出発前夜
「こっちもむこうと変わらないくらいには暑いわね」
溜息をつく母さんに同意するのも億劫になる程に、相変わらずの調子で都内は暑い。空港から電車とバスを乗り継いで、ようやく辿り着いた我が家の入るマンションを見上げる。バス停からマンションまでの間で、ワイシャツの下に着たアンダーシャツもパンツも汗で肌に張り付き、すでに不快感には降伏していた。
「早く着替えたい」「ほんとに、そう」
行きよりも増えた荷物を両手にマンションの三階でエレベーターを降りて、目に入った光景に足を止めた。マンションの廊下から遠くに見えるビルは、鮮やかな橙色と藍色のグラデーションを背に影絵のように並び、見慣れているはずなのに新鮮だった。
「なに、ボーっとしてんのよ」母さんはすでに玄関前に立っていた。
「あれ、灯りが点いてる」母さんが鍵を回して玄関扉を引くと、廊下は明るく涼しさが、ほのかに感じられた。
「父さんが帰ってんじゃないの」
玄関には靴が一組増えていた。母さん以外で女性ものの靴を履く人は我が家では一人しか心当たりはないけど、その人は家を出て社会で戦っているはずだった。
「ただいまあ」
「疲れたぁ」
リビングの扉を開けると冷気が体を包みこんだ。スラックスからワイシャツを引っ張り出して扇ぐと、貯まりきったワイシャツの中の熱気が押し出される。あまりの気持ちよさに「ふわぁ」と声にならない声が出る。
「おかえり」
冷房の効いたリビングのソファに、スプーンを咥えた姉さんがだらしなく体を預けていた。片手には食べかけのカップアイスがある。テレビは点けっぱなしで夕方のニュースが流れているけど、がさつな姉さんのことだから、ちゃんとは観ていないはずだ。
「あら、めぐみ。帰ってたの。夏休み?」
「そうそう。昨日の昼頃に帰ってきました。忙しくなる前に休みを取れって言われてね」
持っていた鞄をソファに放り投げ―抗議の声を上げる姉さんを無視して―キッチンの戸棚からコップを取り出す。製氷室に直接コップを入れて氷を掻きいれ、麦茶を注ぐ。そのまま一気に麦茶をあおる。喉が音を立てて冷えた麦茶を胃に流し込んでいく。溢れた麦茶がこぼれ、顎を伝ってアンダーシャツを濡らした。
「お腹壊すわよ」空になったコップを置く横で、母さんが一言こぼす。「母さんにもちょうだい」
「氷はいる?」もう一つコップを取り出して尋ねると、母さんは首を振った。「ていうか、父さんは?」
「仕事でしょ。今日は平日だぞぉ、学生君。もう夏休み気分なのかな」
スプーンを振って弟を非難しがらも、姉さんは食べ終えたアイスのカップを流し台に持っていき流水で洗ってから、ごみ箱に投げ入れる。
「いや、夏休みなのか。羨ましいねぇ」
「ねえ、めぐみ。夕飯任せてもいい?母さん疲れちゃったわ」椅子に座ってもたれる母さんに麦茶を渡すと、少しずつを口に含ませるように飲んだ。「ああ、そうだ。お土産。よかったら、会社の人に持っていって」
「わあ、ありがと。よっしゃ、あたしに任せとき。リクエストはある?何でもいいはナシね」
お土産の紙袋を片手に姉さんは冷蔵庫の前に立って、うきうきしながら冷蔵庫を開けたけど、すぐに「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。
「冷蔵庫に何も入ってないじゃないのよ。もうっ、父さん。この馬鹿みたいに暑い中、娘に買い物に行けっていうの?」
姉さんはぷりぷりと怒りながら部屋に引っ込んでいった。と思ったらすぐにまた顔を出してきた。「着替えてくる。あとで車の鍵、貸してね」
「俺も荷物の整理をしなきゃ」ソファに投げた荷物を拾い上げ自室に向かう。
部屋の扉を開けると、自分の部屋のはずなのに自分のものではないような違和感を覚えた。ただ、それ以上に張っていた気力の糸がほどけて、荷物を床に置いてベッドに倒れ込む。さっきまで感じていた感覚も何度か瞬きをする内に、いつも通りの見慣れた部屋に戻っていた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、のそりと体を持ち上げて鞄から引っ張り出した充電ケーブルをつなげる。真っ暗だった画面に元気が戻りタップすると、最後に見ていたウェブサイトに繋がった。海底まで透き通った海の画像を背景に、独特なフォントの文字列が浮かび上がる。
