喧嘩にもならない、じゃれ合いのようなやり取りが目の前で繰り広げられ、仲裁するように石橋君も参戦する。ぼくが江古島を離れたあとも三人は―それこそ大人になっても―こんなやりとりを続けているのだろう。それが羨ましかった。
「俺も一緒に泳ぎたいな」
結城君と石橋君は驚いた顔でこっちを見る。迷いがなかったわけじゃないけど、三人とはまだ一緒にいたい気持ちがあった。
「ありがとっ」
有田さんの太陽のような笑顔に見惚れる。たった数時間の思い出だとしても、気になりつつある誰かの記憶に残りたいと思う。それがいつか忘れ去られることであったとしてもだ。祖父が幼いぼくに、会いに来た気持ちが分かったような気がした。
父さん、母さん、お祖父さん。少しだけ夏休みを満喫しようと思います。
三人とは準備があるということでラインを交換して別れた。この後のことを考えると、どうにも自転車を漕ぐ足が浮足立ち、ハンドルを握る手も危なかっしくて何度か転びそうになる。江古島に来る前にあれだけ怪我には気をつけろと、言われたことすら忘れてしまいそうだ。
昨日、訪れた江古島の役所を目指してペダルを漕ぐ。教えてもらえるかどうかは分からないけど、慶次さんの事を調べつつも、三人との待ち合わせまでの空いた時間を潰す目論見だった。
「おーい下野君」
のんびりした呼びかけに足を止めて振り返れば、高梨さんが原付で後ろから近づいてきていた。道路の端に自転車を停めると、高梨さんはすぐ後ろに停まる。袈裟にヘルメットという出で立ちは一見妙な組み合わせに感じるけど、高梨さんが着馴れているせいか違和感はない。
「高梨さん、おはようございます」
「もう、こんにちはじゃないかな。進捗状況はいかがかな」
「まずまずです。―そうだ、高梨さんは慶次さんを知っていますか」
高梨さんは途端に渋い顔になる。「ああ、うん。知ってるよ。彼を調べに?」
「そんなに変な人なんですか?」
石橋君たちが知っていたのだから、高梨さんが知らない可能性は小さいと踏んでいたけど、まさか態度まで似ているとは思わなかった。
「変な人ではないけどね。筆舌しがたいとは言い過ぎかな。でも害はないから」
「どこに住んでいるか知ってますか?」
「それは僕が教えるよりも自分で調べた方がいいんじゃないかな。君のためにもさ。どんな些細な出来事も、大切な思い出になると思うよ」
「なんか、ありがとうございます」
「お礼は、『ラ・メイル』でお酒を奢ってくれればいいよ」
「未成年にお酒を奢らせるのは、生臭坊主だけですよ」
「止められなくてさ。これから役場?」
「そうです」
「一緒に行ってもいいかな」
「いいですけど、自分の仕事は大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。今日の分は明日に回せばいいから」
「それ、駄目な大人のいいわけですよ」
少しの間、自転車を押していると役所が見えてきて駐車場に回り、それぞれの乗り物を停めて二階の役所に続く階段を上がる。役所の中は昨日と同じように人がいない。
けれど昨日とは変わって、窓口の向こう側では職員が忙しそうに、パソコンと書類の山とを見比べてはキーボードを叩いている。開け放たれた窓から吹き込む風が涼しさを運んでいたけど、書類が飛んだりしないのだろうか。
「あっ、徹。てめえ」
昨日の角刈りの職員が書類の山を抱えて立っていた。彼の背後には役所の奥に通じるであろう扉が見える。
「やあ、榎田。ちゃんと仕事をしているみたいだね」
「お前こそ、こんなところで油を売ってんじゃあ―」
役所の中に強めの風が吹き込んだ。びゅうっという音を立てて、風は彼の抱えていた書類を狙い撃ちするかのように煽り、書類はめくり上がって役所の中を舞った。
「ああ、馬鹿野郎」
三人で床に飛び散った書類を集める。偶然、拾い上げた書類の中に青山寅一の文字があった。昨日、知ったばかりの祖父のことにくすぐったい気持ちになる。書類は青山家の戸籍に関するもので、祖父の両親と兄弟の情報が載っていた。両親は亡くなっているようだけど―島の老人たちの言っていた通り―兄弟たちは島外に転居となっていた。どこかで元気にしているのだろうか。
「ん?」
青山家の書類にもう一枚、別の書類がぴったりと張り付いていた。剥がして視線を落とすと、どうやら別の一家の戸籍だった。悪いことだとは分かっていながらも、書類に視線を落とす。
「糸田さん」
