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秘匿の島  作者: loveclock
江古島編
6/28

 しっかり充電されたスマートフォンと貴重品を小さい鞄に詰め込んで部屋を出ると、廊下に夏樹さんが布団を抱えて立っていた。体の大きい夏樹さんのせいか、布団のサイズが小さく見える。

「お出かけですか」夏樹さんの声は変わらずに小さい。

「江古島の役所に行ってきます」

  夏樹さんは部屋に布団を運び入れてくれるらしく、廊下の端による。そこまで狭くはない廊下も夏樹さんが通るとぎりぎりだ。

「どうして役場に?」部屋にそっと布団を置いて夏樹さんはこっちに振り返る。

「祖父のことを調べに行くんです」

 戸惑って固まったままの夏樹さんを置いて階段を降る途中で、コーヒーの香りが漂ってきた。階下のカウンター席に袈裟を纏った背中があって、どうやらお客さんらしい。テーブルにはコーヒーカップと灰皿が置いてあって、まだ煙の昇る煙草が置かれている。開け放たれたままのカフェの出入り口の傍に原付が止まっていて、真っ赤なボディが陽の光に反射していた。

「おや、おでかけかな?」

 由香さんがカウンターの奥から笑顔をむける。袈裟を着ていた人も一緒に振り返った。

 お坊さんは眼鏡をかけていた。耳と額にかかるくらいには髪が長く、白衣を着ていたら科学者かと勘違いするほどに知的な雰囲気がある。由香さんとも年齢は近い印象があった。

「珍しいですね。お客さんですか」

「そう。今日から三泊する下野君。―珍しいってなによ」

「こんにちは、下野君。僕は高梨といいます。江古でお坊さんをしています。江古には観光で?」

「それもあります」

「それも?」高梨さんの後ろで由香さんが興味ありげに身を乗り出す。

「祖父の事を調べに来ました」

 二人が感心したようにうなずいた。というと、下野さんは祖父の方は江古のご出身ですか」

「そうらしいです。詳しくはないですけど。これから役所に行ってきます」

「だったら、江古に来なくてもよかったんじゃない?たぶん、どこの役所でも聞けば調べられるわよね」

「お祖父さんの住んでいた島を見たかったんです」それに知りたいことは役所だけでは分からないはずだ。

「じゃあ急がないといけないね。役場のあいつは怠け者だから気をつけて。角刈りの頭をしている奴」

「送っていこうか」由香さんが車のキーを持って揺らす。

「バスで行きますから、大丈夫です」

「下野君、お祖父さんの名前を聞いても?」

「寅一です」

 名前を発した瞬間、高梨さんが固まった。由香さんは珍しいものを見たという表情で、高梨さんを指で突っつこうとすらしていた。

「知っているんですか?」

  高梨さんはすぐに手の平を振って笑顔になった。「あ、いいや。ごめん。気にしないで下さい。バスがもうすぐ来るだろうから、もう行った方がいいよ」

 小さな引っ掛かりを覚えながら、お店を出ると、ちょうど商店街にむかうバスが走っているのが見えた。バスの背中を追いかけて次のバス停までを走り、そこで停まったバスに飛び乗った。


「いや、名前だけじゃ分からないだろ」

 受付カウンター越しに前に立つ角刈りの職員に言われるまで、当たり前のことにすら気付いていなかった。お祖父さんは婿養子だから苗字は変わっていて、高平は祖母の姓だった。

 島の商店街にある二階立てのこぢんまりとした役所は閑散としていた。つい数分前に役所に入った時は受付カウンターの向こう側にいた職員のほとんどが暇そうにしていたし、ぼくの姿を見つけても、ちらりと視線を向けただけで、すぐにまたぼんやりし始めていた。

「調べてもらえないですか」

「そういうのは書類を通してくれ」

  高梨さんの言っていた角刈りの職員が立ち塞がっていた。口調からは、はっきりと仕事がしたくないことが伝わってくる。

「どの書類を書けばいいんですか」

  角刈り職員はあからさまに溜息をついて、受付カウンターに頬杖をつく。壁に掛かった時計をちらりと見やるので、つられて見ればまだ三時にもなっていない。もしかして五時になるまでこのまま時間を潰すつもりだろうか。