「江古島へようこそ」
葬式からの帰りの飛行機の中、江古島を検索にかけるとすぐに出てきた。島の形は楕円形の金平糖のようだった。どうやら高平家のある県の沖合にあるらしくフェリーが日に二便、朝早くとお昼過ぎに出ていた。
ホームページの「観光」の部分をタップすると、島の名所が写真と共に表れる。やっぱり海の綺麗さが最大の売りらしく、島に何か所もある海水浴場の画像が何枚も―しつこい程に―ある。
他にも北西部から中央にかけて、手つかずの雑木林とそれからなる小高い山があり、島の南部にある商店街で食べる特産品や、お洒落な宿泊施設など長所が目白押しだった。「自転車で各地を巡るのがお勧めですよ」という吹き出しポップの横に、半袖のワイシャツを着た、目の笑っていない坊主頭の男性の画像が並んでいる。
ここがお祖父さんの住んでいた島なのだろうか。とても出ていくには、もったいないくらいの場所だ。この島の事を知ったら周囲の大人は口を揃えて、切実に願望を漏らすだろう。「仕事を辞めてここに住みたい」
鞄から祖父の大学ノートを引っ張り出す。結局、祖母には何も言わずに持って帰ってきてしまった。言い訳をするのならば伝えるタイミングが無かっただけだ。
最後のページを開き、読み上げる。「慶次、龍太郎、すまなかった」
わざわざ名前にする程の二人は多分、友達か若しくはそれ以上の関係だったに違いない。謝らなければならない事は何だったのか。
「江古島に帰りたい」
お祖父さんが島に帰れなくなった理由は何か。
超能力が原因だったのだろうか。
純一さんはお祖父さんは婿養子だったと言っていた。だとすると、何かしらの事情があって島を離れざるを得なくなった祖父が、本土で祖母に出会って結婚したと考えるのが妥当だ。
「また四人で笑い合いたかった」
祖父を含めても一人足りない。どうして名前を書かなかったのか。それを確かめる術はもうない。仮に元気だったとしても、知ることは難しかったかもしれない。
結局、何一つとして疑問は解決していない。思い出の老人が祖父であることすらも確かめられないまま帰ってきてしまった。もっと言えば、さらに謎が増えてしまう始末だ。母さんと祖母のあの態度は何だったのか。
もう一度、高平の家に行き正直に告白すれば、長年の疑問は解決するかもしれない。純一さんはいつでも待っていると言ってくれた。夏休みの今なら時間もある。
けれど心はノートに捉われ始めている。
純一さんから渡された封筒はまだ鞄の中にある。姉さんと二人で分けるようにと、言われたけど知らなければ無いのと同じだ。怒られることもないはずだ。
右膝に手を重ねる。ほんの少し違和感はあるけれど、もう痛みはない。ただ、これから先の事を考えると、すべきことに体が重く感じてくる。
「あんたって、結構タイミングいいわよね」
飛行機の中で放たれた母さんの言葉が甦る。苛立ちはない。心の方向は決まっている。
「説得するだけか」
「だって母さんたちは一泊二日で帰ってくるんだぞ、一晩位ならスーパーの弁当で十分じゃないか」
「でた、自分の事しか考えていない発言。だからさあ、遠いところから帰って来た二人に料理を作ってあげようくらいは、考えてもいいんじゃないの。それに炒め物くらいできないと。お母さんに捨てられたら、どうやって生きていくのよ」
「なんか、めぐみの物言いが物々しくて、父さんは怖いよ」
家族四人で囲む食卓のテーブルには唐揚げの山がある。姉さんのお手製の唐揚げの衣はカラッとして歯切れが良く、齧ると肉の弾力と一緒になって肉汁が溢れ出す。熱さに思わず、口の中で転がした。
「美味しいでしょ」
聞いてくる姉さんにうなずいて答えると、満足げな表情でぼくの取り皿に唐揚げをさらに盛る。咀嚼を繰り返し飲みこんで、ようやく口を麦茶で冷やす。「これ、彼氏にも作ってんだ」
「捨ててやったわ、あんな男。あんたもあんな男になるんじゃないわよ」姉さんは唇を尖らせた後で、豪快に唐揚げを噛み千切った。