四人家族だった。両親に長女と弟がいる家族構成はうちと同じだ。長女はみゆきという名前で弟は賢人というらしい。島での記録は平成十年を最後に途絶えている。ただ、お祖父さんの兄弟たちとは違って「島外に転居」という文字はない。空白のままだった。
「おい、こらっ」
角刈りの職員に書類をひったくられた。「個人情報だぞ」
「すいません」
「たくよお。まさか徹の差し金だったとはな」
「徹?」
「僕の名前だよ」高梨さんは集めていた書類の束を叩いて整えると角刈りの職員に渡した。「僕と榎田は幼馴染なんだ」
幼馴染にしてはあまり仲良くは見えない。どちらかと言えば腐れ縁のような雰囲気の二人だ。でも昨日の二人の―あまり仕事をしたくないのだろう―態度を見るに、やっぱり仲はいいのかもしれない。
「榎田さんは何をしていたんですか」
「昔の情報の整理だよ。昨日、お前が来たことがきっかけになって古い書類を整理しようって話になってな。朝からずっとやってたんだ」
「武明は真面目に仕事しているんだねえ」高梨さんはしみじみと呟く。
「おめえはもうちっと真面目になるべきだな。それで、どうせまた知りたいことがあるんだろ」
榎田さんに高梨さんを批判する権利があるのかと言いたい所だったけど、飲みこんだ。
「慶次さんについて知りたくて」
「けいじ?」
「木島さんだよ」高梨さんが代わりに答えた。
「あの爺さんか」榎田さんは頭を掻く。「流石になあ、あれには会わんほうがいいと思うが、でもどうして木島の爺さんに」
「お祖父さんの親友の一人だったらしいです」
「ほんとかよ。あんな爺さんに友人がいたとは考えられないけどなあ。まっ、わざわざ調べるまでもねえわな。島の北端に一人で住んでいるよ。お前『ラ・メイル』に泊まってるんだろ。そこから、さらに北に行った先にある家だ。自転車で行っても三十分もかからない」
「ありがとうございます」
「ああ。まあ、いいけどよ。どうだ、調子は。順調か」
集まった書類の束を机の上に置いて榎田さんは歪んだ笑顔を浮かべる。単に笑い方が下手なのかもしれないと思っていると、高梨さんが耳打ちしてきた。「あいつは笑顔のつくり方が下手くそなんだ、あれでも精一杯の好意があるんだよ」
思わず吹きだすと、榎田さんは眉をひそめる。「お前、生意気な奴だなあ」
「すいません。そんなつもりはないんですけど」
「武明は仕事よりも笑顔の練習の方が必要だね」
榎田さんは、ふんっと鼻をならす。「余計なお世話だ」
「納涼祭までには終わりそうだね」高梨さんは書類の山と一生懸命にパソコンにむかう職員たちとを見比べて言う。
「ああ、終わらせてみせる。愛しの加奈と一緒に祭りを楽しむためにもな」
「榎田さん、彼女いたんですか」
「いちゃ悪いか!ほんとうっによ、年上に対する敬意が足りねえよな」
ぶつぶつと文句を言い残して榎田さんも机にむかった。彼の横の席に座る課長さんと視線が合うと、そっと口角を持ち上げて目を細めた。
役所の中にキーボードを叩く音とボールペンの走る音だけが響き渡る。想定していたよりも、ずいぶん簡単に慶次さんの事が分かった。時計を見れば、役所に来てからまだ十分ほどしか経っていない。
「おい」
榎田さんが呼ぶ。笑顔はやっぱり妙に歪んでいて気色が悪い。
「お前もこれと納涼祭にも来るだろ?いや、まだお前さんには早かったかな?」
榎田さんは小指を立てながら、壁に張ってあるポスターを顎で指し示した。一瞬、浴衣姿の有田さんが脳裏をよぎった。想像上の有田さんは髪を髪留めで上げて、うなじが露わになっている。浴衣の有田さんは振り返り、鼻の下の伸びたぼくに静かに微笑みかける。
「おーい」
高梨さんに声をかけられて意識が帰ってきた。
「誰か気になる人が?」
「いや、いないです。仕事の邪魔になりますから、もう出ましょう」
榎田さんとはまた違った、妙な含み笑いの高梨さんは無視して役所の扉を押した。
「下野君、この後、まだ時間はあるかい?よかったら喫茶店で休んでいこうよ」
役所の階段を降りながら、高梨さんが訊ねてきた。榎田さんの言う通りもっと熱心に仕事に取り組むべきではと思うけど、スマートフォンを見ても三人からの通知はなかった。
「奢るよ?」「お供します」
お店の場所を教えて、高梨さんはさっさと原付に乗って行ってしまった。
後を追って自転車に乗った。午前中にお世話になった集会所を通り過ぎ、商店街のやや奥まった通りに入ると、民家とお店が入り交じった場所に出る。しばらく道に迷って、高梨さんの原付が、ごく普通の一軒家の前に停められてあるのを見つけた。
