①
―ねえ、起きて
―どうしたの
―あの子が来たよ
―とうとう辿り着いたのね
―大丈夫かな。あの子、負けないかな
―信じましょう。あの子は勇敢な子よ
―そうだね。信じよう
「当フェリーは間もなく、江古島に到着します。降船の方はお手回りを確認の上―」
耳に届いた艦内放送に跳ね起きる。いつの間にか眠っていたらしい。ボストンバッグのことを思い出し辺りを見回すと、手を伸ばせば届くところにあった。ほっとしたのも束の間、慌てて中身を確認するけれど特に変化はない。家での荷造りの時に無理矢理、服を詰め込んだ状態が維持されたままだった。
ぼくを含めた乗客は広いフェリーの座敷に点々としている程度で、ほとんどの人がぼくと同じように寝ていたか、あるいは新聞などの読み物に目を落としていたかだった。
クスクスと密やかな笑い声のする方を見れば、五、六人の女子大生の集団が、こっちを見て笑っていた。恥ずかしくなって荷物を持ったまま甲板に出る。
フェリーは風を切って力強く海を突き進み、はじけた潮が風に運ばれてぼくの頬にあたる。舐めとると、ほのかに塩辛さが口の中に広がった。日差しは強いけれど、風が吹くおかけで心地よさが勝る。
フェリーの正面に、その大部分を緑色に覆われた江古島が見えていた。
江古島はぼくの目を捉えて離さない。たった一人で家を遠く離れ、お祖父さんの故郷が眼前に迫っている。その事実にどうしようもなく興奮している。こんな状況で気持ちの昂らないやつなんていないだろう。足がうずいて、今すぐにも甲板を走り出したくなる衝動に駆られる。
あっという間に江古島の姿が大きくなっていく。島の南側に当たる正面にはもう防波堤と港が見えていて、そこから道路がまっすぐに町に伸びている。町は島の奥へと広がっていた。右手に視線を移せば、真っ白な砂浜と水面の透き通った海が細く長く島の端まで続いていた。町の背後から西側へと小高い山が青々と盛り上がっている。
フェリーは防波堤を避けて港に辿り着く。港の駐輪場に停まっていた自動車から、到着を待っていたのか人が続々と表れ始めた。
いよいよだ。フェリーは港から海に突き出た発着場に緩やかに止まった。
居ても立っても居られずに、降り口に駆け出した。
「本当に行くのよねえ」
ベッドの上で姉さんはだらしなく漫画を読んでいる。「あのさ、気が散るから自分の部屋で読みなよ」「漫画のセンスはあんたの方がいいわよね。おもろいわ」
溜息をついて勉強机に向きなおる。机の上には江古島への定期便を運航しているフェリー会社のホームページが表示されたスマートフォンと、母さんに提出するための計画表を書きだしたルーズリーフが散らばっている。ルーズリーフの半分は空白でさっきから考えはまとまらず、シャーペンでルーズリーフにぐるぐるとアフロを描いていた。
「あっ」「何々、あたしに着いてきて欲しいって?」「何だよ、結局行きたいのかよ」
机の引き出しから純一さんに貰った封筒を取り出す。一度、封筒から出して額を数えたけれど手は付けてない。お札の束を取り出すと姉さんは目を丸くした。
「あんた、どうしたのよ。それ」
「葬式でさ、純一さんに貰ったんだ。母さんの弟の人から」
姉さんは顎が外れたように口を開けたまま、お金に視線を注ぐ。「あんた、それで―」
「いままでのお小遣いの分だって。二人で分けてくれって」
お札を一枚ずつ数えてから半分に分けて姉さんに差し出すけれど、受け取ろうとしない。口は閉じられ、半ば半目になってぼくを睨む。
「お母さんは知っているの?いや、知らないわよね。あんた、そのことについて一言も話してないものね」
「母さんには言ってない。言えるわけないだろ、だって仲の悪かったお祖母さんが、お金を出してくれたから旅行費用は気にしないで、なんて。それに母さんから貰ったお金を使うつもりもない。計算したけど、純一さんから貰ったお金を姉ちゃんと半分にしても、旅行にかかる費用には余るくらいだし」