食卓に山盛りの唐揚げは、母さんたちには到底食べ切ることはできず、山をすこし突いたぐらいで自然と箸が止まり、結果として半分以上がぼくの胃の中に納められた。育ち盛りといっても、さすがに残りも数えられる頃になるとお腹が苦しかった。
「ごちそうさまでした」
空の大皿を前に手を合わせると、姉さんは食器を重ねてシンクに運び始める。そそくさと晩酌を始めようとする父さんを、姉さんは目だけで制して手伝わせる。母さんはといえば荷解きを終え「お風呂に入るね、あー疲れた」と言い残して姿を消していた。
皿洗いを終えた父さんはゴム手袋を外すと、ビール片手にテレビの前に座った。贔屓の野球チームのピッチャーがアウトカウントを重ねるごとに「よし」と声を荒げている。
「あたしもアイス食べよーっと」姉さんは冷蔵庫から本日、二個目のアイスを取り出した。
「姉ちゃん、太るよぉ?」「あんた、ちょっと見ないうちに生意気になったわねぇ」
姉さんを揶揄いつつも、ぼくも冷凍庫からアイスを取り出してソファに腰かける。「あたしに感謝しなさいよ。暑い中、一生懸命運んできたんだから」「車で買い物に行ったんだろ」「あんた、ぶっ叩かれたいの?」
「こらこら、喧嘩するな。―それで、どうだった。母さんの実家でちゃんと挨拶できたか」
「まあ」
「なんだ、歯切れが悪いな」
「とにかく大きい家だったよ。人の出入りも多くてさ。弔問客って言うんだっけ、入りきらないくらいには。あとトイレを探すのも大変だった」
父さんと姉さんは声を揃えて笑う。「お義父さん、有名人だったんだなあ。母さんはどうだった」
「最初は機嫌が悪かったけど、まあ、最後は良くなってた」
空港についてから霊園での出来事までをかいつまんで話す。父さんが「うんうん」とうなずく横で、姉さんは興味なさげに聞いていた。
「いい経験になったな」言って父さんは空になったコップにビールを注ぐ。
「そうかな」
「なかなか自分じゃあ気付かないもんだ」
父さんの言う通り、初めてで奇妙な体験ばかりだった。同じ体験をした高校生は多くないと勝手に思う。けれど、そもそもの目的を解決することはできなかった。むしろ、新たに別の疑問が大学ノートという形になって現れている。
それとはまったく異なった長年の疑問が、頭をよぎり何も考えずに口にしていた。
「母さんの実家と喧嘩したの?」
父さんはコップを落としそこなった。「誰から聞いたんだ?」
ぼーっとしていた姉さんを指差す。すると姉さんは慌てた様子で「あたしは浩介叔父さんから聞いたのよ」と取り繕い鬼の形相でぼくを睨む。これは早く封筒を差し出さないと、大変なことになりそうだ。
「まあ、父さんたちを除けば、事情を知っているのは浩介さんしかいないだろうなあ」
父さんはコップをちゃんとテーブルに置いてから考え込んだ。ぼくはソーダ味のアイスを齧りながら、テレビを見て父さんを待つ。
白を基調とした青い縦じまの走るユニフォームをまとった、まさに丸太のような体躯の選手がバットを縦に立てて構えている。準備万端のピッチャーがボールを放つ。
バッターボックスの選手は体の軸を一切ぶらさず、コマのように回転し、鞭のようにしなったバットは白球を捉える。白球は一瞬で画面上部に消え去り、瞬時に中継映像が切り替わって点になった白球は―夜空に放物線を描いたかは分からないけど―同じ色のユニフォームを着た応援団の待つスタンドに突き刺さって消えた。
歓声が沸き上がり、父さんはテレビの音量を下げた。それでもなお、スタジアムの持つ熱が画面を超えて伝わってくる。
「陽太たちは、父さんたちがお祖父さんと、あまり仲が良くないのは知っているんだよな」
姉さんと目が合ってからうなずいた。「知っているというか、分かるよね。今回、行ったのが初めてだったわけだし」
父さんの視線はテレビに向いている。贔屓のチームが逆転してもあまり喜ばなかったので結構、真剣に考えているのかもしれない。「そりゃあ、そうだよな」
ホームランを打った選手がグラウンドを一周する。最後にホームベースに戻り、待っていた選手たちとハイタッチを交わした。
「めぐみも、陽太も寂しいと感じたことはあるか?」
「別にないよ。じいちゃん、えーと、寿郎じいちゃんも、照子ばあちゃんも優しいし」
