高平邸にて②
裏の駐車場から高平家に向かう途中も、出入りする人たちは、ぼくらに視線を向けては眉をひそめ口を隠してお喋りに興じ、ぼくがちらりと見るだけで、すぐに顔を逸らす。車から降りたばかりの時は腹も立ったけど、逆に特別な感じがあって注目を集めるのも悪くはないかもしれない。
「大きい家ですね」
「ずっと昔から農家をやっているからかな。それでもな、ここらじゃ珍しい広さだ」
母さんが突き進めば、訪問客は潮のように引いていく。高平家の敷居を跨いで、広い三和土に入ると静まり返り、その場にいる誰も彼れもからの視線を一身に受ける。天然の涼しさに少し冷たさすら感じていた。
「ただいま、おかあさん」
母さんのまっすぐに向いた顔の先、三和土を上がった所に着物の老婆が立っていた。
白髪の老婆の腰はすっかり曲がり手には杖が見える。それなのに、この場は老婆の佇まいに飲まれている。張り詰めた空気に縛られたように誰も動けずにいた。母さんと祖母は互いに動かない。
ぼくも「こんにちは」と声を発したけれど、緊張のせいか口が動いただけで声は自分の耳にやっと届く程度しか出なかった。
祖母は丸眼鏡の奥からぼくらを見下ろす。まるで品定めするかのように、たっぷりと時間をかけていたけど羽織を翻し家の奥へと消えていった。その健脚ぶりは、果たして杖が必要なのだろうかと思うほどだった。
「親父に顔を見せてやってくれ」
純一さんは何もなかったかのように三和土を上がる。ぼくと母さんも後に続く。
迷路のように入り組んだ狭い廊下を、途中に高平の家の人達とすれ違いながらも歩いていると、線香の香りが強くなっていることに気付いた。純一さんの足取りは次第に緩やかになり、思わず唾を飲んだ
「ここだよ」
純一さんの足が襖の前で止まる。荷物を置いて襖の持ち手に指をかけた。
部屋は蝋燭が数本立って明かりを作っていた。冷気の満ちた部屋は涼しさよりも、何か底冷えするものが漂っているようにも思える。
部屋の中央に布団があって、白い布が細く長く盛り上がっていた。
二人で布団の傍に座り、母さんは祖父にかけられた真っ白な布をそっと持ち上げる。現れた祖父の顔は面長で、うっすらと白い髭に覆われていた。例えようのない白さの皮膚は頬骨に張りつき輪郭を浮かび上がらせる。亡くなっているはずの祖父の口角はわずかに持ち上がっていて、けれど苦し気にも見える。
懐かしさに似た感情と悲しみが入り交じり胸の内で渦を巻く。
幼いぼくはこの人と共に喫茶店に入りクリームソーダを飲んだ。その実感はまるでなく、写真を見た時のような衝撃もない。理由を考えても思いつかず、この部屋のせいとも思いたかった。今日までずっと不確かだった祖父の顔は記憶の中に当て填められ、その姿は完成する。そうなることを望んでいた。
「通夜はもう終わっている。明日には告別式をして、それで―」
純一さんはゆっくりと、言葉を切った。わずかに漏れて聞こえる声にぼくは横を見る。
母さんが震えていた。
助けを求めて祖父の顔を見るけど、出会ったばかりの祖父は二度と口も目も開くことはない。
ぼくの肩に手が置かれ、そこから温かみが伝わってくる。
「そっとしておこうか」
促されるままに立ち上がり、純一さんと一緒に部屋を出る。襖を閉めきる瞬間、母さんが畳みに突っ伏す姿が目に映った。
「トイ―、お手洗いってどこにありますか」
純一さんは笑って教えてくれた。
背中からいつまでも母のすすり泣く声が聞こえてくるようだった。
「一緒に行こうか」