姉さんは胡坐をかいて腕を組み、眉間に皺を寄せる。
「大丈夫。旅行が終わったら全部を話して、お金は返す。怒られるとは思うけど」
姉さんはすっと立ち上がり、漫画の背でぼくの頭を叩いた。突然の鋭い痛みに涙が出た。
「何すんだよ!」
「母さんの代わりに、今あたしが怒ってんの。まったく。生意気になったと思ったら、ズル賢い知恵までつけおってからに。お金はいらない、あんたが全部使いな」
「でも―」
「でもじゃない」鋭い声音に動けなくなる。幼い頃から丁寧に植え付けられた姉の恐怖がぼくを縛り付ける。
「まったく、大人を馬鹿にするんじゃないわよ。あのねえ、親ってのはね、あんたの知らないところで、あんたの事を分かってるのよ。妙に強気かと思えば、まさかそんなことを企んでいるとはね」
「いいだろ、金はあるんだから」
「そういうことじゃないのよ」姉さんは呆れたように溜息をつく。「でもまあ、あたしが言っても説得力ないか。ていうかさあ、お祖母さんは本当にそんな使い方をしてくれって言ったの?」
「分からない。けどさ―」
純一さんからはお金が必要になるだろうと聞いている。それに書斎での出来事もある。単純にぼくが自分の都合の良い方に考えているだけなのか。
「けど、なによ」「何でもない」
姉さんは今度は深く溜息をついた。部屋の空気も沈んだように重くなる。
「じゃあ、あんたが言うことを信じるわ。旅行が終わったら全部、洗いざらいをお母さんに話す事。じゃなきゃ、あたし無茶苦茶に怒るからね」
「わかったよ。でも、お金は受け取ってくれるよな」半分はまだぼくの手にある。
「本音は欲しいけどね。でもいらない。全部あんたが使いな」
「なんで」
「旅ってのはね、予想外の出費があるものなのよ。それに学生のあんたと違って、あたしはもう自分で困らない分には稼げているしね。どうしてもって言うのなら、あんたに貸し付けとくわ」
姉さんはけらけらと笑う。「あんたにはまだお金が必要でしょ」
「ごめん」
「うん。許しましょう」姉さんは何度かぼくの頭を叩いた後で、またベッドに横になって漫画を読み始めた。勝てないなあと、思いつつも悔しさはない。弟とはそういうものなのかもしれない。
「お土産何がいい?どんなやつでも、買ってくるよ」
「酒のつまみ」
即答する姉さんに思わず笑ってしまった。
「おもしろいやつ買ってくるよ」
降船場になっていたフェリーセンターを出ると、昼過ぎの日差しに照らされた。甲板にいた時と同じようにそれほど暑さを感じない。潮風が絶えず涼しさを運んでくれるおかげだろうか。
ポケットからスマートフォンを取り出す。予約した民宿は島の北東部にあり、南に面する港からは―海が見れないのは残念だけど―島の中心から一本外れた内陸の道路を北にむかうことになる。徒歩でいけない距離ではないし、せっかく初めて訪れた島を歩いてみたい気持ちもあるけど、ひとまずは宿を目指すことにした。
電話した民宿の主人は、くぐもった声で十七時までにチェックインしてくれればいいと言っていた。時計を見れば、まだ時間にはだいぶ余裕があるけれど、早く着くことに超したことはない。着替えの詰まった荷物は重いが、気分は軽い。
港を見れば、多くの漁船が波面に揺れている。どこか寂れて活気がないけれど、既に今日の漁を終えているせいかもしれない。漁師の朝は早いと聞く。港の敷地内を少し歩けば、並木に囲われた公園が見えた。小学生くらいの子ども達がサッカーボールを追いかけている。
江古島の子どもだ。ぼくは不思議な感覚に捉われている。ここは日本で言葉も通じるはずなのに、どこか別の国の人を見つけたような新鮮な感覚が湧き上がる。足を止め楽しそうにボールを蹴り合う少年たちを、目で追いかける。