「そうだなあ、君はお祖父さんの直系親族?」

「たぶん、そうです」わざとらしい敬語に若干、苛立つ。

「あっでも、違うか。君のお祖父さんは江古から出ていったんだよね。それで、結婚もしているってことは、うーん除籍かなあ、いや普通に謄本でいいのかなあ。いや、ここじゃ分からないかもしれないなあ。うーん」

「いいじゃないですか」

  角刈りの職員が穏やかな声に振り返る。大きくお腹の突き出た初老の職員がぼくたちに微笑みを向けていた。

「課長」

「することもありませんし探してみましょう。一応、身分を証明できるものを見せてくれますか」

 学生証を取り出すと、角刈りにひったくられた。母さんと一緒に用意した書類は使わずに済みそうだ。「感謝しろよ」と文句を垂れながらも角刈りはパソコンにむかう。

 十分ほど待っていると、プリンターが動き出した。角刈りの職員はさっと立ち上がると、吐き出された紙を取って学生証と共に手招く。

「ほらよ」乱暴にカウンターの上に書類と学生証を置いた。

「名前だけでわかるんですね」

 角刈りの顔が引きつる。「珍しい名前だったからな、調べたらすぐに出たよ。まあ、お前の祖父さんかどうかは知らんけど」

 しげしげと書類を眺めていると、角刈りが補足を入れる。「祖父さんの生年月日と、それから最後に住んでいた住所。これは江古での話な。さすがに住んでいた家はもうないけど、行く価値はあるんじゃないか」

「青山寅一」

 指で祖父の名前をなぞってから下にずらしていく。昭和十二年、七月の八日生まれだ。けど昔過ぎて実感が湧かない。職員が言うには、祖父が最後に住んでいた住所は、江古島の西端にある小さな町らしい。十八歳を最後に江古島での記録が途絶え、一月の最後の日に島外に転居となっていた。おそらくは、この時までに何かしらの出来事があり島を出ることになったのだろう。

「おい」

 顔を上げると職員が別の書類と共に銀色に光る鍵をちらつかせた。

「お前、学生だろ?もうバスはないからよ。自転車を使いな。申請すれば島にいる間は乗り放題だからよ」

「あっ、ホームページの」

 江古島のホームページ上で「自転車で巡るのがお勧めですよ」という吹き出しポップの横に立っていたのは、まだ坊主頭だった頃の角刈りだった。

「なんだ、あれを見たのかよ。課長、あのホームページ効果あるみたいっすよ」

 にっこりと課長さんは微笑む。受付カウンターの上で申請書を書きあげると、そのまま目の前で判子を押され、空いた手に自転車の鍵が落ちてきた。

「江古島サイクリングのご利用ありがとうございます。江古島は環境に配慮したエコな自転車での観光をお勧めしております」

「駄洒落ですか」

「考えたのは課長だ」

  満面の笑みの課長さんたちに見送られて役所の外に出ると、まだ空に高い太陽に熱されて汗が垂れる。階段を降れば新設されたらしき駐輪場に、赤色に塗装されたタイヤの小さい自転車が数台並んで出動を待っていた。

 時間を確認しようとしてスマートフォンを取り出すと、家からの着信が残されてあった。電話があったのは役所に入って間もなくの頃だ。それでも電話をかけると一回だけコールがあってすぐに母さんが出た。

