高平邸にて①
思い出から目覚めると、隣席の母さんが覗きこんでいた。
まだはっきりしない意識にクッションの厚い座席はとても心地が良い。いつもだったらもう一度目を閉じていたかもしれない。でも、自分が何のためにここにいるのかを思い出すと、重いはずの瞼は自然と持ち上がっていた。
「もう着いた?」
「もうすぐ着陸するってアナウンスがあったから起こそうと思ったんだけど、あんたってタイミングの良い子よね」
母さんの言葉に一瞬、身が強張る。膝に違和感が走ったようで守るようになぞった。「まあね」と返してから機内の様子を伺うと、どことなく落ち着きのない気配が漂っている。気配は音になって目覚めつつある意識に届く。煩わしいという程のものでもなく、むしろ心地良ささえもある。
「ふぁ」と欠伸が出た。空いた口に空気が入り込む。まだ舌の上に冷たさと香りが残っているようで口元を覆う。おぼろげになりつつある記憶を少しでも留めておきたかった。
「もう着くんだ。早くね」
「二時間ぐらいだから寝る時間なんて、ほとんどないって言ったわよ」
「昨日は緊張して、あんまり寝られなかったんだよ」
「そんなにナイーブな子だったかしら」
「母さんは緊張しないんだ?」
「あんたじゃないんだから緊張しないわよ。早くベルトして」
母さんの見様見真似でシートベルトを装着して顔を上げると、こちらの様子を伺っていたのか添乗員さんの一人と視線が合った。ベルトが装着されたことを確認した添乗員さんは微笑んでから、緊張した面持ちの乗客たちに笑顔をむけ、自分たちの席に戻って行く。
いよいよもって着陸の時間が迫っていた。離陸したのだから当たり前のことだ。ずっと飛んでいるわけにもいかない。当たり前のことに緊張し、目覚めつつある意識が鼓動を早くする。体の中に残っていた眠気が最後にもう一度、欠伸となって出ていった。
「ねえ、見て見て」
母さんに促されて窓から外を見る。眼下に市街地が広がっていた。飛行機は市街の中心にある空港に確実に近づいていた。
「すごいわねぇ、本当に街の上を飛んでいるわ。落ちたら大変なことになるわよね。大丈夫なのかしら」
複雑に絡まり合った道路の間を敷き詰めるようにビルが並んでいた。道路上を走る車の規則的な流れは面白くて目を奪われるけど、景色はあっという間に後方へと置いていかれる。空に浮かぶ雲よりもビルとの距離が近づいていることに自然と腕に力が入る。
「あんた緊張し過ぎよ」母さんが苦笑いを浮かべる。
飛行機の速度が落ちているようには感じない。窓から見える景色に灰色の滑走路が映った時、飛行機が大きく揺れた。その衝撃に体が鞭を打ち機内を悲鳴が走る、ということはなく―ちょっとは悲鳴が上がったけど―飛行機は音を立てながらも滑走路をひた走る。
小刻みに振動する自分の目からも、飛行機の速度が緩くなっているのが分かり、しばらく滑走路を走った後に飛行機は完全に停止した。
「着いた」
思わずこぼれた独り言に、母さんが小さく噴きだした。
機内を流れるアナウンスと添乗員さん達の案内の下、乗客たちは思い思いに立ち上がり荷物を取り無秩序に機内を出ていく。荷物を持った母さんに続いて立ち上がり、列にならない列に漏れることなく続いていく。観光客に混じって飛行機を降り連絡通路を順路に従って進む。途中で預けていた荷物を受け取ると、いよいよ到着口の終わりが見えた。
「ほんとうにあっという間だった。早いね」
隣を歩く母さんから返事がない。覗き込むと母さんの顔に感情が無かった。悲しみに歪むというよりも電源の落ちたロボットのような顔をしている。
「もしかして緊張してる?」
「そんなことないわよ」
「本当に?さっきはあんなこと言ってたくせに?」
「しつこいわね」
「頼りになるの母さんだけなんだから、しっかりしてくれよ」
「あんた、自分から行きたいって言い出したくせに」
「それで、タクシーとバス、どっち?」
「タクシーで行こうと―」
母さんが足を止めた。視線はまっすぐ先を見ている。到着口の正面出口に黒いネクタイをしめたスーツ姿の男性が立っているのが見えた。
スーツの男性はぼくらが目当てだったのか、こちらに歩み寄って来た。細身のスーツから覗く肌は真っ黒に焼けている。整えられてある髪には白いものも混じっていたけど、きびきびとした歩き方にはまだ若さを感じる。しかめ面だった男性は近づくにつれて、表情が柔らかくなっていた。