彼らから視線をずらせば、公園にいくつかある遊具の上に誰かがいるのが見えた。サッカーに興じる少年たちとは離れて少年が一人、ぼんやりと佇んでいる。
「やあ」
声は自然と出ていた。普段だったら声をかけるようなことは、しなかっただろう。呼びかけに少年はこちらをちらりと見下ろしただけで、大して興味も湧かなかったのか、またサッカーをしている集団へと顔を向けた。
「混ざらないの?」
訊ねると少年はうなずく。
「どうして?」
返事はない。きっと陽が暮れても会話にはならないだろう。とりあえずは少年から離れることにした。何はなくともこの旅行の目的は祖父の事を知るためのものだ。そのためにも、まずは民宿に辿り着かなくてはならない。
「ねえ」
呼ばれて振り返った。さっきの少年が遊具から降りて、こちらを見ていた。
「お兄ちゃん、東京から来たんだ」
一瞬、固まった。「それって、どういう意味で言っているのかな」
問いかけると少年は俯いて口を閉じる。大人げないと思いつつも少年の態度に、少しだけ腹も立つ。
「あのさあ―」
「剛士!」
どこからか女の子の声が聞こえてきて、少年が顔を上げた。彼の視線の先を追うと猛烈な速度で自転車が迫っていた。自転車は女の子が運転している。年は多分、ぼくと同じくらいだ。
少年のすぐ傍で自転車は土煙を上げて停まった。自転車をその場に乗り捨てると、女の子は勢いよく頭を下げる。
「うちの剛士が大変、失礼なことをしました」
「い、いや別に、何もされてないです」
「姉ちゃん。この人、東京から来た」少年はぼくを指差す。
「ばかっ、あんたはちょっと黙ってて」女の子は少年の頭を押さえる。「本当にごめんなさい」
「ほんとうに、なにも無かったから」まだ到着したばかりなのに居心地がとても悪い。何でもいいから離れたくなる。
おずおずと顔をあげ、図らずも上目づかいになった女の子と視線が合って、どきりとする。グレーのTシャツにショートパンツの女の子は、目に眩しい。ショートパンツから覗くすらっとした小麦色の太ももに、ちらほらと視線がいってしまう。
「下野陽太っていいます」
緊張したぼくから何故か出た言葉に、女の子は時が止まったように固まる。ぼくは女の子の顔をまじまじと見つめてしまっている。長いまつ毛が上下すると丸い瞳は、より大きくて見えて可愛い。ショートボブの髪型は小麦色の肌に合っていて、陽光に反射すると明るめの茶色に色を変える。染めているのかなと勝手にも想像していた。
「しもの、ようた、くん」突然の事に、女の子は状況が飲みこていないようだった。それもそうだと内心うなずく。というよりも、もう恥ずかしい。
「下の、野原に、太陽の陽で太い、です。それで下野陽太」半ばヤケクソだ。
「ああー」と納得しながらも女の子は、素早く動かした指先で宙に字を書いた。弟であろう剛士と呼ばれた少年は飽きてしまったのか座り込んで、そっぽをむいている。
「私は旭です。九に日って書きます」続けて女の子は自分の名前を宙に書く。「苗字は有田です。有する田んぼ。江古高の生徒です」
「江古高?」女の子の名前を指で掌に書きながら聞き返した。
「江古島高校っていうんです。江古にある唯一の高校」
「君も高校生?」
「じゃあ、君も、―下野君も高校生なんだ。ようこそ江古島へ」
有田さんはこれ以上ないくらいに笑顔を弾けさせて、綺麗に並んだ真っ白な歯を見せる。名前に負けないくらい眩しい表情に、さっきまで感じていた居心地の悪さは消え去っていた。
「下野君は観光で来たの?一人で?」有田さんは不思議そうにぼくの後ろを見る。
「そう、一人で来たんだ。観光と、あとは調べることがあって」
「一人で来るってすごいね」
有田さんは目を丸くした。ころころと変わる表情が素敵だ。
「江古はご飯も美味しいし海も綺麗だし、観光するところも沢山あるから、下野君も楽しんでね」有田さんは指を一つ一つ折っていく。きっと島の名所を数えているのだろう。「そうだ、今日はどこに泊まるの?」