「陽太、もう島には着いたの?」

「ああ、うん。少し前に。ごめん、電話するのすっかり忘れてた」

「陽太が無事ならいいわよ。どう?あの人について分かったことはある?」

「役所に行ったら、お祖父さんの戸籍がもらえたよ。生年月日と、それに江古島で住んでいた住所が分かった。これから自転車に乗って、そこに行くつもり」

「ふうん。良かったわね」

「うん。来て良かったよ。それでさ、お祖父さんって昭和十二年生まれであってる?」

「えっと、そうね。あたしとはちょうど三十歳違うから、そうね。合ってるわ。大丈夫よ、おとうさんは確かに江古島の出身だから。苗字も青山だったでしょ」

「知ってたのかよ!」

「ごめん、ごめん。頭から綺麗に抜け落ちてたのよ。大丈夫、あんたのお祖父さんは江古で生まれて育ったの。それは紛れもない事実よ」

  電話越しから聞こえる母さんの声は、すっかりいつもの調子に戻っている。純一さんの運転する車での、あの表情の事を聞くなら今だろうか。「なあ、母さん」

「なに?」

「いや、いいや。なんでもない」自分で調べるために来たのだ。

「そう。とにかく、怪我のないようにね」

「分かってるよ。じゃ切るから」

「気をつけてね」

 スマートフォンをポケットにしまって自転車に跨り、商店街を南下する。正面に港が見えて有田さん姉弟を思い出した。無事にお使いを終えられただろうか。有田さんの素敵な笑顔を思い出しながら、『ラ・メイル』とは反対に島の西側に進路を向ける。

 ずっと海沿いを走るのかと思いきや道は内陸に続いていて、海は遠くに―実際はそんなに遠くはないのだろうけど―なっていた。意外と勾配もあって汗を掻く。しばらく漕ぎ、時々、島の人の運転する軽トラックとすれ違い、ようやく道路から間近で海が見えるようになった。太陽に反射して眩しいくらいに輝く海に足を止めて、水分を取りながら眺める。

  海が近くなると左手に細道も増えて、なだらかに降って行くその道の先に、真っ白に輝く砂浜も覗けた。けれど遊んでいる人はいない。土産物屋のおばちゃんの言う通り観光客が来ないのだろう。こんなに綺麗な所なのにと思わずにはいられなかった。

 もう少し漕いでいると、「江古島第二海水浴場」の道路標識が見えて、途端に潮風が吹き視界が開ける。広々とした駐車場から、歩いて数十歩で辿り着く砂浜では男女のグループが波打ち際で遊んでいた。

 書類とスマートフォン上の地図を見比べつつも、ひたすらにまっすぐ進むと遠くに岬が見え、辺りは畑よりも民家の数の方が増え始めていた。町に入ると、海には小さいけれど防波堤があり、囲われて何艘か漁船も停められてあった。

  自転車から降りて押しながら地図アプリが示す番地を目指す。小さな町の少し奥まったところのはずだった。


 結果から言えば祖父の生家のあった住所には新築の家が建っていた。農作業の道具が積まれた軽ワゴンの隣には、シルバーのミニバンが並んで見栄えを良くする。今風の造りの一軒家の前で、幼い姉妹らしき二人が地面に絵を描いて遊んでいた。

 当然の事だとは思う。祖父が住んでいたのはもう半世紀も前の事だ。けれど胸には寂しさと行き場のない悲しみがある。

  小さな姉妹がこちらに気付き、顔を上げて手を止める。ぼくはお祖父さんの生家があった場所に背を向け自転車に飛び乗った。

  町の傍の海はすっかり夕焼けに照らされていた。海沿いのアスファルトの道路は砂に飲みこまれかけていて、自転車から降りて押す。遠くの砂浜の終わりには護岸が島を守るように海へと伸びている。

  自転車を置いて砂浜を歩く。浜辺には誰もいない。観光客も島の人の姿もなく、ただ海が誰に聞かせるでもなく、さざ波を運んでいた。

 祖父はこの景色を見ていたのだろうか。

 島で生まれた祖父は、きっとこの町を中心に生活をしていた。朝起きて、ご飯を食べて学校に行く。行けなかった時期もあるかもしれない。そんな時もきっと、目の前に広がる大海原を見ていたはずだ。家族と喧嘩をした時も、嵐の時も同じだろう。恋だってしたかもしれない。朝焼けに輝く海に大志を抱き、夕日に煌めく海に思いを抱えたと勝手に想像する。

  祖父は十八歳で島を出た。どうしてかは分からない。そして帰りたいという願いを抱えるものの、ついにそれが叶うこともなかった。

 涙が頬を伝うのは眩しさのせいじゃない。思い返された祖父のあの姿と、ノートに書き綴られた思いに胸が締め付けられる。

 終わってしまった事はもう戻らない。この島に来てかえって幼きの日の思い出が強く心に甦る。もう一度だけと願っても、もう二度と起きることはない。忘れないようにずっと大事に抱えることしかできない。