笑顔を絶やさない純一さんを丁寧に断って、邸宅内を迷いながらも―やっぱり時折、高平の親戚であろう人達に尋ねながら―トイレに辿り着いた時にはちょっとだけ危なかった。純一さんが提案するのも、うなずけた。
貯まっていたものを出し切って、トイレを出る。どこからか、賑やかな高平家内の喧騒が聞こえてきていた。
純一さんが言うには明日、告別式を行い、そのまま火葬場に祖父を運ぶ。その後、お寺に祖父の遺骨を納める。ぼくらはそこで別れて帰路に着くのだろう。
祖父の眠る部屋に戻るべきなのだけれど、きっと母さんは今も泣いているだろう。それを聞かれたくはないだろうし、ぼくとしても声のかけ方が分からない。純一さんは高平家の長男なのだから、忙しくしているのは簡単に想像できる。初めてとはいえトイレに行くまでに迷うような広さの家で再開できる気はしない。
結局、出来ることもない。歩き回って変に勘ぐられるのも嫌だし、素直に来た道を戻って母さんと合流しよう。荷物だって部屋の前に置きっぱなしだ。そう思って一歩を踏み出した時だった。
鼻の辺りを香りが漂う。
辺りを見回す。聞いたことのない蝉の音だけが耳に届く。
不思議な香りのそれは決して鼻を突くようなものではない。ともすれば消えてしまいそうな香りは、どこかで嗅いだことのあるような気にすらさせられる。もう少しで思い出せそうだと鼻を動かすと自然と足も動き出した。
香りを辿ったぼくの足は階段の前で止まる。香りの元はその先にあるようだった。少しだけためらってから片足を階段に乗せた。木材の軋む音に一歩ずつ丁寧に上がる。最後の一段に足が着き顔を上げると、暗い色をした木目の扉が姿を見せていた。わずかに開いた扉の隙間から、風の流れを感じる。
そっと扉を引いて、部屋に入る。
正面の窓は開いていて、掛けられた藁のすだれが揺れて風が通る。隙間から青空がのぞき、明かりはないが暗いという程でもなかった。階下の喧騒が遠くのことのようにさざめいている。
窓の下に座卓と座椅子が揃えられてある。机上にはブックスタンドに挟まれて数冊の本とノートが立てて置かれ、万年筆と平行に並んでいる大学ノートはまだ新しかった。
「書斎、だよな」
部屋の中はそれほど広くはない。人が三人もいれば狭さを感じる程度だ。多分、この部屋の持ち主は一人で籠っていたのだと思う。誰が使っていたのか。ある種の確信はあるけど、それはぼくの希望でしかない。
部屋の中を見回す。背の低い本棚には文庫が並び、同じように背は低いけれど明るい肌色の箪笥が目を引く。引き出しの取手を引くと音も無く滑った。中は着物が綺麗に整頓してある。恐ろしさすら感じる並びに触れることが怖くなり、持ち手をそのまま押して戻した。
再び机上に視線を戻す。万年筆の横の大学ノートを手に取る。表紙には、ひと月前の日付が書かれてあった。表紙をめくると、いわゆる達筆で書かれた日本語が並び、読むのに若干の難しさを感じた。
「六月三十日。快晴。節々の調子はいいが、ここ数日の暑さに身も堪える。先日の大雨のせいで収穫が少し遅れることになりそうだ。それはそうと純一の娘が顔を覗かせに来た。会社ではうまくやっているようだ。あの子は負けん気が強いから心配だ。そういえば―」
日記だ。一日の分量がページの半分にも満たない日もあれば、跨ぐほどの日もある。数ページだけを読んでから大学ノートを戻し、ブックスタンドに挟まれた本の背を指でなぞって別の大学ノートを探す。辿っていけば、この部屋の主の残した昔の日記にあたるはずだ。希望は確信に変わりつつあった。
「たいした度胸だね」
突然、聞こえてきた声に体が跳ね上がる。おそるおそる振り返ると、老婆が立っていた。孫を咎めるように祖母は眉根を寄せる。