「あたしも陽太と同じかな。ずいぶん優しくしてもらったし。あたしにとって二人は大切なお爺ちゃんとお婆ちゃんだよ」
「そうか」実の両親を褒められて、嬉しかったのか父さんは照れたように頭をかく。その手を膝に上に置くと交互にぼくらを見やった。
「実はな、父さんと母さんの結婚は反対されていたんだ」
「へえ、そう」「そうだったんだ」
「なんだ、あまり驚かないな」
「まあ、そんなところだなって」「うんうん」
父さんは漫才のようにガクッと体制を小さく崩した。多分、相当な決意を持って臨んだことだったのかもしれず、少しだけ罪悪感がある。
父さんは、ちょっとだけ崩れた体勢を直して話を再開する。「父さんたちは大学時代に出会ったんだ。母さんを初めて見た時は電撃が走ったよ。モデルさんみたいだったなあ。それで、すぐに口説いてオッケー貰って、あちこちにデートしたもんだ。卒業したら、すぐにでもプロポーズしようと思っていたくらいでな―」
「なんか親の恋愛話を聞くのは恥ずかしいな」
「だね。でも、あたしもいつか子供が出来たら同じ話をするのかなーって」
「もうちょっと、親の話を真剣に聞いてもいいんじゃあないか?」
「ごめん、ごめん。続けて」
父さんは咳ばらいをする。「―それでだ、まあ父さんは卒業後、しっかりと就職して母さんにプロポーズした。だけど、母さんは母さんで地元にお見合いの話があったらしいんだ。たぶん、地元に結婚相手がいたんじゃあないかな」
「へえ、名士の息子ってやつ?」
「それかどうかは知らないよ」父さんは困ったように笑う。「で、認めてもらおうと挨拶にも行ったんだけど―」
「―反対されたんだ」
継いだ姉さんに父さんは苦笑いを浮かべる。「今にして思えば、よくまあ顔を出せたと思うよな。若かったなあ」父さんはコップに残ったビールをひと息にあおる。
「それで、それで。その後は?」姉さんの目は爛々と輝いていた。
「こっちで無理矢理、式を挙げたんだ。母さんもムキになっちゃって。一応は招待状も出したけど、返信すらなかったよ」
「それで一度も帰らず、今に至ると」
「その通り」
きっと大喧嘩だったのだろう。姉さんとぼくが生まれてからも、ずっと会わずにいたくらいだ。中学生になるまで名前を知ることも、顔も見ることがなかった。もし仲直りしていたらと考えて止めた。言い出したらきりがない。
それでも受話器を手に立ち尽くす母さんの姿を思い出す。あの時の母さんは声をかけるのも躊躇する程に落ち込んでいた。距離を置いていたとはいえ、両親が亡くなることには、どうしようもなく寂しさを覚えるのだろうか。
「何よ、母さんをのけ者にして秘密会議しているの?」
お風呂から上がった母さんがリビングに姿を見せた。鼓動が一気に早まり、ぼくは心の内で強く決意を固める。「時が来た。説得するんだ」
「父さん、母さん。話があるんだ」
二人をまっすぐに見つめる。静まり返ったリビングで、不思議そうに息子を見る母さんは、父さんの隣に並んで腰かける。「あたしは?」と茶々を入れる姉さんは無視した。
「旅行に行きたいんだ」
二人は顔を見合わせる。「一人で?」
うなずいて返すと、二人はまた顔を見合わせた。
「どこに行くの?」
「お祖父さんの、寅一さんのいた島に」
母さんが言葉を失う。父さんは困惑している。さすがに姉さんも黙っていた。
「あんた、知っていたの?」
「お祖父さんの家に行ったときに知ったんだ」
「えっ、お祖父さんって島育ちなの?」
「それは、はっきり言って分からない。もしかしたら少しの間、住んでいただけかも知れないし―」
「ううん。お祖父さんは、おとうさんは島で生まれて育ったのよ」
母さんは俯いていた。ぼくは高平家の畳に崩れる、母さんの姿を思い出してしまっている。
「ごめん、母さん」
「いいのよ。続けて」母さんは顔をすこし上げて言う。
「この間、高平の家に行った時に俺は、お祖父さんのことを何も知らないって気付いたんだ」
「それは、そうよね」姉さんはリモコンを取ってテレビの音量を下げた。「あたしなんて何も知らないし」
「だから知りたいって思ったんだ。お祖父さんが見た景色を俺も見たい。育った島を見てみたいんだ。血の繋がっている人なのに何も知らないのは悲しいことだと思う」