 たとえそれが本当にあったことか、どうか分からない思い出であったとしても。


  すっかり日の暮れた北東の町に、やけに騒がしいところがあると思えば『ラ・メイル』の辺りで裸電球が元気に光っていた。

  宿の入り口近くに自転車を停める。しっかりと鍵をかけたことを確認し顔を上げれば、カフェのはずだった店内の、そこかしこでいい歳の大人が酔っぱらって騒いでいた。

「お帰り、下野君。先にやってるわよ」由香さんがグラスを掲げる。

「居酒屋だったんですか」「居酒屋じゃないわよ。パブよ、パブ。夜はね、パブになるの。陽太君はイギリス行ったことないの?」「ないです」「いいわよ、パブは。ねえ、みんな」

  由香さんに同意してコップが掲げられ歓声が沸く。店内の雰囲気もあって確かに異国情緒の感じもある、かもしれない。

「楽しんでるか、ボウズ」

  誰かが何かを言う度に、何がおかしいのか誰かが笑う。けれど悪い気はしない。上機嫌な皆の様子に、こっちまで嬉しくなる。

「坊主は、ぼくれしょ」

 聞こえてきた声に驚いた。高梨さんがTシャツにジーンズと楽な格好でグラスを持っていた。顔は真っ赤でなんだか呂律も怪しい。

「お前は生臭坊主だ。酒も煙草もやりやがって」誰かが言うと笑い声がさらに沸く。

「そんなころぉ、言ってもいいんれすかぁ。ぼかぁはねえ、島唯一の住職っすよぉ」

 高梨さんに調子に笑い声が沸くけれど、文句も混じっているように聞こえる。騒ぎ立てる大人たちの隙間を縫って行くと、お店のカウンターから夏樹さんが手で招いていた。

「ご飯は食べたのか?」

 急にお腹が鳴った。「すっかり忘れてました」

 夏樹さんからメニュー表を受け取る。並んでいる料理の字面を追うだけで、もっとお腹が鳴りそうだ。けれど、中々に値段の高い料理たちに、この先のことを考えると手を出すことが引けてしまう。

「宿泊客は二割引きだ」騒がしい店内にも関わらず、ぼそぼそとした夏樹さんの声はよく通る。

「この江古島特産カルボナーラをください」

 夏樹さんが口角を持ち上げる。「得意料理だ。飲みものは?」

「お茶をください」

 注文を承った夏樹さんが準備を始める。店内のテーブルの上に並ぶ色とりどりの料理たちは全部、夏樹さんの手製のものなのだろうか。出されたお茶を片手になんだか不思議な夫婦だなあと、宿とカフェの主の二人を見比べる。