「ええと―」
スマートフォンを取り出すと、有田さんが何気ない様子で横に並ぶ。無意識だとは思うけど、有田さんの顔が真横にある。歯磨きしたかどうか必死に思い出そうとしても、どうにも記憶がなくて息もできない。
「あっ、『ラ・メイル』なんだね」
「有名なお店なんだ?」
有田さんの丸い目が、その長いまつ毛の一本一本が数えられそうなほどに目の前にある。瞳は明るい茶色をしていた。
「うーん、良いお店なんだけど町から少し遠いとこにあるから、あまりお客さんは選ばないの。江古の外からきた夫婦さんがやっているお店でね、古民家を改築しているの。料理が美味しくてね。江古新に、―江古新聞っていう地元の新聞なんだけど取材されたこともあるんだよ」
「詳しいね」
「だって地元のことだもん。ここからだと一番楽なのはバスかな。っていうかバスしかないけどね」言って有田さんはころころと聞こえてきそうな程に軽やかに笑う。
「ちょうど、バスに乗ろうかなと思ってたんだ。でも歩くのも悪くないかなって―」
「下野君、驚くと思うよ」
有田さんの笑みが悪戯っ子のような、それに変わる。笑顔の引き出しの多さに、自然とぼくの顔もほころぶ。「―何に驚くの?」
「秘密です」微笑みながらも有田さんは、屈んで砂いじりをしていた弟の手を取った。「わたし、お使いと弟を探すように頼まれていて、そろそろ行かないと」
「ああ、うん。頑張って」
もう少し気の利いたことを言えないのかと心の中で愚痴る。有田さんは笑ってから倒れたままの自転車を起こそうとしていて、ぼくも慌てて自転車の横に跳び、起こすのを一緒に手伝った。
「ありがとう」
「女子が困っている時は助けろって、姉ちゃんに言われているから」
言ってからまた心の中で愚痴った。素直に助けたかったからでいいじゃないか。
「ううん。ありがとうね」
「あのさ―」
本当は「有田さん」と呼びたかったけれど、それはまだ気恥ずかしかった。
「―本当に何もなかったから。気にしないで」
「うん。ありがと、下野君も江古島で楽しい思い出をたくさん作っていってね」
弟をママチャリの後ろに乗せて、有田さんは港を離れていく。段々と姿が小さくなる二人の後を追って、ぼくも江古島へと一歩を踏み出した。港の正面には商店街に伸びていく道路が見えている。人の往来もあって、遠目にもそれなりに賑やかなのが分かる。
「えっ」
港の正面を横切る道路にぽつんと立つバス停の時刻表を見て思わず、声が出た。有田さんの言う通り、まさしく驚いた。
江古島を走るバスは一日に、たったの三本もなかった。しかも、タイミングが良いのか悪いのか次に来るバスは一時間後だ。島の人は果たしてこれで生活できるのかと思えば、そもそもバス停にはぼく以外に人がいない。それでも道路にはそこそこに自動車が通る。島の人はほとんどバスを利用しないのだろう。
道路を挟んだ正面の土産物店のひさしの下、椅子に腰かけた老人たちが談笑していた。でも、お店を出入りする人は滅多にいない。周りを見てもさっきフェリーでぼくを笑った女子大生の集団が物色しているけど、観光客らしい観光客も彼女たちぐらいだった。
待ちぼうけになるのも時間がもったいないけど、歩こうと思い立てばさっきまで元気だったスマートフォンのバッテリーの残量が怪しくなっていた。まさか道に迷うことはないだろうけど、頼れるものがなくなるのも怖い。
「土産でも見て時間をつぶすか」
一応、左右を確認して道路を渡った。軒を連ねる土産物屋のどれもで閑古鳥が鳴いている。
「いらっしゃい。お兄さん一人?」
適当なお店に入って店内を物色していると、恰幅のいいおばさんが声をかけてきた。
「そうです」「学生さん?」「はい」「へえ、珍しいねえ」「珍しいですか」
「うん、若い女の子の集団は来るけどねえ。あんたみたいなのは珍しいよ。何か買ってくかい?」