「純一」母さんは独り言のように男性の名を呼んだ。
「久しぶりだな、姉貴」
腕を組んで構える母さんとは対照的に、純一と呼ばれた男性はどこか照れくさそうに微笑む。浅黒い肌に刻み込まれた深い笑窪と、細く重なった目尻の皺からは優し気な印象を受ける。
「何しに来たのよ」
「何しにって、姉貴たちを迎えに来たんだよ」言ってから純一さんはこっちを見た。
「いらないわよ、タクシーで行くんだから」
純一さんは肩をすくめる。「十数年ぶりの再会だってのに、弟の言うことを聞いてくれてもいいだろう」
「嫌よ。陽太、行くわよ」
母さんはぼくの腕をむんずと掴みエスカレーターの方へと早足に歩きだす。
「ちょ、ちょっと、母さん」
「何よ」
「せっかくだから好意に甘えてもいいんじゃないの。結局は同じ方向に向かうわけだし。ガソリン代とかも色々かかっていると思うよ」
母さんが睨む。母さんと実家の間に因縁めいたものがあるのは知っているけれど、快適な空港内とは違って外はきっと茹だるような暑さが広がっているに違いない。タクシーを待つよりも迎えに来てくれている人の車に乗る方が少しでも楽だろうに。
「息子君も賛成してくれているぞ」
振り返ると後を追って来ていたらしく、純一さんが笑って立っていた。
母さんはぼくと純一さんとを交互に睨んでいたけど、しばらくして純一さんに近づき自分の荷物の詰まった鞄を無理矢理に押し付けた。
「車までの荷物持ちはお願いするわね。わたし、すごく疲れてるから」
「姉貴はちっとも変わってないな」
母さんは独りでエスカレーターへと早足でむかう。鞄を両手で抱え呆れた様子の純一さんだったけど、目が合って―出会ったばかりの―純一さんと隠れて肩をすくめた。
「俺は高平純一。高平家の長男で農家をやっている。君のお母さん、千和の弟だ」
笑顔で差し出された右手を握り返す。純一さんの陽に焼けた指は細いのに固く、力強かった。
「母さんの、息子の、下野陽太です。高校生です」とっさに頭の中に浮かんだ単語を並べて発する。さっきは母さんに、あんなことを言ったけど大して変わらないようだった。
「陽太君も疲れているのなら荷物を持つよ」
「平気です。飛行機の中で寝ていましたから」
「なかなかの大物だね。じゃあ行こうか」
さっさと上階に姿を消した母さんを追って、ぼくらもエスカレーターに乗る。母さんの荷物を持ちエスカレーターの左側に立つ純一さんに、期待通りというべきか外れというべきか、小さく笑った。
「君ら二人だけかな?」純一さんに気付いた様子はない。
「父さんと姉さんは仕事で来れないみたいです」
「そうか。でも、来てくれただけでも嬉しいよ」
エスカレーターが上がるにつれて、飛行機から見下ろしていた市街地が姿を見せるようになり、製薬会社の看板がひと際、派手に目に飛び込んできた。
「本当に街の中に空港があるんですね」
「驚くよなあ。俺も驚いたからな。もっと別の所に造ったほうが安全だろうって」
エスカレーターで二階に上がると一気に空気が爆発した。検査場にもATMにも、すこし遠くに見えるフードコートにも長蛇の列が並び、まるで通り抜ける隙間もない。絶え間なく続く旅行者の流れに加えて、振り返れば派手に彩られた土産物屋にも人だかりが出来上がっていた。七月末の空港は旅行者の持つ活気で満ちていた。
呆気に取られていると純一さんは顔をほころばせる。
「すごいだろ。毎年この時期は他所からのお客さんが多くてなあ。まあ不便に思うこともあるけど盛り上がるのはいいことだ。葬式が終わったら、ここで買い物していくといい。ここでしか買えない物もあるから友達のお土産にもいいぞ」
葬式という言葉に反して、純一さんの雰囲気は明るかった。それが奇異に映る。
「悲しくはないですか」
小さな疑問は芽生えたのと同時に言葉になってぼくの口から離れる。それは捕まえることも出来ずに、純一さんの耳に届いていた。純一さんは何度か瞬きを繰り返しゆっくりと笑みを作る。
「陽太君の言いたいこともわかる。けどな、なんというか、そういうものなんだって割り切っているからさ」純一さんは人差し指を鼻の下に当てる。「それに昔から祖父母の葬式は孫の祭りだっていうだろう。親父も明るくやってくれたほうが気分はいいだろうさ」