「はーい、皆さん、ご静粛に」由香さんはどこからかカウベルを取り出して鳴らした。

「今日は、わたし達の宿『ラ・メイル』にお客さんがありました。なんと、東京からたった一人でやって来ました、高校生の下野君です」

 由香さんの紹介と共に拍手と指笛が鳴った。恥ずかしさはあったけど、由香さんに促されて立ち上がる。

「ど、どうも。下野陽太です。高校生です」

「陽太君は、何をしに江古に来たの?」

「祖父のことを調べるために来ました」

 居酒屋に感心と歓声が入り交じる。

「それで調査のほどは?」酔っぱらっていた高梨さんは、しれっと隣に座っていた。

「役所で祖父の年齢と苗字を知って、それから―」

 店内のざわめきが引いていく。静まり返ったお店中の視線がむけられていた。盛下がっているわけではないことは分かる。皆が次の言葉を待っていた。

「祖父の育った場所を見てきました。家は無くなってましたけど、それでも祖父の見ていた景色を知れて良かったです」

「よっ、爺孝行」誰かの合いの手に拍手が沸く。

「いいことをしたね」由香さんが微笑む。上気しているのか由香さんの頬は紅潮している。色香に顔が熱くなって視線を逸らした。

「下野君のおじいさんに」誰かがグラスを掲げる。次々に合いの手とグラスが上がり、そして由香さんが声を上げた。「乾杯!」

 グラスのぶつかる音と一緒に中身がこぼれたのか、そこかしこで笑い声と悲鳴が上がった。混じることの許されないぼくはカウンター席からその様子を眺めている。

「悪い大人たちだ」隣に座る高梨さんのコップの中身は透明の液体に満ちていた。水かお酒かは分からない。

「お待ちどう。江古島特産カルボナーラだ」

 まだ湯気の立つベーコンとクリームのからまるパスタの中央で、オレンジ色の卵黄が震えていた。クリームの香りに胃袋が刺激され、早くしろとお腹が鳴って急かす。

「江古産の鶏の卵だ」

 夏樹さんに木製のフォークを貰い、卵黄を潰してかき混ぜるとパスタの色がさらに濃くなった。コショウの香りの混じるカルボナーラを一口、運ぶ。チーズとクリームソースが口の中いっぱいに広がり、さらにベーコンから溢れ出した旨味と卵黄にぶつかって、もうおさまりがつかない。空腹もあって無我夢中でフォークで巻き取り続けた。

「美味かったろ」夏樹さんは空になったお皿を見ると、誇らしげな表情を浮かべる。

「ものすごく美味かったです」

 夏樹さんは満足げにうなずき、お皿を片付ける。

「お祖父さんの見た景色はどうだった?」高梨さんは一度煙草を咥えたものの、ちらりとぼくを見てまたケースに戻した。

「綺麗でした」自信をもって言えるほどには見れなかったけど。

「それ位しか魅力がないけどね。何もない島なんだよ」高梨さんは自嘲気味に笑う。

 そんなことはないとは思うけど、口にはしなかった。他に気になることがあった。「祖父のことを知っているようでしたけど」

「どうだったかな、どこかで聞いたことがあるだけかもしれない。もう、旅行は終わり?」

「いや、まだ調べることはあって」むしろこれからが本番かもしれない。

「そうか。ねえ、僕から提案があるんだけどさ。君はおじいさんの事を知りたくて来たのだろう?でも、たぶん君だけじゃあ満足に知ることは難しいと思う。だから、君のお祖父さんのことを知っていそうな人に、僕があらかじめ声をかけておくよ。そうすれば君も話が聞きやすいと思うし」

「いいんですか?」願ってもない申し出だ。「大変だと思いますけど」

「大して変わらないよ。僕の仕事は袈裟を着て、島中の老人たちの相手をすることだから。一言、二言話すことが増えるだけさ。それに皆、お喋りが好きだからね」

「じゃあ、お願いしてもいいですか」

「うん、任された」高梨さんは一気にグラスを飲み干すと、お金を置いて立ち上がる。「沢辺さん、ご馳走さまでした」

「もう上がるのか?」夏樹さんはお皿を洗っていた。

「明日も早いですから」

「じゃあね、高梨君」

 とことん陽気な由香さんとお客さんたちに見送れられて、しっかりした足取りのまま高梨さんは夜の闇に吸い込まれて消えた。

「下野君も、もう休んだほうがいいな」

 夏樹さんに名前を呼ばれて、はっとした。油断すると、すぐにまた焦点がぼやけてくる。

「そう、ですね」

 頭も瞼も重いけど、にぎやかな居酒屋にいるのは心地が良い。このまま眠ってしまいたいけど席を立ち上がった。財布を取り出すと、夏樹さんに止められる。

「会計は後でいい」

 夏樹さんは「手を貸そう」と言ってくれたけど、頭を振って断った。ふらつく足で店の奥の階段を上がる。部屋にはすでに布団が敷いてあった。

 そのまま布団に雪崩れ込む。開いた窓から部屋に流れ込む風は撫でるように、火照った体を冷やしてくれる。ふかふかの布団に包まれて何も考えることが、できないまま瞼が閉じた。


 音のない朝だった。

 自動車や電車の騒音がない。バイクや朝の散歩中に吠える犬の鳴き声もない。父さんと母さんの朝の準備の時に立つ音も無い。まるで朝の気配を感じない。聞こえてくるのは風に揺れた木の葉の擦れと、どこかで鳴く鳥の声だけだった。