「あたしだって滅多に入ったことのない部屋だよ」
口角を持ち上げた祖母が部屋の出入り口を塞ぐ。杖を突いてはいるものの、階段を昇る音が聞こえてこなかったあたり、本当に足腰が悪いようには思えなかった。
「いや、あの、その、盗もうとか、まったく考えてないです」
「別に勝手にすりゃいい。誰も気づきもしないだろうさ」
こちらを見もしないで放つ祖母の言葉は冷たく突き刺さる。
「けれど、何か持っていくときはあたしに言っとくれ。あんただって盗人にはなりたくないだろう。あたしだって、あんたを悪く言うのは勘弁だからね」
何度もうなずいて返すほかない。それを見てから祖母はぐるりと部屋を見回し、何かを呟くと背中をむけた。
「あんた」
ほんの少しの気の緩みも許さない祖母の言葉に背筋が伸びた。
「いま、どんな気持ちなんだい」祖母は背中をむけたままだ。
「正直に言って分からないです。悲しいのか、そう思っているだけなのか。―別のことも考えているし」
すだれが波を打ち、お祖母さんの着物の裾が静かに揺れる。
「それでいいよ」祖母は振り返らずに答えた。
「あ、あの」
慌てて呼ぶと祖母は動きを止めた。
「祖父は―お祖父さんは、俺と会ったことはありましたか」
祖母は首を振る。「放浪癖のある人だったけど、あたしの記憶がボケてなきゃ、そんなことはなかったと思うけどね。あの人だって秘密にはしないだろうさ」
果たしてそうだろうか。疑問に思いながらも、ぼくは次の質問を口にする。
「お祖父さんは超能力を使えたりはしましたか」
立て続けに繰り出された質問に祖母は勢いよく振り返り、眼鏡の奥で丸くなった目は驚愕に満ちていた。「どうして、そのことを」とすら聞こえてくるようだった。
「誰にも言うんじゃないよ」
表情を正した祖母の言葉は真っ直ぐにぼくを射貫く。大きくうなずくと祖母は何も言わずに階段を降っていった。
置いていかれたような感覚がある。
なんともなしにまた大学ノートに手を伸ばした。部屋を出ればいいのに、なぜか手持ち無沙汰に感じてしまっている。
祖父の日記をふたたびめくる。読みづらく、けれど文字には字面以上の意味が込められているようにも思えた。ノートのページに書かれた文字は、めくるにつれて段々と泳いでいく。短かった文章はやがて単語の並びに変わり、最後のページにはわずかに一文だけが、入らない力を込めて書かれてあった。
「慶次、龍太郎、すまなかった」
ぼくの口からこぼれたお祖父さんの文字に、意識を乗っ取られそうになる。ページには円状に乾いた跡が何個も残っていた。
「江古島に帰りたい。また四人で笑い合いたかった」
死の輪際に祖父が落としたであろう涙に文字は滲み、視線はそこに吸い込まれる。必死に刻み込まれた文字から目を離すことは難しかった。
少しだけ探した結果、部屋にある祖父の日記はここ半年分の分だけのようだった。それ以上昔の日記は、別のところに保管されているのだとしても探す気は起きなかった。
気付けば祖父のノートを丸めて握りしめていた。
鋼鉄の口から台座に乗せられて出てきた祖父の姿が、脳裏に焼き付いて離れずにいた。
太陽は空に高く、暑さに比例するかのように蝉は元気に鳴いている。純一さんに聞くと、あの種類の蝉は関東にはいないらしい。木陰の下に立つとより一層に蝉の音の激しさが増す。立っているだけなのに汗は止まらず、吹く風は少しも涼しさを運ばない。さっきからハンドタオルで数秒置きに顔を拭っている。
広い霊園の外れの木陰の下から、ぼくと母さんは並んで黒い服の人だかりを見ている。
「ここが骨折の跡ですね」