純一さんの車で見た母さんのあの顔は見間違いではなかった。母さんはぼくの知らない祖父の秘密を知っている。いや知っていて当然なのかもしれない。
「なんていう島なんだ」「江古島っていうんだ」「その江古島はどこにあるんだ」「お祖父さんの家のある県の沖合だよ。一日に二便フェリーが出てる」
「国内か。でも一人で行くんだろう?危険じゃないか?」
「大丈夫じゃない?陽太だって、もう高校生だし国内ぐらいだったら平気でしょ。別に中東に行こうってわけじゃないんだから」姉さんはあっけらかんとしたもので心強い。
「いやいや、陽太はまだ高校生だぞ。まだ、だぞ。何かあったらどうすんだ。それにお金もないだろ」
「実はお小遣いが貯まっていたんだ」
父さんの横に座る母さんは黙ったまま、じっとぼくを見ている。その表情は祖母に似ていて、やっぱり血の繋がりを感じさせた。
「母さんも大丈夫だと思うわ」
「母さん」父さんは信じられないとばかりに溢すように言った。
「陽太が自分から生きたいって言っているのよ。止めるのも野暮だわ。けどね陽太、旅費の計算はしなさい。必要な分は出してあげるから」
思いつめたような表情とは裏腹な、意外なまでに前向きな母さんの姿勢に戸惑いが隠せない。絶対に反対されると思っていた。
「部活はどうするんだ。夏休みも練習はあるんだろう?」
いつ来るかと待ち構えていた質問だったけれど、実際に聞くと心臓が喉をせり上がってきそうになる。「休むよ。先生にもちゃんと話す」
「なんて説明するんだ」
一呼吸置く。これは近いうちに対面する山田先生との予行演習だ。
「やりたいことがあるからって」
父さんは腕を組んで口をきつく―やっぱりうねっているけど―結んで考え込む。その肩に母さんがそっと手をのせ、目で伝える。
「わかった。行ってきなさい」父さんは深く頭を上下させる。目尻に細く皺が重なっていた。
「でさぁ、いつから行こうと考えているの?」
「夏休み中には行きたいと思ってる」
「島ってことはさ、飛行機?フェリー?何泊くらいを考えているの?」姉さんはともすれば着いてきそうな勢いで捲し立てる。
「まだ全然決めてない。二泊くらいは必要だとは思うけど」
「それぐらいがいいかもね」
姉さんはぼく以上に浮ついた様子で、まさか本当に一緒に行くなんて言い出すことはしないだろう。けど、さっきまで厳しい表情だった父さんも、もうすっかり緩んだ頬で釣り竿を投げる仕草を繰り返していた。「いいなあ、島か。何が釣れるんだろうな。俺も行きたいなぁ」
「陽太が独りで行くのよ」
今晩の家族会議は、母さんが浮ついた二人をピシャリと叱りつけた事で解散になり、ぼくは部屋に戻った。一晩かけて、初めて立てる一人旅の計画にあくせくしながらも、江古島への経路に、宿と日取りを決めた。翌日の夜にプリントアウトした計画表を二人に見せると、審査が降りて父さんは財布からお金を取り出した。
「よく考えて使うように」母さんは釘を刺す。「それと陽太。約束して。危険だと思ったらすぐに助けを求めるか逃げること」
うなずいて、受け取ったお金を財布に忍ばせる。これは足りなくなった時のための保険だ。
再び戻った部屋のカレンダーに目をやる。赤のサインペンで三重に囲った丸印の日付まではあとほんの数日だ。いまこの瞬間も待ち焦がれている。
試合の日の前夜だってこんな気持ちにはならかった。
「なあ、下野。怪我は治っているんだろう」
冷房のしっかり効いた職員室には、自分の席に着いて斜に向かう山田先生がいる他には、自分の仕事に没頭しているか、あるいは団扇で煽ぎながら、ぼんやりと宙を眺めている先生がいるかだった。
猛暑の中、グラウンドで練習する同級生から身を隠して山田先生を探したが見つからず、職員室に向かうとジャージ姿の先生は熱心にノートにボールペンを走らせていた。
「皆、待ってるぞ」
決して非難する口調ではない。けれど返答に詰まってしまう。逃げるように机の上のノートに視線を落とす。ページの隙間を埋めるほどに、図を交えて描かれた練習メニューは一目見ても分かりやすい。
「やっぱり気まずいか。来るの」
「そういうわけじゃないんです」