 開いた目に茶色の木目の天井が入る。いつもとは違う雰囲気に驚いたけれど、ここは自宅ではないと思い出した。絶えず部屋に吹き込むそよ風は心地が良くて、ずっと部屋にいたい気持ちに捉われるけど、そうもいかない。ボストンバッグから適当な服を引っ張り出して着替え、部屋を出た。

 階段を降りる途中で板の軋む音に、由香さんが顔を覗かせた。

「おはよう。よく眠れた?」

 まだ眠気も抜けきらないまま、うなずいて返す。

「その様子だと、まだ眠いようにも見えるな」由香さんが笑うと綺麗な歯並びが覗く。

「朝ご飯は食べられそう?」

「食べたいです」

 一階はまだ準備の最中のようで、由香さんの手には台拭きがあった。ぼくを背にまた店内を忙しそうに回り始める。ぐるりと見回しても、夏樹さんの姿はなかった。「夏樹さんは?」

「仕入れ。もう帰ってくるわよ」

 由香さんは何かに気付いたようにぼくに近づくと、胸の辺りで鼻を動かす。由香さんとの距離の近さに鼓動が早まって急に目が覚めだす。髪からいい香りが漂ってきて、それも鼓動を早くする一因だった。

「やっぱり、ちょっと臭うわよ」

 言われてみれば、昨日はシャワーすら浴びずに眠ってしまった。

「夏樹ちゃんが帰ってくるまでに、シャワーでも浴びてきなさいな。回れ右!」

 由香さんの指示に素直に従って回ると背中を押されて、お風呂場へと向かわされた。


「至れり尽くせりですね」

 お風呂場から出て店内に戻ると、カウンター席のテーブルにはトーストと一緒に湯気の立つコーヒーが並んでいた。カウンターの奥のキッチンで、仕入れから帰って来ていたらしく夏樹さんが料理の仕込みをしている。

「商売だからね。稼げるときに稼がないと」掃除を終えた由香さんがお店の引き戸を開くと、店内に風が吹き込むんだ「お小遣い尽きちゃうかもよ?」

「騙されないようにしないと」齧ったトーストの余熱に溶けたバターが唇に膜を作り、ほのかな塩気がさらに食欲を誘う。熱いコーヒーを―少しずつ―すすりながら店内の装飾を眺めると、昨日、宿に着いたばかりの頃より落ち着いているせいか、目に入る情報も増えていた。昨日の土産物屋でも見かけたポスターを、ここでも発見した。

「江古島納涼祭のポスター」

「ああ、それね」

「由香さんたちも参加するんですか」

「そうそう、お手伝いをしてくれる予定の島の子と一緒に出張店を出すの」

「高校生が手伝うんですか?」

「そうよ」言ってから由香さんは、ぼくを見て笑った。「でも、さすがにお客様を働かせるわけにはいかないわ」

「下野君は島の子には会ったか?」キッチンから夏樹さんが首をのばす。

「ええと」

 港で出会った有田さんの顔が浮かび上がった。あの子も納涼祭でお手伝いをするのだろうか。それとも誰かと一緒に出店を回るのか。なんとなく赤色の模様の入った浴衣が、似合いそうだなと思っていると、ニヤリと笑う由香さんと目があった。

「下野君、素直になったほうがいいわよ」

 こういう時の女の人は強い。それは長年、姉さんから虐げられた経験が教えてくれている。かえって素直になった方が、ダメージを抑えられるはずなのだ。

「あさ―有田さんです」

「ほおお」「なんですか」「ううん。何でもない。へえ、そう」

 絶対に何でもなくない笑みを由香さんは浮かべる。「いい子よね、旭ちゃん」

「少し話しただけですから」ちゃん付けで呼ばれた、有田さんの名前にどきりとする。

「今日のご予定は?」気のせいでなければ、夏樹さんの目も笑っている。

「高梨さんが昨晩、手伝ってくれるって言っていたので、今日は祖父を知っていそうな人を当たってみようかなと思ってます」

「いいんじゃない。そうだ、下野君の自転車はお店の中に入れておいたから」

 由香さんの指さした先で、真っ赤な江古チャリが出番を待っていた。コーヒーを空にしてから一度、部屋に戻って荷物を整えると、ずっとニヤニヤしている沢辺夫妻に見送られて宿を出発した。

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