「どうだか」
空港の出入り口で待っていたらしい母さんは目つきを鋭くして言葉を吐き捨てる。思わず純一さんと顔を見合わせた。
あからさまに不機嫌な母さんを先頭に―お土産屋さん見て回りたい思いを残しながらも―空港を出ると、待っていたと言わんばかりに猛烈な熱気が迫って来た。関東とはまた違った暑さに、すぐに汗が玉になって肌に浮かぶ。立体駐車場に停めてある自動車の姿が、揺らめいてすら見える。
「暑い」口を開けるだけで水分が持っていかれそうだ。
「だよなあ。昔よりもずっと暑くなっている気がするよ」
「純一。車、どれよ」
純一さんが自動車のキーを突き出してスイッチを押すと、「ここですよ」と近くに停まっていた白のワンボックスが光った。スライドドアを引けば、まだエアコンに冷やされた空気がわずかに残っている。後部席に荷物を積んで助手席に、母さんはそれを隅に追いやって席に乗った。
「緊張しているかい?」
「けっこうしています」
「先に観光していくのはどうかな?少しは楽になると思うよ」
「帰るときに」
純一さんとのやり取りに母さんは「早く行け」と暗に鼻を鳴らし、純一さんは笑ってエンジンを入れた。エアコンの吐き出す冷えた空気に体から汗が引いていく。
「さあ、行こうか」
純一さんは意気揚々とアクセルを踏む。立体駐車場を出ると、すぐにも市街地が広がった。ビルの並びは都内と似ていて、それでも所々の細かい―看板などの―装飾は違っている。普段見ている景色とは似て非なる雰囲気に、気分が浮つき始めているのは否定できない。純一さんの言葉を借りるのなら、確かに祖父の葬式はぼくにとって祭りに近いのかもしれない。
母さんは実家と仲が悪いらしい。
そのせいか、ぼくを含めた下野一家が母方の両親に、つまりは祖父母にあたる高平の家に行ったことは一度も無い。
まったく気付いていないわけではなかった。幼いぼくは「どうして、お母さんのお父さんはいないの」と無邪気にも尋ね、困ったらしい母さんは渋い顔で言葉を濁すだけだった。
父さんはといえば口を―本人はきつく結んでいるつもりだろうけどー妙にうねらせながら幼いぼくをじっと見て「これは大人の事情なんだ。陽太がもう少し大人になったら話すよ」と頭を優しく叩くだけだった。
「大喧嘩したらしいよ」
そう教えてくれたのは中学生の頃に何気なく姉さんに尋ねた時だった。さらに姉さんはぼくの脇腹に肘鉄を喰らわせ「あたしから聞いたって話したら、ぶっ殺すから」と念を押した。
その姉さんが誰から聞いたのかは程なくして分かった。近場に住む母さんのもう一人の弟の浩介叔父さんは、まるで世間話でもするかのように話してくれた。曰く「勘当されたかもしれない」とのことらしい。
「寅一っていうんだよ。俺たちの親父」
家に遊びに来た時に浩介叔父さんは写真をこっそりと見せてくれた。色の鮮やかな家族写真のその中央には着物の姿の細身の男性が写っていた。
どこかで見たと思った時には幼き日の記憶が甦っていた。思い出の老人と写真の男性の輪郭が瞬時に重なる。ぼくは写真に手を伸ばしていた。
写真を手にすることはなかった。背後から母さんの足音を察した浩介叔父さんは、素早く写真を隠した。写真を見ることの出来た時間は一秒にも満たなかった。それでも写真は瞳に焼き付いて消えない。
「はっきり教えてくれよ」
何としても知りたかったぼくは浩介叔父さんに詰め寄るも「俺が喋っていいことじゃないんだ」と逃げられた。その叔父さんもぼくらに先立って実家に帰っている。
要するにそういうことなのだ。フィクションにはそんな話が溢れているから、想像するのもそんなに難しくない。何かしらの出来事がきっかけで母さんは祖父母と喧嘩して、家を出たっきりなんだ。誰にだって聞かれたくないことの一つや二つは持っている。だから、ぼくも無暗に聞くようなことはしない。
父さんがふと漏らすように「寂しいか?」と尋ねたこともあった。ぼくは「そんなことないよ」と返した。実際に父さん方の祖父母にぼくら姉弟以外の孫がいないこともあって、ずいぶんと可愛がられていた。
何よりぼくには忘れられない思い出がある。