脳裏に甦った言葉に意識は火葬場に引き戻される。
冷たい石の床の火葬場はすすり泣きに満ちていた。葬儀場の人が指し示した個所を見ると、台座上の祖父の股関節の辺りは、もうほとんど粉になっていた。
ぼうっと祖父の頭蓋骨を眺めている。焼いてもなお残された頭蓋の上部分にぽっかりと空いた二つの空洞は、ぼくの顔を正面から見据え、何かを伝えようとしているようにも見える。
葬儀場の人が箸を祖母に渡す。祖母は純一さんに支えられて欠片を骨壺に納める。先頭から順に箸が回され、母さんも―最初は渋っていたけれど―受け取ると祖父の骨を納めた。ぼくも母さんから受け取り、小さな一欠けらを骨壺に納める。
壺に集められた祖父に蓋をして紐で閉じる。祖父の入った壺はきらびやかな箱に納められた。今更になって祖父の、あの姿が見られなくなったことに気付いてしまった。
「もう終わったみたいね」
母さんの言葉に我に返る。意識を前に向ければ、人だかりは細く長くなっていた。先頭を歩く純一さんがぼくらに笑顔を向ける。ここまで来ると泣き声よりも笑い声の方が多くなっていた。きっとお祖父さんの思い出話をしているのだろう。ぼくはそれに混ざることはできない。
エンジンの音が聞こえてきて霊園の駐車場にバスが姿を見せた。大きく料理店の名前の入った車体に高平家の親戚が乗り込んでいく。
「おーい、陽太君」純一さんは手でぼくを招き、歩み寄ると皆が興味深げにぼくを見る。「これを君に」
バスに乗り込む高平の親類の横で純一さんは、ぼくの手を取って隠すように茶封筒を握らせる。それなりの厚みがあった。表には「千和の子ども達へ」と癖のある字で書かれてある。日記の文字とは違うものだと一目見て分かった。
「これって」
「今までのお小遣いだよ。入学祝とかお年玉とかも含めたね」
封筒の口を開いてのぞき込むと、けっこうな枚数が入っていた。
「こんなに受け取れません。お金が欲しくて来たわけじゃないし」
「期待はしていたんじゃないのか。いいから貰ってくれ。俺がお袋に怒られちまうよ」
「お祖母さんが」
祖母の姿を探すと、先にバスに乗り込んでいたらしく目が合った。祖母は相変わらずの表情だったけれど、車窓越しに何かを呟く。
「きっと必要になるってさ。陽太君の進学資金にして欲しいんだと思う」
しばらく見合っていたけど、祖母から視線を切った。ぼくは茶封筒に視線を落とす。
「大切に使います」
「一応、言っておくけど、お姉さんと二人で分けて使ってくれよ」
笑ってうなずく。「また今度、遊びに行ってもいいですか」
「もちろん。いつでも待ってるよ」
純一さんは手を振って離れていく。少しして純一さんと家族の乗る、白のワンボックスが駐車場から出てきた。ぼくと母さんの待つバスが来るまではまだ時間がある。ワンボックスが霊園から離れていくのを見送ってから、木陰の下へと戻った。
「純一と何を話してたのよ」
「いつでも遊びにおいでって」
白のワンボックスの後を追って、バスが走り出した。祖母を見つけると視線があったような気がして小さく会釈する。顔を上げた時、祖母の目が細くなっていたように見えたのは、ぼくの願望だろう。
「空港で、お土産でも買って帰ろうか。それとも観光していく?」
母さんの声音は憑き物が落ちたようにすっきりしていた。いつもの調子に戻った母さんの提案も、ぼくの中には辛うじて留まるだけだ。
「江古島に帰りたい」
「何か言った?」
「いや何も」
やがて霊園の出入り口に待っていたバスが現れて、木陰の下からバス停に走りだす。欠伸をしながらのんびりと待つ運転手に、わざわざ走ることも無かったなと座ってから思った。