「でも膝の怪我が治ってから、ずいぶん経つだろう?何か理由があるんじゃないのか。先生でよかったら話を聞くぞ」
山田先生はまっすぐにぼくに向き直る。熱血で単純な人と馬鹿にする生徒も多いけど、少なくとも部活の仲間たちに山田先生を悪く言うやつはいなかった。時々は揶揄ったりもするけど。
「ないです。本当に」
「下野がそう言うのなら、いいけどなあ」
山田先生は椅子を引いてすすめるけど、断って立ったままを選んだ。
「怪我をした時は、治ったら絶対に戻るつもりだったんです」
山田先生はじっとぼくを見ていたけど、何かを発しかけたように口を開いては、またすぐに閉じる。「難しいなあ。なっ下野」
「えっ」
「難しいよ、本当に。何年、教師を経験しても難しいことばかりだ」
「はあ」
「なあ、下野が初めてボールを触ったのはいつだ?」
「小学生の頃です、多分。あまり覚えてないですけど」
「そうか。長い間やってたんだな」山田先生はボールペンを指で弾いて回転させる。「親御さんに勧められたのか?」
「はい、父さんに連れられて」
「楽しかったか?」
「楽しかったです」
「今は違うか?」
職員室が静まり返る。ぼくはまた言葉に詰まる。山田先生は回転させていたボールペンを指で挟んだ。職員室中が次の言葉を待っているようだった。
「今は、今は他にやりたいことがあるんです」
「それは部活よりも大事なことか?」
まだ何も分かっていない。祖父の過去を知れば、あの思い出が本当にあったことなのかが分かると信じ込んでいるだけだ。
「部活よりも大事なことです」
山田先生はじっとぼくを見る。まるで見透かされているようで、掌に汗を掻き始めている。
「それじゃあ、しょうがないな」
山田先生の眉が下がり口元が緩む。「けどな、下野。練習に参加していない分、他の奴らよりは遅れることにはなるぞ。帰ってきても簡単にはレギュラーはやらないからな」
「はい。分かってます」
山田先生は静かに笑った。
「そうか、そうか。そこまで言えるか。うん、分かった。しっかりやってこいよ」
「ありがとうございます」
「下野が決めたことだろ。俺が礼を言われるような事じゃない。で、よかったら教えてくれないか。なんだ、やりたいことって」
「祖父の事を知りたいんです。それを調べに行きます」
山田先生は微妙な表情を作る。何度か瞬いてから、ゆっくりと口を開いた。「下野はおじいさんと仲が良かったんだな」
「いや、その、実は祖父の事はほとんど知らないんです」
「聞いちゃいけない事だったか」
「そんなでもないです。うちの両親が実家と距離を置いていただけみたいで、いわゆる略奪婚ってやつです」
「おいおい」と山田先生は驚きつつも、苦笑いを浮かべる。「そりゃ、充分デリケートな話だろ」
「詳しく話しますか?」そうは言っても話せることは少ない。
「生徒からは、そんな話を聞きたくないなあ」
山田先生はちらりと視線を逸らす。つられて、そっちを見れば聞き耳を立てていたのか、近くの先生と目が合った。「なんだよ、もう終わりかよ」と言われている気がした。黙って山田先生と肩をすくめ合う。
「いつ出発するんだ」
「明後日です」出発日からこっちに帰ってくるまでの日付も脳裏に焼き付いている。
「飛行機か?」「はい。途中からフェリーに乗って」「いいなあ、俺も行きたいなあ」「父さんと同じこと言ってますね」「大人はみんな疲れているんだよ」
「よし」山田先生は自分の太股を両手で叩いてぼくを見上げる。「下野、気をつけて行って来いよ。怪我だけはしないようにな」
鞄を背負いなおして山田先生に背を向けた時に、母さんに葬式の帰りに買った、お土産を持たされたことを思い出し、鞄から取り出すものの山田先生はそれを止めた。
「ちゃんと、帰って来て皆に顔を見せてからな。ちゃんとお前が買った、お土産を期待しているぞ」
「東京ばななでいいですか」
「お前なあ」
笑って蹴る仕草をする山田先生を背にして職員室を出た。廊下を歩けば、自然と早足になり我慢できず走り出す。高揚感がぼくを包み、まるで足に重さを感じさせない。スキップなのか、あるいはジャンプなのか、自分でもよくわからないうちに廊下を跳ねていた。