「お酒のつまみになるやつはありますか」姉さんの頼み事が瞬時に甦る。長年に渡る姉の支配の賜物だった。おばさんは口角を持ち上げて、陳列棚の一角にぼくを誘う。
「これ。いいアテだよぉ」おばさんは棚から小さめの瓶を一つ手に取った。
受け取った瓶を覗き込むと、得体の知れない何かが液体に漬け込んであった。成分が滲み出しているのか、液体にも色が着いている。「なんですか、これ?」
「エイのヒレをね、酒やら魚醤やら味りんやらで漬けたものさ」
おばさんの出してくれた試食用のそれを口に放り込む。異様に濃い臭いが口の中に広がって、鼻の穴からも漂って出てきた。
「うわっ、これ、やばい」
おばさんは高らか笑う。「あんた、酒飲みの才能があるね」
しばらくの間、おばさんと話をしながら商品の試食を重ねて姉さんに―ついでに父さんにも―お土産を選んだ。代金のお釣りを待っていると、おばさんの背後のポスターに視線が取られる。
「江古島納涼祭?」
ポスターにはやぐらを背に盆踊りをする浴衣姿の人たちが描かれてある。温かみのある絵柄だ。描いた生徒の名前の札が絵の下部分に張り付けられてあって、どうやら江古島小学校に通っているらしい。
「明後日の夜七時にスタートさ」
おばさんはまた静かに口角を持ち上げる。彼女の癖なのかもしれない。若いころはそのミステリアスな笑い方に魅了される人もいたのだろう。
「俺、島の人じゃないですよ」
「構うもんか。昔から祭りは大人数で賑やかな方がいいと相場が決まっているのさ。そうでなくても最近は観光客も少なくて、江古には元気がないからね」
「そうですか」
「あんたが沢山お土産を買っていってくれると、泣いちゃうくらいに嬉しいけどね」
満面の笑みのおばさんから、お釣りと商品の入ったビニール袋を受け取る。少しの間、おばさんと談笑していると、時間が経つのは思いのほか早くて排気の音と共に店の外にバスが姿を見せた。
「楽しんでおいで」
おばさんに見送られて、所々錆びたバスに乗り込む。驚くことに車内は冷房がなくて、天井に扇風機が張り付いて風を送っていた。ほとんどの窓が開けられていて、窓際の適当な席に座るとおばさんが外から手を振る。ぼくも振って返した。
運転手は低い声で出発を知らせる。主の知らせを受けたバスはひと際大きく身を震わせると、ゆっくり加速し始めた。振り返るとおばさんの姿は、あっという間に小さくなっていった。
乗ったバスにはおばあさんが一人、舟をこいでいるだけだった。もしかして、と不埒なことを考えたけど、こちらを見て深く頭を下げたので、申し訳なくなって頭を下げ返した。バスは島の海沿いを東に向かって走り始めると、すぐに内陸に進路を変える。海は背後に遠くなっていく。
祖父の―寅一さん―のことを知る。それがこの旅の目的だ。
バッテリーの残り少ないスマートフォンの、メモアプリを立ち上げる。昨日までに目的を整理し直し箇条書きにしておいた。
・祖父の過去を調べる。超能力は使えたのか
・お祖父さんが島を離れることになった理由
・ノートに書かれていた龍太郎さん、慶次さんとの関係も知る
・四人目は誰なのか
思い出の中のお祖父さんは触れずに物を動かした。一般的に言えば、それは念動力かあるいはサイコキネシスと呼ばれる能力だ。それを、お祖父さんが使えたのかどうか詳しく分かれば、思い出が本当にあったことだと確信がもてる。超能力者なんて滅多に―という言い方はおかしいけれど―いないはずだ。
お祖父さんはきっと超能力を使えることを隠していたはずだ。それは母さんとお祖母さんの態度からも明らかで、映画やドラマの世界の超能力者も大抵は皆、自分の能力を隠していた。超能力が明るみになったらトラブルに巻き込まれないわけがない。出来る限り秘密にしておいて、いざという時にだけと考えるだろう。