やがて母さんと祖父母との関係に対する疑問も自然に失せた頃、突然に我が家に訪れた祖父の訃報は疑問を再燃させるには充分な出来事だった。受話器を持ったまま固まった母さんの表情はこの世の終わりを感じさせるほどだった。
母さんはぼくらを葬式に参加させたくなかったらしく、どうしても外せない重要な仕事があることにして父さんと姉さんを遠ざけた。多分、ぼくが口を開かなかったら母さんは独りで行っただろう。
「俺も一緒に行く」
荷造りしていた手を止めて母さんは顔をしかめた。
「急いで荷造りしてね。一泊分。向こうのビジネスホテルに泊まるから」
視線を落として準備を再開する母さんとは別のことを考えていた。
あの思い出が本当にあったことなのか。
思い出の老人が父さん方の祖父ではないことは言い切れる。彼はずいぶんと丸い体型で、それに似合わず遊びに来る時は、随時連絡をくれる程に几帳面な人だった。その性格は今も変わらない。
もう当人に確かめることはできない。でももし本当の出来事であるならば、周りの人が当時の事を覚えている可能性はある。なにせ仲の悪かった娘一家の下をたった一人で訪れたのだ。それを話していることも十分に考えられた。
顔も名前も知らなかった人との思い出を確かめるために母さんと共に飛行機に乗り、いま高平家の人の運転する車に揺られている。
「質問してもいいですか」
市街地を抜けた途端、山々を背にして田んぼや畑が広がった。青空に照らされて道路には逃げ水がゆらゆらと立ち昇っている。これが母さんの育った景色なのかと視線を後ろに移せば、母さんは車窓から外の風景を眺めていた。
「運転に集中できないものはよしてくれよ」純一さんは出会ってからずっと朗らかだ。
「お祖父さん、ええと寅一さんって、どんな人だったんですか」
「陽太君は親父に会ったことは無いんだっけか」
「ないわよ」
後ろに座る母さんが答えた。ぼくは黙っている。母さんだけと言わず家族は、ぼくに祖父との思い出があることを知らない。仮に誰かに話したとしても「果たして、それを思い出と呼ぶのだろうか」と首を傾げられるのは分かっている。
純一さんはしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。「そうだなあ、まあ静かな人だったよ。あまり口を開くことがなかった。叱りつけるのはお袋と爺さんの仕事でな。親父は珍しく婿入りだったから、あまり言える立場の人じゃなかったんだ」
「あたしも叱られた記憶がないわ」
「何もしない人だったんですか」
「そんなことはないさ、畑仕事もしていたよ。そうだ、一度だけ田んぼを勝手に売ったことがあったな。あの時は、お袋にずいぶんと怒られていたな」
「そんなことあったの?」
「姉貴はもう家を出ていたからな」
「何か理由があったんですかね」
「さあ。もう聞けないからなあ」
懐かしむように純一さんは目を細くする。「静かな人だったんだよ。本当に」
「体は大きい人でしたか」思い出の祖父は細い白木のような姿だった。
「いやあ、細い人でさ。時代とか年もあったんだろうけど食も細くてな。あまり箸を着けない人だったよ。出されたものは美味しいって食べてくれたんだけどな」
「枯れ木みたいな感じですか」
言ってから焦った。隣を見ると純一さんは前を向いたままだった。
「俺の親父だからあんまりひどく言わないで欲しいが、あながち間違いとも言えないのが悲しいな」ハンドルを切りながら純一さんは笑う。「姉貴とはうちの話をしないのか」
「実は初めてです」
「そうか。じゃ、これを機にうちのことを色々と知ってくれよな」
「はい」
後ろの席で母さんが盛大に鼻をならした。祖父が亡くなった知らせを受けた時は沈んでいるような様子だったのに、こっちに着いてからは態度が一変している。普段だってここまで機嫌が悪くなることは滅多にない。
「陽太君の母さん、ずっと荒れているけど調子でも悪いのか」おそらく原因のひとつであろう純一さんはとぼけた様子で聞いてくる。
「飛行機を降りてからずっとこんな感じですよ。多分、気に入らない事があったんだと思います」ぼくもおどけて返す。
ハンドルを握ったまま純一さんが大笑いした。振り返ると母さんの態度も、少し穏やかになっている気がした。純一さんに当てられたのかのだろうか。
「これは将来有望だなあ。なあ姉貴?」