開け放たれたままの玄関をのぞき込むと、コーヒーの香りが漂って来て、まっすぐに伸びた廊下の先、家の奥に高梨さんの背中があった。カウンター席に座っている。自転車を原付の隣に停めてお店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
食器を拭きながら眼鏡をかけた老店主が微笑む。部屋の中央には四人掛けの丸テーブルが置かれて、その上に小さなメニュー表が小物と一緒に立てかけられてある。店内を見回すと大量の本とレコード盤を収めた棚が天井にまで届き、壁という壁を占めていた。圧倒されて、ただただ見上げていた。
「何をご用意しましょうか」
きょろきょろと店内を見回すぼくに店主が訊ねる。苦笑した高梨さんが隣の席を軽く叩くので素直に従った。
「クリームソーダはありますか?」
微笑みを湛えたまま店主はキッチンに下がっていった。
「下野君のおじいさんってどんな人だったのかな」
高梨さんがコーヒーカップに口に付ける。袈裟を着ていても高梨さんの落ち着いた佇まいは洋風のお店の雰囲気に合っている。
「祖父は破天荒な人だったんだなって。あとは人気者で、それから―」
高梨さんと祖父について話していると、キッチンから老店主が戻って来た。お盆には目に鮮やかなクリームソーダが乗っている。彼はそっとカウンターテーブルの上にグラスを置くとまたキッチンに戻っていった。
あの日と同じようにクリームソーダは翡翠色をしている。炭酸が絶えず生まれては弾けることを繰り返し、半円形のバニラアイスは真っ白でわずかに溶けてはメロンソーダと混じりあっていた。サクランボは乗っていない。バニラアイスを口に運ぶともうすっかり慣れてしまった味が口の中に広がった。
「高梨さんが昨晩言っていたとおり、江古島の人ってお喋りが好きですよね」
「余計なことまで言わないか心配だ」
なんでもないように言ってから―足りなかったのか―高梨さんはコーヒーに角砂糖を入れた。グラスに差し込まれたストローからメロンソーダを味わう。
「高梨さんはお坊さんですよね。島中を回って仕事をしているんですか?」
「そうだよ。お坊さんだって色々とやることがあるんだ。月命日とかね」
「大変ですね」そうは見えない。
「なんか馬鹿にされている気がするなあ。天女様も見ているんだからサボれないよ」
今は違うのだろうかと、ゆったりとコーヒーをすする高梨さんを眺める。
「その天女様ってどんな神様なんですか?」集会所で出会った老人たちも口にしていた。
「天女様は、ええとね、今から千百年くらい前かな。飢饉に陥った江古を救った神様と言われているお方でね」
「飢饉?」
「うん。酷い塩害が起きて畑が全部駄目になった時があったらしいんだ。台風とか高潮とかが主な原因だそうだけど、千百年前というと平安時代くらいかな、戦乱の影響もあっただろうしね。色々な要因のせいで江古は相当な危機に陥ったらしいんだ。本州からそんなに遠くはないとはいえ、今ほど技術が発達しているわけでもないからね。助けも無く沢山の餓死者が出たそうだよ」
「酷い話ですね」
「うん。そんな江古の惨状を見て哀れに思った天女様は島に降りてきて、島民を救ってくれたっていう話だよ」
「天女様は何をしたんですか。畑から塩を取り除いたとか」
「それは天女様にしてはスケールが小さいなあ。まあ何があったのか正確な伝聞はないけど、とにかく助けてくれたらしいよ。江古の人はそんなに深く考えていないからね。天女様のことをちゃんと敬うことが大事なのさ。じゃないとクズリ様に攫われるよってね」
「それも島の人が言ってました。クズリ様も神様なんですか」おばあさんの一人が悪態をつきながら口にしていた。
「クズリ様は天女様と一緒に語られることが多いけど、簡単に説明すると悪いことをする人に罰を与えるっていう江古の神様さ。本州にも、というか世界中にそんな話があるだろう」
「ナマハゲみたいな」
「そうだね、それに近いかもしれない。江古の子ども達は幼い時から悪いことをするとクズリ様に攫われるよって言い聞かされて育つんだ。僕もそうだしマスターも同じだと思うよ」
キッチンから老店主がひょっこり顔を覗かせて、笑顔をむける。
「それとクズリ様は江古山に住んでいると言われている」
「江古山ですか」
「うん。山というよりも丘かな。島の北西部に広がる雑木林の中に住んでいるんだ。悪いことをすると江古山に連れて行くよって脅されたものさ」
「高梨さんもお父さんに言われました?」
冗談のつもりで言ったけれど、高梨さんはカップを持ったまま固まった。