そう考えると、途端に困難な道のりに思える。たかだか高校生に達成できるかどうか怪しくなってきた。人の秘密を探るのは難しいはずだ。それもただの秘密ではない、とっておきのものだ。
車窓の外に広がる風景は畑と雑木林ばかりで海は時折、隙間を縫って遠くに見えるだけになっていた。車内に放送があってバスが止まると、座っていたおばあさんが時間をかけて降りていった。さらにバスに揺られていると、目的のバス停の名前が告げられる。降車ボタンを押して待っていると、前方に雑草に飲みこまれかけたバス停が現れた。
お金を払ってバスから降りると、排気ガスを吐き出してバスは去っていく。半ば雑草に覆われていたバス停は錆びついていて、バス停の名前がほとんど読めなかった。周囲を見回しても畑しかなくて、背伸びをして家屋の集合している場所が見えた。港で出会った有田さんの言う通り、ここら辺は遠くて観光客は来ないかもしれない。
地図によれば先ほどから見えている町とも村ともいえない、その中間のような家屋の集合している場所に予約した民宿があるはずだった。
宿を目指し数分歩き出すだけで、汗が流れてきた。高く昇った太陽から降り注がれる日差しを遮るものは何もない。島の内陸は日本の夏をしっかり感じさせる暑さだった。それでも海風が涼しさを運んでくれているようで、都内に比べると過ごしやすくはあった。
荷物を肩にかけて汗を滴らせながら歩けども、人の通りがない。時々思い出したように軽トラが横を抜けていくだけで、それも畑の方に消えていく。町内には近づいているけど、家があっても本当に住んでいるのかどうかも怪しい。電池の切れかけたスマートフォンは、民宿は町にあると教えてくれるけれど、情報が古かったらどうしようなどと、嫌な想像ばかりをしてしまっている。
不安を抱えながら、ようやく着いた町内を汗を垂らしながら歩いていると、古民家の軒下で掃き掃除をしている女性がいた。ようやく出会えた人に心から安堵した。
「すいません」
掃き掃除をしていた女性が顔を上げる。ぼくよりも年上に見える女性は鼻が高く、しっかりとした眉に頼もしい印象を受けた。溌らつとした印象の綺麗な人は、肩にかかるくらいの明るい色の髪を後ろでまとめている。背はぼくよりも少し低いくらいだ。
「あら、何かしら」女性は笑顔を浮かべる。さらに華やかさが加わった。
「宿を探しているんです。『ラ・メイル』っていうんですけど。知りませんか?」
女性は瞬いた。「あなたが下野さん?」
「はい。そうです」
女性はクスクスと笑って軒を指差す。二階建ての由緒ある趣を感じさせる、大きな古民家の外壁には似たような色の看板が掛かってあって『la mar』と彫られてあった。
「いらっしゃいませ下野さん。それとも君がいいかしら?」
「ど、どうも、こんにちは」
「はい、こんにちは。ちゃんと挨拶の出来る素直な子ね」
失礼な話だけど表向きは普通の古民家みたいだ。それもかなり年季が入っていて、高平の家と風貌は大して変わらない印象を受ける。有田さんは改築したと言っていたけど、どこが変わったのだろうか。
口をぽっかり開けて古民家を見上げていると、掃除道具を片付けた女性が手招く。
「下野君、着いてきて」
女性が思い切りよく引き戸を開けると、表の古民家からは想像がつかない程に現代的な内装の店内が広がった。
広い店内には今風のデザインの木製のテーブルと椅子が並び、カウンターテーブルの奥にはシステムキッチンが見えた。壁にかかっていたメニューは木材と黒板の組み合わさったもので、お約束のように白のチョークでメニューと代金が書いてある。吊り下げられた照明は明るさを絞ってあって仄かに暗い店内を演出する。店内を美味しそうな香りが漂っていた。
「あたしは沢辺由香。一階のカフェの担当よ」
沢辺さんは奥を指し示した。「民宿は二階よ。奥にある階段から上がるの。夫の夏樹ちゃんが主人をしていてね。夏樹ちゃーん、予約のお客様よー」