「あんた、ずいぶん世渡り上手じゃない」
「俺もさ、ずっと姉ちゃんに酷い目に合わされているからさ。自然とそうなるよね」
「お互い、姉を持つと大変だよなあ」
「姉ちゃんの機嫌が悪い時は嫌だなって思います」
「理不尽な要求が来るからなあ。陽太君のお姉さんも同じかい」
うなずいて返すと、純一さんは心底可笑しそうに笑った。「お姉さんにも姉貴の血がしっかり流れているわけだ。俺たち気が合いそうだな」
純一さんは片手でぼくの肩を叩き、母さんは笑いを我慢したような顔で視線を外に移した。空港であった時よりも雰囲気は和やかになったと思う。
「もうひとついいですか」
「何でも聞いてくれ」
「お祖父さんって特技とかありましたか」
「特技か」純一さんは噛み砕くように呟いた。「うーん、釣りとかってことかい」
「そんな感じのやつです。何でもいいから知りたくて」
まさか初対面の人に「お祖父さんは超能力が使えましたか」とは聞けない。
「釣りは上手でしたか」
「まあ上手かった。あちこち連れて行ってくれたよ。スズキとかクロダイとか釣ってたな」
「俺も教わりたかったです」
「いつでも教えてあげるよ」笑いながら純一さんは宙で竿を振る。
「手先が器用だったこととかありましたか」
「どうだったかな。手品を見せてくれたことはなかったけどな。何かあったかな」
「触らずに物を動かすマジック出来たとか」
「それは手品よりも超能力じゃないかな」
「じゃあ、超能力が使えたとか」
純一さんはぼくを笑うことはしなかった。「うーん」と言って考え込む。「あんまり思い当たることがないなあ。特技かぁ。達筆だったことか、いや将棋が強かったくらいか。ううん分からん。力になれなくてごめんな」
「すいません。突拍子もないこと聞いて」
「いや、俺も嬉しいよ。思い出せたら、こっちから教えるからさ」
切り出し方も質問の内容も考えるのが難しい。お葬式が終わるまでに、わずかでも手掛かりを見つけられるだろうか。
「あとお祖父さんって―」背中に視線を感じて言葉を切る。何気なしに後部座席に振り返った。
母さんが目を見開いていた。
「もうすぐ着くぞ」
純一さんの言葉に緊張が解かれる。母さんは何事もなかったかのように再び外に顔を向けた。ほっとしたのも束の間、路駐してある自動車が姿を見せ始める。数が増し、まるで数珠つなぎのように停まる自動車を横目に進むと、雑木林を背に都内では、お目にかかれないような広さの庭と大きな日本家屋が現れた。
「うわ、すごい数」「すごいですね」
母さんとほとんど同じタイミングで別々の感想を述べる。屋敷とも呼べる母さんの実家の玄関やら庭やらを喪服に身を包んだ人たちが行き来していた。賑わうという言葉を使うべきではないかもしれないけど、それが一番当てはまるようにも思える。
「結構な有名人だったんですね」
「娯楽がないのよ。何でもいいから刺激が欲しいの」
「そんな言い方はないだろ」
「遠からずだなあ。まっ、お互い様だよ」
乾いた声で笑う純一さんは、長蛇の縦列駐車を横に家の裏手に回っていく。砂利の敷かれた駐車場のような場所にも、まだ車が数多く停められてあった。
「到着だ」
助手席の扉を開けた途端に出迎えてくれのはやっぱり暑さだった。純一さんの車に乗って来たのが正解だったと思いつつも周囲を見回すと、到着に気付いたらしい喪服姿の何人かが顔を寄せ合っていた。遠目にも口元が動いているのが見えて、何となく居心地が悪い。母さんは背を向けて後部席から荷物を引っ張り出していた。
「ほら、自分の荷物持って」
荷物を受け取ると「気にしない方がいいわよ」と母さんは素知らぬ顔で高平邸へと歩き出す。どことなく頼もしさを感じる母親の後を追う。
「機嫌がよくなった?」
「どうだろうな」純一さんが隣を歩く。
「あ、そうだ」母さんが急に振り返った。ぼくと純一さんは歩みを止める。
「あとでビジネスホテルに連絡いれなきゃ。純一、キャンセル料はもってくれるわよね」
「あ、ああ。分かったよ」
母さんはニヤリと笑ってまた歩き出した。ぼくらは母さんに隠れて苦笑する。到着した頃に比べれば、大分マシになっているのかもしれない。
下野陽太の一人称が俺とぼくとで違っているのは、どうにか精神的に大人と子供と行き来する思春期を表現できないかと迷った結果です。