「高梨さん」
はっとして高梨さんはこっちを見た。「ごめん、ごめん。何か注文する?サンドイッチとかどうかな」
「さっき定食屋でたくさん焼きそばを食べたから大丈夫です」
四人で食べた山盛りの焼きそばが思い返される。量もあって美味しかったし、何より一緒に食べたことが楽しかった。また一緒に食べる機会があればいいけれど。
「もしかして、あの焼きそば?」
「美味しかったです」
「そうか。よかった。一人で?」
「あり―結城君たちと一緒です。独りで公園で休んでいた時に声をかけられて」
「なるほど、石橋君と有田さんもいたんだね。ふうん、そうか、そうか。そういうことか」
「何もなかったですから」
高梨さんはニヤついたままだ。コーヒーのお代わりを注ぎに来た老店主も「若いって素晴らしいですね」と微笑みながら言い残してキッチンに帰っていった。
「いっ、いいお店ですよね」
「だよねえ。僕の隠れ家だよ」
「来たのは初めてですけど、なんだか懐かしい感じがします」
「下野君は喫茶店に入ったことはあるかい?」
「ずっと昔にですけど。祖父と一緒に」
「おじいさんと?でも―」
「昔、祖父と二人で喫茶店に入ったことがあるんです。それが唯一の思い出です」
この懐かしさは思い出の中のお店と雰囲気が似ているせいだろうか。改めて店内を見回すと閃くものがあった。
江古島から帰ったらあの喫茶店を探してみよう。まだお店が在るかは分からないけれど、お祖父さんの生家の合った場所を訪れた時と同じように、探す価値だけでもあるように思えた。
「なにか嬉しそうだね」
「高梨さんについて来て良かったです」
「それは僕としても嬉しいよ」
喫茶店が沈黙する。いつからか曲名も知らないジャズっぽいメロディーが店内に流れていた。江古島に来てから初めて心穏やかな時間を過ごしている。
「高梨さん、質問があるんですけど」
「何でも聞いてくれたまえ」
「超能力を信じますか」
「それは難しい質問だね」高梨さんは袈裟の袖を上手にまとめて腕を組んだ。「完全に否定することはできない。けれど肯定することも難しい。君の旅の目的を鑑みるに下野君のおじいさんのことだね」
「祖父は、―寅一さんは俺の目の前でスプーンを触らずに動かしました。あとアイスの欠片も」
「だったら本当にあることなのかもしれないよ」
「祖父は江古島の出身でしたから、島に秘密があると思うんです。高梨さんは知りませんか」
高梨さんはゆっくりと目を閉じた。じっくりと時間をかけて考え込む。話しかけてはいけないような雰囲気から、おもむろに口を動かしはじめた。聞こえてきた声は低く唸ったようなものだった。
「それは江古の秘密だから、よそ者に教えることはない」
次の瞬間、高梨さんの表情がパッと弾けた。「こんな感じでいいかな」
「えっ」
「残念ながら君の望みには答えられないよ」
「じゃあ江古島に秘密はないってことですか」
「仮にあったとしても、君には教えないけどね」
呆気に取られていると、高梨さんは「冗談だよ」と笑った。
「高梨さん、どっちなんですか」
「君が信じることを信じなよ。僕の言葉じゃなくてさ」
飄々と受け流す高梨さんにやきもきしていると、スマートフォンが震えて通知を知らせる。ポケットから取り出した画面には―グループラインなのに―有田さんたちから個別に集合場所を伝えるメッセージが連続して表れていた。
「待ち人かな?」
余裕の笑みすら浮かべる高梨さんに問い詰めたいけれど、勝てる気がまったくしない。それとも単に揶揄われているだけなのか。
「行った方がいいと思うよ」
「秘密はあるんですか?」
「僕だってクズリ様に攫われたくはないからさ」
スマートフォンがメロディを奏で始めた。画面には結城君の名前が表示されていた。
「ごちそうさまでした」
キッチンに声をかけると、老店主は小さく会釈を返してくれた。そうこうしているうちにスマートフォンは静かになって、たぶん結城君は電話の向こう側で怒っているだろう。
「下野君」
喫茶店を出ようかというところで高梨さんが声をかけてきた。立ち止まり振り返ると、高梨さんは背もたれに深く体重を預けていた。けれど、さっきまでの穏やかな雰囲気は消え去り、高梨さんの眼鏡の奥の鋭い眼差しに一瞬、体が強張った。
「ごめんね」
何に対しての謝罪なのか。考えを巡らせるけれど、はっきりしない。
もやもやした気分を抱えたまま喫茶店を出て、結城君に電話を掛けなおした。不機嫌な結城君に場所を教えてもらい、喫茶店の入り口に停めた自転車に跨って、商店街へと漕ぎだした。