どすん、どすんと家が揺れてカフェの奥から熊が顔を覗かせた。いや、熊のような風貌の大男がのっそりと―まるで春の訪れを感じ―籠っていた巣穴から目覚めたようにやってきた。夏樹ちゃんと呼ばれた男性が前に立つ。浅黒い体は山のようだ。ぴったりと張り付いたTシャツは今にも張り裂けそうで柄が横に伸びきっている。他にTシャツをもっていないのだろうか。
「いらっしゃいませ」
夏樹ちゃんの声は体躯からは想像も出来ない程に、ぼそぼそとしていて、拍子抜けしてしまった。よく見れば視線を逸らされている気がする。
「夏樹ちゃん、お客様なんだからもっとハキハキと対応してよ。もう、ごめんね、下野君。この人、ガタイに似合わず内気なのよ」
由香さんが振りかぶって夏樹さんの背中を叩いた。店内に小気味の良い音が響いて、夏樹さんはびくんと大きな体を震わせる。
「本日から、ご宿泊の下野様ですね。お待ちしておりました」
それでも、声は小さいままだった。叩かれたのに大して変化がないなと思えば、由香さんの方が痛かったらしく叩いた手を振っている。ぼくに気付くと由香さんは照れて笑う。
「今日から三泊、よろしくお願いします」
「あなたはお客さんなんだから、そんなにかしこまらないで。だからって無礼な振る舞いは許さないからね」
夏樹さんと目が合うと、口元が少しだけ笑っていたような気がした。「それじゃ、いきましょうか」と二人の後に続いて、カフェの奥にある階段を上がる。夏樹さんの巨大な背中はさらに大きく見えて、落ちて来たらひとたまりも無いだろう。
「まさか高校生が一人旅とはねー。予約が入ったときは驚いたわよ」
「迷惑でしたか」「全然、そんなことないわよ。うちは礼儀があって自然の好きな人なら、誰でも歓迎しちゃうの」「はあ」
二階は質素ながらも和風の作りになっていて、どうやら改装したのは一階部分だけらしく、板間の廊下と三つの部屋に繋がる襖が見えた。開いている襖から風が流れてきて、冷房がなくても充分な涼しさが感じられた。
「お会計は一階ね。お風呂も一階で、上って来た階段の裏手というか奥にあるわ。本当は順番なんだけど、下野君しか泊まる人がいないから好きな時に入れるわよ」
由香さんがけらけらと笑う横で、夏樹さん無言で立っているだけだ。
「あとは、ご飯だけど民宿だから基本は出ないわ。自分で買って食べるか一階のカフェで食べてね。カフェでご飯を食べると宿泊割引も利くからお得よ」
「コンビニって近くに―」
言いかけると二人は同時に首を振った。「そんなものはね、この島にはないのよ」
「―ですよね」バスから見える風景にもコンビニの影も形もなかった。
「さて、じゃあ部屋を選んでくださいな。好きな部屋を選んでいいわよ」
夏樹さんはさっきから由香さんの説明に合わせて、うなずいているだけだ。夏樹さんが宿の主人だったんじゃないのかと苦笑いしつつも、部屋に入ると畳の感触が足裏にくすぐったかった。さして広くない部屋の窓辺に近づくと、江古島の田園風景が一枚の絵画のように広がっていた。
「ここにします」振り返ると二人は部屋の入り口に立っていた。
「即決ね。まあ後から予約が入らない限りは、いつでも変えられるけど。それじゃあ、ごゆっくりどうぞ。あたしたちはカフェにいるから、何かあったら気兼ねなく呼んでね」
階段を降っていく二人を見送ってからボストンバッグを降ろし、足を放り出した。
窓から入ってくる風に目を閉じる。いつも受けていた都内の風とは違う、お祖父さんが受けていた風をいま確かに身に受けている。改めて遠く離れた地に一人でいることを実感していた。
時計を見れば、まだ十四時を回ったばかりだった。島での拠点も確認できたことだし、次に行動を移そう。充電ケーブルにつないだスマートフォンをタップして、地図アプリを開く。江古島の役所の場所を確認しルートを検索した。